津・四天王寺:旧塔世村。伝・聖徳太子建立。織田信包(信長弟)再建。彼らの母・土田御前墓あり。空襲で国宝・重文の仏像など文化財は殆ど焼失。
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津・四天王寺:旧塔世村。伝・聖徳太子建立。織田信包(信長弟)再建。彼らの母・土田御前墓あり。空襲で国宝・重文の仏像など文化財は殆ど焼失。
安濃川:塔世橋:森は四天王寺。江戸期は土橋、明治に板橋。錫杖ヶ岳〜雲林院〜椋本〜津が流域。「安乃津・洞津・安濃津」神宮所領多し。洪水頻発・津藩築堤治水。岩田川と連携し堰。津城北の外堀。
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安濃川:塔世橋:森は四天王寺。江戸期は土橋、明治に板橋。錫杖ヶ岳〜雲林院〜椋本〜津が流域。「安乃津・洞津・安濃津」神宮所領多し。洪水頻発・津藩築堤治水。岩田川と連携し堰。津城北の外堀。
塔世橋南詰:戦争中の激しい津空襲傷跡。当時欄干に残る傷跡。安濃川と岩田川に挟まれた市中心地は壊滅的被害。死者約二千五百、全損家屋一万以上。
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塔世橋南詰:戦争中の激しい津空襲傷跡。当時欄干に残る傷跡。安濃川と岩田川に挟まれた市中心地は壊滅的被害。死者約二千五百、全損家屋一万以上。
大門:平治煎餅「阿漕平治」母思いの漁師。病弱な母に「ヤガラ・魚」禁漁区で漁。置き忘れ笠で犯人発覚。簀巻きで阿漕浦に沈められる。阿漕な・・。平治笠をモチーフとした素朴な煎餅は津代表的和菓子。
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大門:平治煎餅「阿漕平治」母思いの漁師。病弱な母に「ヤガラ・魚」禁漁区で漁。置き忘れ笠で犯人発覚。簀巻きで阿漕浦に沈められる。阿漕な・・。平治笠をモチーフとした素朴な煎餅は津代表的和菓子。
津観音前道標「右さんぐう 左こうのあみだ」津観音は709年阿漕浦漁夫網に聖観音立像・伝。これを祀り開山。「恵日山観音寺大宝院」浅草・大須とならんで日本三観音の一つ。
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津観音前道標「右さんぐう 左こうのあみだ」津観音は709年阿漕浦漁夫網に聖観音立像・伝。これを祀り開山。「恵日山観音寺大宝院」浅草・大須とならんで日本三観音の一つ。
津観音:鎌倉〜室町期までは浜辺付近で堂宇多し。1498年明応大地震で津港一帯壊滅。日本三津良港が遠浅の浜に。1580年頃・織田信包再興。高虎が本格的再建。北畠旧臣娘・家康側室「於奈津」が関係。
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津観音:鎌倉〜室町期までは浜辺付近で堂宇多し。1498年明応大地震で津港一帯壊滅。日本三津良港が遠浅の浜に。1580年頃・織田信包再興。高虎が本格的再建。北畠旧臣娘・家康側室「於奈津」が関係。
津観音:絵画・仏像・古文書多数。燈籠・梵鐘は津の鋳物師・辻家による。「国府・阿弥陀如来」秘仏。江戸期に江戸へ運び出開帳。参宮往復時に参拝者増加「阿弥陀に詣らねば片参宮」阿弥陀は天照大神本地仏。
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津観音:絵画・仏像・古文書多数。燈籠・梵鐘は津の鋳物師・辻家による。「国府・阿弥陀如来」秘仏。江戸期に江戸へ運び出開帳。参宮往復時に参拝者増加「阿弥陀に詣らねば片参宮」阿弥陀は天照大神本地仏。
津観音から南に伸びる参宮街道:写真百五銀行周囲に本陣、脇本陣、問屋が立ち並ぶ。「津は町や道路がただ広くて何もない」とよく聞くが、空襲で古い建物や町並みは全て焼失した悲しみ。
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津観音から南に伸びる参宮街道:写真百五銀行周囲に本陣、脇本陣、問屋が立ち並ぶ。「津は町や道路がただ広くて何もない」とよく聞くが、空襲で古い建物や町並みは全て焼失した悲しみ。
津城:長野氏庶流・細野氏砦を信包1580年五重天主城に。秀吉家臣富田氏が入り徳川方に。藤堂家1608年津藩主で明治まで。石垣のみ。三層角櫓再建。北が京口大手門、西が伊賀口門で伊賀街道長野峠越で伊賀上野連絡。
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津城:長野氏庶流・細野氏砦を信包1580年五重天主城に。秀吉家臣富田氏が入り徳川方に。藤堂家1608年津藩主で明治まで。石垣のみ。三層角櫓再建。北が京口大手門、西が伊賀口門で伊賀街道長野峠越で伊賀上野連絡。
分部町:長野氏庶流・分部氏と関連。津祭では唐人踊り担当。江戸期朝鮮通信使を表した踊り行列。結城神社隣にある津八幡社祭では風流行列を祭で展開。「津八幡神社祭礼絵巻」に詳しく描画。
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分部町:長野氏庶流・分部氏と関連。津祭では唐人踊り担当。江戸期朝鮮通信使を表した踊り行列。結城神社隣にある津八幡社祭では風流行列を祭で展開。「津八幡神社祭礼絵巻」に詳しく描画。
岩田川と岩田橋。左ビルは百五銀行。昔の橋は写真撮影地付近。初期は木橋。擬宝珠の欄干装飾。当時は橋擬宝珠は希。自然地形活用し北外堀は安濃川、南は岩田川。城南の中島口門はこの少し西付近。
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岩田川と岩田橋。左ビルは百五銀行。昔の橋は写真撮影地付近。初期は木橋。擬宝珠の欄干装飾。当時は橋擬宝珠は希。自然地形活用し北外堀は安濃川、南は岩田川。城南の中島口門はこの少し西付近。
伊予町:円通寺:藤堂高虎。近江・犬上郡甲良村出。浅井長政足軽、浪人傭兵、羽柴秀長家来、文禄の役に出て伊予・宇和島で七万石。関ヶ原で家康に寝返貢献。今治城、1608年津藩主に。伊予と津の交流文化。
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伊予町:円通寺:藤堂高虎。近江・犬上郡甲良村出。浅井長政足軽、浪人傭兵、羽柴秀長家来、文禄の役に出て伊予・宇和島で七万石。関ヶ原で家康に寝返貢献。今治城、1608年津藩主に。伊予と津の交流文化。
久留島町:久留島町からの移住民は、瀬戸内海水軍の村上水軍一派。来島水軍将兵で秀吉家臣として朝鮮出兵、水陸で戦った人たち?奥は大市神社。
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久留島町:久留島町からの移住民は、瀬戸内海水軍の村上水軍一派。来島水軍将兵で秀吉家臣として朝鮮出兵、水陸で戦った人たち?奥は大市神社。
弁財町:真教寺焔魔堂・地蔵堂・市杵島姫神社の辻。閻魔王座像1682年・阿弥陀如来座像(平安後期)や円空作・十一面観音立像。東の岩田川河口南砂浜が阿漕浦。続いて楯干漁で有名な御殿場海岸。その南は香良洲。
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弁財町:真教寺焔魔堂・地蔵堂・市杵島姫神社の辻。閻魔王座像1682年・阿弥陀如来座像(平安後期)や円空作・十一面観音立像。東の岩田川河口南砂浜が阿漕浦。続いて楯干漁で有名な御殿場海岸。その南は香良洲。
市杵島姫神社:南朝重鎮・北畠氏守護神。美杉町多気城内からこの地で産土神に。「べざい」と地域住民が親しみをもち呼ぶ。周辺地名が弁財町。
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市杵島姫神社:南朝重鎮・北畠氏守護神。美杉町多気城内からこの地で産土神に。「べざい」と地域住民が親しみをもち呼ぶ。周辺地名が弁財町。
津興:ヤマニ(山二)酢。創業明治20年。高虎は築城名手。手がけた城は約25。江戸城・二条城・淀城など。伊賀街道連絡の伊賀上野城も藤堂藩。家康が大阪城決戦等を想定した城で高さ30mの高石垣造営。
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津興:ヤマニ(山二)酢。創業明治20年。高虎は築城名手。手がけた城は約25。江戸城・二条城・淀城など。伊賀街道連絡の伊賀上野城も藤堂藩。家康が大阪城決戦等を想定した城で高さ30mの高石垣造営。
今は寂しい津興〜八幡付近伊勢街道。藤堂家は徳川家への献身的功績多々。幕府では、戦乱時には譜代は井伊家、外様は藤堂家が先鋒を務めるしきたりに。その他、外様としては破格の扱い多数。
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今は寂しい津興〜八幡付近伊勢街道。藤堂家は徳川家への献身的功績多々。幕府では、戦乱時には譜代は井伊家、外様は藤堂家が先鋒を務めるしきたりに。その他、外様としては破格の扱い多数。
八幡:薬師如来庵跡地。1569年戦乱の中、北畠氏祈願仏を一志郡松崎村民に預け、小舟で津八幡社付近の浜に移動安置。庵焼失。付近に津から松阪へのバイバス道路。俗称が近鉄道路。1961年廃線近鉄伊勢線敷地を利用。
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八幡:薬師如来庵跡地。1569年戦乱の中、北畠氏祈願仏を一志郡松崎村民に預け、小舟で津八幡社付近の浜に移動安置。庵焼失。付近に津から松阪へのバイバス道路。俗称が近鉄道路。1961年廃線近鉄伊勢線敷地を利用。
結城神社:津八幡と結城神社。白河結城氏の宗広祀る建武中興の一社。関連北畠顕家。結城氏は陸奥より京に二度攻め上る。帰国途中難破、伊勢国で没。墓は結城塚。紙本墨書結城神社文書1333年など貴重文化財保存。
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結城神社:津八幡と結城神社。白河結城氏の宗広祀る建武中興の一社。関連北畠顕家。結城氏は陸奥より京に二度攻め上る。帰国途中難破、伊勢国で没。墓は結城塚。紙本墨書結城神社文書1333年など貴重文化財保存。
結城神社:日本一の狛犬。伊藤傳七奉納(明治期の四日市企業家)。高さ140cm。結城神社は「しだれ梅」名所。津八幡神社は隣。2代藩主高次が1632年ここへ神社移設。高虎御霊合祀。城下総氏神。津祭開催社。
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結城神社:日本一の狛犬。伊藤傳七奉納(明治期の四日市企業家)。高さ140cm。結城神社は「しだれ梅」名所。津八幡神社は隣。2代藩主高次が1632年ここへ神社移設。高虎御霊合祀。城下総氏神。津祭開催社。
藤枝町:香良洲道追分:思案橋:左が香良洲道、右が伊勢街道「からす詣らな片参宮」参宮の往路か復路で、雲出川三角州浜にある香良洲神社に参詣人多し。石橋側面に松・梅・扇レリーフ。1823年銘。
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藤枝町:香良洲道追分:思案橋:左が香良洲道、右が伊勢街道「からす詣らな片参宮」参宮の往路か復路で、雲出川三角州浜にある香良洲神社に参詣人多し。石橋側面に松・梅・扇レリーフ。1823年銘。
垂水町三叉路:左が伊勢街道。丘西は南が丘住宅地。池の谷古墳・遺跡。昔は千歳山。津八幡社創建地。右に成就寺。木造大日如来12C。行基・病気治癒の井戸水伝説。西行参宮旅「さる稚児桜」の話など。
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垂水町三叉路:左が伊勢街道。丘西は南が丘住宅地。池の谷古墳・遺跡。昔は千歳山。津八幡社創建地。右に成就寺。木造大日如来12C。行基・病気治癒の井戸水伝説。西行参宮旅「さる稚児桜」の話など。
藤方:須賀神社通過。やがて加良比神社石柱と常夜灯。奥に古社。倭姫命関連「阿佐加・藤方片樋宮」(かたひのみや)。垂水(たるみ)地名由来。渇水時に樋で水誘導。滝のように落ちる「片樋宮・加良比乃神社」
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藤方:須賀神社通過。やがて加良比神社石柱と常夜灯。奥に古社。倭姫命関連「阿佐加・藤方片樋宮」(かたひのみや)。垂水(たるみ)地名由来。渇水時に樋で水誘導。滝のように落ちる「片樋宮・加良比乃神社」
切妻連子格子の立派な民家。藤方は昔は「藤潟」表記。中世には海浜は今より街道に接近、干潟が広がる。江戸期新田開発で米作増加。津藩役人・郡奉行「とうだゆう」干拓大事業1692年。相川米津堤防建設。
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切妻連子格子の立派な民家。藤方は昔は「藤潟」表記。中世には海浜は今より街道に接近、干潟が広がる。江戸期新田開発で米作増加。津藩役人・郡奉行「とうだゆう」干拓大事業1692年。相川米津堤防建設。
相川橋:昔は安濃と一志の境。左手奥が日本鋼管造船所。1969年御殿場海岸と香良洲の間を干拓、建設の当時日本最大造船所ドック。魚介類豊富な海岸は、建設工事で海水・河川流れ変化。水濁り、漁業衰退。
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相川橋:昔は安濃と一志の境。左手奥が日本鋼管造船所。1969年御殿場海岸と香良洲の間を干拓、建設の当時日本最大造船所ドック。魚介類豊富な海岸は、建設工事で海水・河川流れ変化。水濁り、漁業衰退。
雲出川と相川の「高茶屋台地」。立場茶屋のような高台の休憩茶屋「桜茶屋」藩主高次が藩内巡視時に「高茶屋」と命名?写真は上野集会所西上高台にある宇気比神社のある公園。
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雲出川と相川の「高茶屋台地」。立場茶屋のような高台の休憩茶屋「桜茶屋」藩主高次が藩内巡視時に「高茶屋」と命名?写真は上野集会所西上高台にある宇気比神社のある公園。
高茶屋:宇気比神社。常夜灯1825年。伊勢参宮名所図会「高茶屋、茶屋多し、此処より晴天には富士山見ゆるといふ」また、旅人へ農・海産物を販売。
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高茶屋:宇気比神社。常夜灯1825年。伊勢参宮名所図会「高茶屋、茶屋多し、此処より晴天には富士山見ゆるといふ」また、旅人へ農・海産物を販売。
小森上野〜小森:西は丘陵で特別支援学校。東には「桜茶屋公園」天神橋を渡ると称念寺と六阿弥陀堂。先に高茶屋神社。常夜灯1863。「十社の森」と呼ばれ「勅使休泊所」東にJR高茶屋駅で高茶屋集落終わり田畑へ。
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小森上野〜小森:西は丘陵で特別支援学校。東には「桜茶屋公園」天神橋を渡ると称念寺と六阿弥陀堂。先に高茶屋神社。常夜灯1863。「十社の森」と呼ばれ「勅使休泊所」東にJR高茶屋駅で高茶屋集落終わり田畑へ。
嶋貫より中勢の山々。中央に青山高原、右に経ヶ峰。初瀬街道青越は青山高原台地を通過、青山〜上津〜阿保〜名張〜宇陀榛原。伊賀街道長野峠越は経ヶ峰南通過、大山田〜伊賀上野に抜け奈良。長野峠付近に長野氏居城。
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嶋貫より中勢の山々。中央に青山高原、右に経ヶ峰。初瀬街道青越は青山高原台地を通過、青山〜上津〜阿保〜名張〜宇陀榛原。伊賀街道長野峠越は経ヶ峰南通過、大山田〜伊賀上野に抜け奈良。長野峠付近に長野氏居城。
嶋貫:雲出川左岸集落。毘沙門天王霊場の三十三ヶ所観世音。北畠大納言守護尊。昔は毘沙門天の堂宇や島貫の松があった。雲出川渡宿場で街道沿いに多くの旅籠、本陣(明治天皇石碑)高札場が存在した。
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嶋貫:雲出川左岸集落。毘沙門天王霊場の三十三ヶ所観世音。北畠大納言守護尊。昔は毘沙門天の堂宇や島貫の松があった。雲出川渡宿場で街道沿いに多くの旅籠、本陣(明治天皇石碑)高札場が存在した。
雲出川堤防:渡し南北詰に大常夜灯1825。橋西2kmは木造・引接寺。さらに木造(こつくり)城跡。木造氏築城1366で北畠氏支城。蒲生氏郷の攻城で落城1584。木造氏菩提寺、引接寺。木造城絵図残る。
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雲出川堤防:渡し南北詰に大常夜灯1825。橋西2kmは木造・引接寺。さらに木造(こつくり)城跡。木造氏築城1366で北畠氏支城。蒲生氏郷の攻城で落城1584。木造氏菩提寺、引接寺。木造城絵図残る。
雲出橋南詰。小野古江渡跡石碑。前に南詰常夜灯。1614年迄は人馬で川越。1880年雲出橋架橋。雲出川は櫛田川・宮川と共に三重県三大河川。東1kmで雲出川三角州の香良洲。海岸に香良洲神社。神宮との繋がり。
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雲出橋南詰。小野古江渡跡石碑。前に南詰常夜灯。1614年迄は人馬で川越。1880年雲出橋架橋。雲出川は櫛田川・宮川と共に三重県三大河川。東1kmで雲出川三角州の香良洲。海岸に香良洲神社。神宮との繋がり。
小野江集落:松浦武四郎記念館:北海道名付け親・武四郎の資料収集保管・調査研究・展示など。現在は一年休館中。街道では武四郎生家公開。細い路地の古い町並み、各家で屋号掲げる。
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小野江集落:松浦武四郎記念館:北海道名付け親・武四郎の資料収集保管・調査研究・展示など。現在は一年休館中。街道では武四郎生家公開。細い路地の古い町並み、各家で屋号掲げる。
肥留〜中林北屋敷:金剛寺は生垣で門塀造りの独特の外観。昭和橋で香良洲道道標1821。「旅神社 小舟江村是より3丁 右からすみち」香良洲道と参宮街道の接続道は何ヶ所もある。
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肥留〜中林北屋敷:金剛寺は生垣で門塀造りの独特の外観。昭和橋で香良洲道道標1821。「旅神社 小舟江村是より3丁 右からすみち」香良洲道と参宮街道の接続道は何ヶ所もある。
月本:奈良(伊賀)街道道標と常夜灯。道標1842年は伊勢街道最大「月本おひわけ」その右には変形宮立燈籠「右大和七在所道ならはせかうや道いがごゑ本道」。立場や茶屋・煮売屋など多数あった。月本は月読社より。
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月本:奈良(伊賀)街道道標と常夜灯。道標1842年は伊勢街道最大「月本おひわけ」その右には変形宮立燈籠「右大和七在所道ならはせかうや道いがごゑ本道」。立場や茶屋・煮売屋など多数あった。月本は月読社より。
月本〜中道:常夜灯と古民家。明治3年花崗岩製の宮立型「両宮常夜灯」奈良街道は美里村・五百野で津からの伊賀街道合流。伊賀上野〜笠置街道〜奈良に至る。中道三叉路・山神松に穴あり常夜灯と道標「右さんぐう道」
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月本〜中道:常夜灯と古民家。明治3年花崗岩製の宮立型「両宮常夜灯」奈良街道は美里村・五百野で津からの伊賀街道合流。伊賀上野〜笠置街道〜奈良に至る。中道三叉路・山神松に穴あり常夜灯と道標「右さんぐう道」
中道:道標「右からす」東曲りすぐで「勅使塚」の平安後期〜鎌倉期の「吾妻鏡1181」神宮祭主中臣親隆の長男が伊勢国一志駅で頓死記事。中臣定隆の埋葬場所。石標・説明等。黒壁連子格子立派な家。曽原茶屋関係か?
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中道:道標「右からす」東曲りすぐで「勅使塚」の平安後期〜鎌倉期の「吾妻鏡1181」神宮祭主中臣親隆の長男が伊勢国一志駅で頓死記事。中臣定隆の埋葬場所。石標・説明等。黒壁連子格子立派な家。曽原茶屋関係か?
中道〜小津:少し進んだ中道公会堂前・道標「右さんぐう道」金比羅や山ノ神。少し進み民家ブロックに道標「左からす道」あるが分かりにくい。中勢バイバス道を潜り進む。
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中道〜小津:少し進んだ中道公会堂前・道標「右さんぐう道」金比羅や山ノ神。少し進み民家ブロックに道標「左からす道」あるが分かりにくい。中勢バイバス道を潜り進む。
小津一里塚:昭和54年建立一里塚。西にJR六軒駅。駅に向かう角に道標と常夜灯「右松阪及山田 左津及香良洲」明治末期に鉄道開通。だが六軒駅で下車しここより白装束で伊勢まで徒歩参宮の人が多かったと聞く。
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小津一里塚:昭和54年建立一里塚。西にJR六軒駅。駅に向かう角に道標と常夜灯「右松阪及山田 左津及香良洲」明治末期に鉄道開通。だが六軒駅で下車しここより白装束で伊勢まで徒歩参宮の人が多かったと聞く。
三渡:六軒:三渡川三渡橋付近は改修工事完了。区画整理も。橋南詰にあった大常夜灯や道標も移動。三渡川は別名「泪川」中世に三ヶ所の渡口あり「いがこへ追分 右いせみち やまとめぐりかうや道」初瀬街道分岐点。
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三渡:六軒:三渡川三渡橋付近は改修工事完了。区画整理も。橋南詰にあった大常夜灯や道標も移動。三渡川は別名「泪川」中世に三ヶ所の渡口あり「いがこへ追分 右いせみち やまとめぐりかうや道」初瀬街道分岐点。
六軒屋:道中伊勢音頭「明日はお立ちかお名残おしゅうや六軒茶屋まで送りましょう・・」ここから街道を南に「市場庄」江戸中期宿場家並み続き、参宮旅の面影が強い。日本全国から集まる伊勢講看板が残る旧旅籠も。
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六軒屋:道中伊勢音頭「明日はお立ちかお名残おしゅうや六軒茶屋まで送りましょう・・」ここから街道を南に「市場庄」江戸中期宿場家並み続き、参宮旅の面影が強い。日本全国から集まる伊勢講看板が残る旧旅籠も。
市場庄屋角の道標「忘井之道」神楽寺や米之庄神社への分岐。「別れゆく都の方の恋しきにいざ結びみむ忘井の水」斎王群行同行の官女「甲斐」の歌。現在は井戸は閉じられていて、周囲は空き地。
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市場庄屋角の道標「忘井之道」神楽寺や米之庄神社への分岐。「別れゆく都の方の恋しきにいざ結びみむ忘井の水」斎王群行同行の官女「甲斐」の歌。現在は井戸は閉じられていて、周囲は空き地。
久米:久米集落をぬけた鍵の手状の曲り角。行者堂・常夜灯・山ノ神・道標「左さんぐう道」「いおちかんのん道標」などが立ち並ぶ。
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久米:久米集落をぬけた鍵の手状の曲り角。行者堂・常夜灯・山ノ神・道標「左さんぐう道」「いおちかんのん道標」などが立ち並ぶ。
久米:黒板塀連続。左は舟木家。長屋門1784なまこ壁。南北朝〜江戸期久米村惣庄屋。紀州藩主関連。東1.5km松ヶ崎城址。1569年織田信雄は12歳で北畠氏養子。田丸城焼失1580で松ヶ島城建設。第二次天正伊賀の乱。
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久米:黒板塀連続。左は舟木家。長屋門1784なまこ壁。南北朝〜江戸期久米村惣庄屋。紀州藩主関連。東1.5km松ヶ崎城址。1569年織田信雄は12歳で北畠氏養子。田丸城焼失1580で松ヶ島城建設。第二次天正伊賀の乱。
塚本:古川水神遙拝所石標や常夜灯1861を見る。百々川に架かる塚本橋に常夜灯1852。川堰付近に「ど・」と書かれ半分埋もれた石標あり。富士大権現の石標?富士講がどの村でも盛んだったよう。
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塚本:古川水神遙拝所石標や常夜灯1861を見る。百々川に架かる塚本橋に常夜灯1852。川堰付近に「ど・」と書かれ半分埋もれた石標あり。富士大権現の石標?富士講がどの村でも盛んだったよう。
船江:薬師寺1653建築、唐様と和様の折衷。改修工事中。薬師如来像は平安後期古仏。信長二男・信雄と北畠氏雪姫はこの寺で婚儀。1576年に信長・信雄は北畠具教を長野左京亮らに殺害させ、18歳で北畠氏当主となった
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船江:薬師寺1653建築、唐様と和様の折衷。改修工事中。薬師如来像は平安後期古仏。信長二男・信雄と北畠氏雪姫はこの寺で婚儀。1576年に信長・信雄は北畠具教を長野左京亮らに殺害させ、18歳で北畠氏当主となった
船江:鍵の手が連続。連子格子。川合町入口。黒門跡付近。北の浄泉寺は船江城址。北畠氏家臣・本田美作守居城。やがて息子・親康は信雄に、孫・九之助は氏郷家来に。蒲生氏郷の松阪城築城で松ヶ島・船江城は廃城。
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船江:鍵の手が連続。連子格子。川合町入口。黒門跡付近。北の浄泉寺は船江城址。北畠氏家臣・本田美作守居城。やがて息子・親康は信雄に、孫・九之助は氏郷家来に。蒲生氏郷の松阪城築城で松ヶ島・船江城は廃城。
松阪:須川金物店をみながら阪内川を赤い大橋で渡ると本町。旧小津清左衛門家(松阪商人の館)が美しい。一本西には牛銀本店や本居宣長旧宅跡地、小川家、長谷川家住宅の長塀が続く。
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松阪:須川金物店をみながら阪内川を赤い大橋で渡ると本町。旧小津清左衛門家(松阪商人の館)が美しい。一本西には牛銀本店や本居宣長旧宅跡地、小川家、長谷川家住宅の長塀が続く。
松阪:三井家発祥地。松阪本町よりの「江戸店持京商人(えどだなもちきょうあきんど)」創業祖は17世紀後期の3代高利。初代、2代の墓や発祥地記念碑。江戸進出後は京在住。18世紀には三都に二十近い店を所有。
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松阪:三井家発祥地。松阪本町よりの「江戸店持京商人(えどだなもちきょうあきんど)」創業祖は17世紀後期の3代高利。初代、2代の墓や発祥地記念碑。江戸進出後は京在住。18世紀には三都に二十近い店を所有。
大手通で西に松阪城方面を見て中町を歩く。和田金ビルや本居宣長が賀茂真淵と出会った旅籠・新上屋跡のビル。日野町交叉点で、東は松阪駅、西は和歌山街道、南は参宮街道の追分道標が建つ。
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大手通で西に松阪城方面を見て中町を歩く。和田金ビルや本居宣長が賀茂真淵と出会った旅籠・新上屋跡のビル。日野町交叉点で、東は松阪駅、西は和歌山街道、南は参宮街道の追分道標が建つ。
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