白子駅北・勝速日神社:「勝つ・速い・日の出」創建は江戸初期。紀州藩代官所建設に絡み地域の神社合祀。久留真神社移設と関連。隣の悟真寺は葵の御紋。家康の伊賀越えと三河への出航に何らかの関係が・・。
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白子駅北・勝速日神社:「勝つ・速い・日の出」創建は江戸初期。紀州藩代官所建設に絡み地域の神社合祀。久留真神社移設と関連。隣の悟真寺は葵の御紋。家康の伊賀越えと三河への出航に何らかの関係が・・。
白子本町:開山八百年禅寺・龍源寺。平安期は伊勢平氏水軍「白児党」関連?平敦盛秘蔵「青葉の笛」はこの辺りで製作?平家物語。他に諸説あり。室町期に日永追分近くの川尻城主が山門諸堂を建立?
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白子本町:開山八百年禅寺・龍源寺。平安期は伊勢平氏水軍「白児党」関連?平敦盛秘蔵「青葉の笛」はこの辺りで製作?平家物語。他に諸説あり。室町期に日永追分近くの川尻城主が山門諸堂を建立?
龍源寺:枯山水の庭園と立派な燈籠。地蔵堂には南北朝期1388年の木造地蔵菩薩半跏像。弘法石像25体が並ぶ参道や棟に鯱が乗った山門1816年。
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龍源寺:枯山水の庭園と立派な燈籠。地蔵堂には南北朝期1388年の木造地蔵菩薩半跏像。弘法石像25体が並ぶ参道や棟に鯱が乗った山門1816年。
白子港。伊勢平氏は伊勢湾内の戸津(多度)、桑名、安濃津と大湊・神宮と繋がる港を押さえ水運・貿易。瀬戸内海にも勢力拡大。江戸期は関東への廻船拠点となり、年貢米の積み出し港としても繁栄。
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白子港。伊勢平氏は伊勢湾内の戸津(多度)、桑名、安濃津と大湊・神宮と繋がる港を押さえ水運・貿易。瀬戸内海にも勢力拡大。江戸期は関東への廻船拠点となり、年貢米の積み出し港としても繁栄。
久留真神社。創建地は現・白子小周辺。往古は樹齢1千年以上の福徳松が群生する森。代官所建設で現在地へ移築。「久留真」は南北朝期の藤原忠実・栗真(くりま)荘に由来。白子から津・栗真迄の広大な荘園。
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久留真神社。創建地は現・白子小周辺。往古は樹齢1千年以上の福徳松が群生する森。代官所建設で現在地へ移築。「久留真」は南北朝期の藤原忠実・栗真(くりま)荘に由来。白子から津・栗真迄の広大な荘園。
唯信寺の鍵の手。角に黒板塀の和田栄寿堂。高質な鈴鹿墨製造。大きな指差道標。「さんぐう道」「神戸四日市道」道標は和田家が自力建立。倒壊、再建を何度も繰り返す。それほど旅人の数が多かったのか?
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唯信寺の鍵の手。角に黒板塀の和田栄寿堂。高質な鈴鹿墨製造。大きな指差道標。「さんぐう道」「神戸四日市道」道標は和田家が自力建立。倒壊、再建を何度も繰り返す。それほど旅人の数が多かったのか?
同心屋敷や目付役所跡を見て南下。釜屋川を渡り、浜辺に向かい、鈴鹿市伝統産業会館。過去訪問時は繊細な伊勢型紙や鈴鹿墨製造技術などを見学した想い出がある。堤防から砂浜へ向かい鼓ヶ浦海岸へ。
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同心屋敷や目付役所跡を見て南下。釜屋川を渡り、浜辺に向かい、鈴鹿市伝統産業会館。過去訪問時は繊細な伊勢型紙や鈴鹿墨製造技術などを見学した想い出がある。堤防から砂浜へ向かい鼓ヶ浦海岸へ。
鼓ヶ浦海岸。知多半島や伊勢湾口の神島まで見える。昔は立派で美しい松並木が白浜に続き、漁業も繁栄。伊賀越えで伊勢湾を横断、常滑に家康を送ったのは白子の小川孫三?藤枝の白子町で余生を送った?諸説様々。
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鼓ヶ浦海岸。知多半島や伊勢湾口の神島まで見える。昔は立派で美しい松並木が白浜に続き、漁業も繁栄。伊賀越えで伊勢湾を横断、常滑に家康を送ったのは白子の小川孫三?藤枝の白子町で余生を送った?諸説様々。
西方寺:横切川に進むのも良いが、江戸期の旅人は殆ど子安観音参拝のため逢来橋先で西折した。付近集落は寺家(じけ)。途中にある西方寺には芭蕉や山口誓子(療養でこの寺に滞在したと聞く)の句碑。
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西方寺:横切川に進むのも良いが、江戸期の旅人は殆ど子安観音参拝のため逢来橋先で西折した。付近集落は寺家(じけ)。途中にある西方寺には芭蕉や山口誓子(療養でこの寺に滞在したと聞く)の句碑。
子安観音寺:天平年間開山一千三百年。本尊・観世音菩薩像「この浦に時々鼓の音あり怪しきまま網を下ろしけるに白衣の観世音の尊像上がらせ給ふ」鼓ヶ浦由来。安産祈願・子孫長久の観音は近隣の多大な信仰を集めた。
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子安観音寺:天平年間開山一千三百年。本尊・観世音菩薩像「この浦に時々鼓の音あり怪しきまま網を下ろしけるに白衣の観世音の尊像上がらせ給ふ」鼓ヶ浦由来。安産祈願・子孫長久の観音は近隣の多大な信仰を集めた。
県指定1703年楼門や1670年銅燈籠など文化財多数。白子名由来「白貝・白魚が転訛」「鼓ヶ浦の白い衣を着た観音」「平家物語の古市・白児党」など。白子の古名は「古市(こいち)」の他に「寺家(じけ)」
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県指定1703年楼門や1670年銅燈籠など文化財多数。白子名由来「白貝・白魚が転訛」「鼓ヶ浦の白い衣を着た観音」「平家物語の古市・白児党」など。白子の古名は「古市(こいち)」の他に「寺家(じけ)」
不断桜は国指定天然記念物。年中絶えない花や葉。伊勢参宮名所図絵にも紹介。旅人を通し全国的に知名度高い。伊勢型紙を発案した「久太夫」は不断桜の穴あき虫食葉を眺め、型紙のアイデアを創案したらしい。
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不断桜は国指定天然記念物。年中絶えない花や葉。伊勢参宮名所図絵にも紹介。旅人を通し全国的に知名度高い。伊勢型紙を発案した「久太夫」は不断桜の穴あき虫食葉を眺め、型紙のアイデアを創案したらしい。
子安観音から堀切川迄の寺家集落は迷路のような路地が続く。曲り角に道標。1847年「左くわんおん道」「右さんくう道」 白子内の地域名は、北は江島、東は白子、南は寺家、西は野村である。
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子安観音から堀切川迄の寺家集落は迷路のような路地が続く。曲り角に道標。1847年「左くわんおん道」「右さんくう道」 白子内の地域名は、北は江島、東は白子、南は寺家、西は野村である。
小さな道標「左いせみち」「右くわんおんみち」。道標頂上部分や北面に窪み。砥石跡とも言われる。すぐ西が近鉄線と23号線。
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小さな道標「左いせみち」「右くわんおんみち」。道標頂上部分や北面に窪み。砥石跡とも言われる。すぐ西が近鉄線と23号線。
堀切川堤防。合流手前に楳荘翁碑。伊勢の奇人とされ多彩な文化人と聞いた。逢来橋。道標「いせみち」や鼓ヶ浦石碑。23号を横切るのに少し北に戻り横断歩道を渡る。
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堀切川堤防。合流手前に楳荘翁碑。伊勢の奇人とされ多彩な文化人と聞いた。逢来橋。道標「いせみち」や鼓ヶ浦石碑。23号を横切るのに少し北に戻り横断歩道を渡る。
磯山集落。村社八幡神社を見て連子格子町並み。専照寺北隣に立派な民家。磯山は中ノ川と横切川に挟まれた洲。鹿や猪の図柄の銅鐸発掘。北西の稲生や国府丘陵では条里制も。遺跡や古墳点在。大安寺などとの関係。
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磯山集落。村社八幡神社を見て連子格子町並み。専照寺北隣に立派な民家。磯山は中ノ川と横切川に挟まれた洲。鹿や猪の図柄の銅鐸発掘。北西の稲生や国府丘陵では条里制も。遺跡や古墳点在。大安寺などとの関係。
23号線を潜る。中ノ川を渡り、東千里(ちさと)集落。分岐追分。右が参宮道。左が下街道・浜街道=巡礼道。海浜に沿い津の栗真町屋まで続く。巡礼の意味は参宮?古道とされるが、平安期はおそらく低湿地帯だった?
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23号線を潜る。中ノ川を渡り、東千里(ちさと)集落。分岐追分。右が参宮道。左が下街道・浜街道=巡礼道。海浜に沿い津の栗真町屋まで続く。巡礼の意味は参宮?古道とされるが、平安期はおそらく低湿地帯だった?
分岐に甕釜冠地蔵堂「かめかまかぶり」。堂屋根に瓦製甕。火除け?参宮道旅人の安全祈願、接待茶所。堂入口の厳重な防犯シャッターにはやや驚かされる。うまく作ってあるが、地蔵は拝見できない悲しさ。
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分岐に甕釜冠地蔵堂「かめかまかぶり」。堂屋根に瓦製甕。火除け?参宮道旅人の安全祈願、接待茶所。堂入口の厳重な防犯シャッターにはやや驚かされる。うまく作ってあるが、地蔵は拝見できない悲しさ。
千里・大別法・尾前神社:巡礼道との間に寺社点在。聖徳太子関連の信光寺や親鸞弟子創設の本福寺南東に「尾前神社」山ノ神3体。雨乞かんこ踊り。獅子舞神楽は平安期の悪疫退散祈願祈祷で八百年の伝統神楽を伝える。
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千里・大別法・尾前神社:巡礼道との間に寺社点在。聖徳太子関連の信光寺や親鸞弟子創設の本福寺南東に「尾前神社」山ノ神3体。雨乞かんこ踊り。獅子舞神楽は平安期の悪疫退散祈願祈祷で八百年の伝統神楽を伝える。
近鉄千里駅から近鉄と23号線を渡り、田中地蔵を右に見て、田中川・大蔵橋を渡る。川越で旧上野村に。街道西に沿うように丘陵が盛り上がる。この立地が丘陵上に伊勢上野城を築いた理由で要衝。
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近鉄千里駅から近鉄と23号線を渡り、田中地蔵を右に見て、田中川・大蔵橋を渡る。川越で旧上野村に。街道西に沿うように丘陵が盛り上がる。この立地が丘陵上に伊勢上野城を築いた理由で要衝。
上野神社入口と丘上の長勝寺:戦国期には伊勢上野城の城下町、江戸期には宿場として繁栄。宿数27、家数約300軒。町並みは約2km続く。桑名と伊勢のほぼ中間点で、泊まり客が多かったよう。
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上野神社入口と丘上の長勝寺:戦国期には伊勢上野城の城下町、江戸期には宿場として繁栄。宿数27、家数約300軒。町並みは約2km続く。桑名と伊勢のほぼ中間点で、泊まり客が多かったよう。
長勝寺・鐘楼。辻越後守種茂鋳(18C中期?)。大阪冬の陣の直接原因「方広寺鐘銘事件」梵鐘は、初代辻家種鋳造。藤堂高虎が彼を守るため津城下に住まわせ鋳造師・辻家が発展。江戸後期の阿保家や奧山家に繋がる。
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長勝寺・鐘楼。辻越後守種茂鋳(18C中期?)。大阪冬の陣の直接原因「方広寺鐘銘事件」梵鐘は、初代辻家種鋳造。藤堂高虎が彼を守るため津城下に住まわせ鋳造師・辻家が発展。江戸後期の阿保家や奧山家に繋がる。
圓光寺・上野城主・分部氏は津西部の地頭だった国人・長野氏の庶流。分部光嘉は信長の伊勢進攻時に進んで信長弟・信包に仕える。信包が津城建設時の仮城として、光嘉に築城させたのが伊勢上野城。完成後は津城の出城
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圓光寺・上野城主・分部氏は津西部の地頭だった国人・長野氏の庶流。分部光嘉は信長の伊勢進攻時に進んで信長弟・信包に仕える。信包が津城建設時の仮城として、光嘉に築城させたのが伊勢上野城。完成後は津城の出城
信包が近江へ去り、秀吉に評価されるが、光嘉は次は家康に従軍。関ヶ原合戦前哨戦の安濃津城の戦いでは西軍一万に対し、津城・富田氏と共に東軍千七百で籠城戦。和平交渉にこぎ着け、家康に大いに認められていく。
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信包が近江へ去り、秀吉に評価されるが、光嘉は次は家康に従軍。関ヶ原合戦前哨戦の安濃津城の戦いでは西軍一万に対し、津城・富田氏と共に東軍千七百で籠城戦。和平交渉にこぎ着け、家康に大いに認められていく。
虫駕籠窓の家。三重の有力豪族としては南勢の北畠氏、中勢の長野氏、北勢の関氏などがいるが、戦国期に消滅。下克上時代を勇猛果敢に乗り切り、大阪冬・夏の陣で活躍し、近江大溝藩主となった分部氏は注目に値。
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虫駕籠窓の家。三重の有力豪族としては南勢の北畠氏、中勢の長野氏、北勢の関氏などがいるが、戦国期に消滅。下克上時代を勇猛果敢に乗り切り、大阪冬・夏の陣で活躍し、近江大溝藩主となった分部氏は注目に値。
中町・弘法井戸:水を求めた旅の高僧に親切に接した上野の農民の話。地域の人々が今でも弘法大師の遺徳を偲び、井戸の管理保繕を継続しているようだ。
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中町・弘法井戸:水を求めた旅の高僧に親切に接した上野の農民の話。地域の人々が今でも弘法大師の遺徳を偲び、井戸の管理保繕を継続しているようだ。
中町:弘法井戸の南は鍵の手。本陣、脇本陣、問屋や高札場が周辺にあったと聞く。道路改修祈念碑も西に。
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中町:弘法井戸の南は鍵の手。本陣、脇本陣、問屋や高札場が周辺にあったと聞く。道路改修祈念碑も西に。
中須神社跡・伊勢上野城跡。妙見堂を西に見て少し歩くと新しくなった上野城への標識あり。長い階段を上ると中須神社跡や城跡。浅井三姉妹がこの城に滞在した話が消滅して、城跡訪問者もめっきり減ったようで寂しい。
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中須神社跡・伊勢上野城跡。妙見堂を西に見て少し歩くと新しくなった上野城への標識あり。長い階段を上ると中須神社跡や城跡。浅井三姉妹がこの城に滞在した話が消滅して、城跡訪問者もめっきり減ったようで寂しい。
中瀬より一色集落:河芸町役場跡・朝陽中学前から23号を渡り中瀬集落。朝陽中の西には河芸公民館。上野北・大蔵橋にあった道標1693が中庭に移設。「右 志ろこ(白子)かいたう」「左 かんへ(神戸)ちかみち」
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中瀬より一色集落:河芸町役場跡・朝陽中学前から23号を渡り中瀬集落。朝陽中の西には河芸公民館。上野北・大蔵橋にあった道標1693が中庭に移設。「右 志ろこ(白子)かいたう」「左 かんへ(神戸)ちかみち」
中瀬:2〜3の地蔵祠が街道にある。「高山地蔵」の名があり昔はこの辺に処刑場があったらしい。写真の小祠前には三昧がありここだと思うが、明確にはどの祠が「高山地蔵」か分からなかった。
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中瀬:2〜3の地蔵祠が街道にある。「高山地蔵」の名があり昔はこの辺に処刑場があったらしい。写真の小祠前には三昧がありここだと思うが、明確にはどの祠が「高山地蔵」か分からなかった。
中瀬の松林寺と中瀬八幡が民家奥にある。再び23号線と出合い、中瀬の信号交差点。ここに「痔神社」への石標。東に暫く行くと鳥居から神社へ。珍しい神社で、江戸時代もこの病に苦しむ人がいたのだろう。
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中瀬の松林寺と中瀬八幡が民家奥にある。再び23号線と出合い、中瀬の信号交差点。ここに「痔神社」への石標。東に暫く行くと鳥居から神社へ。珍しい神社で、江戸時代もこの病に苦しむ人がいたのだろう。
栗真小川:東地域は白塚。白州・白須賀・白塚と転訛。南北朝の頃より漁港繁栄。1480年長野氏が白塚で新警固(神宮の認証しない湊の関)設置、分部氏や北畠氏も海上交通の利権と支配を巡り、神宮の本警固と争った。
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栗真小川:東地域は白塚。白州・白須賀・白塚と転訛。南北朝の頃より漁港繁栄。1480年長野氏が白塚で新警固(神宮の認証しない湊の関)設置、分部氏や北畠氏も海上交通の利権と支配を巡り、神宮の本警固と争った。
小川・善行寺:小川集会所西を入ると善行寺。この寺の鐘楼前に道標「是よりにしに い志んでん(一身田)辺」一身田とは浄土真宗高田派専修寺の門前町を指す。
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小川・善行寺:小川集会所西を入ると善行寺。この寺の鐘楼前に道標「是よりにしに い志んでん(一身田)辺」一身田とは浄土真宗高田派専修寺の門前町を指す。
小川・観音寺前:細い路地を西に入ると観音寺。立派な常夜灯1806。太神宮、金比羅大権現など。
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小川・観音寺前:細い路地を西に入ると観音寺。立派な常夜灯1806。太神宮、金比羅大権現など。
観音寺。十一面観音や地蔵堂。熊野勧進十界曼荼羅図の詳しい解説板あり。馬頭観音や石仏など。まるで昔にタイムスリップしたような雰囲気にたじろぐ。
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観音寺。十一面観音や地蔵堂。熊野勧進十界曼荼羅図の詳しい解説板あり。馬頭観音や石仏など。まるで昔にタイムスリップしたような雰囲気にたじろぐ。
栗真中山・寒紅梅酒造:近鉄線下を潜り逆川神社の森。かっこ踊絵馬1862年奉納。中山集落の中山会館には地域の老人が集合して寄合。路地を入ると寒紅梅酒造の古い建物が広がる。地酒博物館もあるようだ。
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栗真中山・寒紅梅酒造:近鉄線下を潜り逆川神社の森。かっこ踊絵馬1862年奉納。中山集落の中山会館には地域の老人が集合して寄合。路地を入ると寒紅梅酒造の古い建物が広がる。地酒博物館もあるようだ。
中山・大円寺:この集落に分部氏の中山城があった。分部氏本拠地は津の長谷山麓の分部村。以後、中山城に移る。ここで伊勢上野城の縄張り構築をして、信包が津城に移ると、分部光嘉は城代として伊勢上野城に移動。
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中山・大円寺:この集落に分部氏の中山城があった。分部氏本拠地は津の長谷山麓の分部村。以後、中山城に移る。ここで伊勢上野城の縄張り構築をして、信包が津城に移ると、分部光嘉は城代として伊勢上野城に移動。
中山の路地。中山城の場所は不明だが周辺に高札場跡があり「城・北門地・馬場」の地名残る。中山には津の江戸後期鋳造師「阿保家」があり津藩幕末防備の大砲や鉄砲製造。津の贄崎(にえざき)海岸に並べたと聞く。
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中山の路地。中山城の場所は不明だが周辺に高札場跡があり「城・北門地・馬場」の地名残る。中山には津の江戸後期鋳造師「阿保家」があり津藩幕末防備の大砲や鉄砲製造。津の贄崎(にえざき)海岸に並べたと聞く。
栗真・町屋:一身田からの道や23号に街道は寸断され、町屋集落に入る。昔の集落は今の三重大学北の街道沿いが中心。ここから津駅までは来る度に古民家が歯抜けに空き地やビルや新住宅になりつつある。
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栗真・町屋:一身田からの道や23号に街道は寸断され、町屋集落に入る。昔の集落は今の三重大学北の街道沿いが中心。ここから津駅までは来る度に古民家が歯抜けに空き地やビルや新住宅になりつつある。
巡礼道南追分:大常夜灯・名残松・道標「左 上野白子神戸四日市(伊勢参宮街道)」「右 白塚豊津道(巡礼道)」地名よりおそらく明治以降のもの。
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巡礼道南追分:大常夜灯・名残松・道標「左 上野白子神戸四日市(伊勢参宮街道)」「右 白塚豊津道(巡礼道)」地名よりおそらく明治以降のもの。
巡礼道追分を見る。左が伊勢参宮街道、右が巡礼道。常夜灯には「両宮 常夜灯」側面に「武州(埼玉県) 岩槻 木綿問屋中」「天保十年己亥正月初吉日」とある。伊勢参宮は全国規模の信仰や支援があった。
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巡礼道追分を見る。左が伊勢参宮街道、右が巡礼道。常夜灯には「両宮 常夜灯」側面に「武州(埼玉県) 岩槻 木綿問屋中」「天保十年己亥正月初吉日」とある。伊勢参宮は全国規模の信仰や支援があった。
町屋南外れ:フェンスの中に自然石・孟夏の自然石常夜灯1851年。三重大学正門や三重大学附属病院前に来て、そこから江戸橋までは23号歩き。周囲は飲食店だらけである。
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町屋南外れ:フェンスの中に自然石・孟夏の自然石常夜灯1851年。三重大学正門や三重大学附属病院前に来て、そこから江戸橋までは23号歩き。周囲は飲食店だらけである。
江戸橋から志登茂(しとも)川:江戸に向かう津藩主を見送りに来るのもここまでだったとされる。志登茂川水源が伊勢別街道の椋本で海抜百m以下と河川勾配が緩く、豪雨等で洪水・氾濫が頻繁に起こった。
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江戸橋から志登茂(しとも)川:江戸に向かう津藩主を見送りに来るのもここまでだったとされる。志登茂川水源が伊勢別街道の椋本で海抜百m以下と河川勾配が緩く、豪雨等で洪水・氾濫が頻繁に起こった。
伊勢別街道と伊勢参宮道の追分。津で最古の常夜燈1777年がある江戸橋西詰。高田本山道(明治22)の標識があり、東海道の関や亀山からの伊勢別街道に繋がる。
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伊勢別街道と伊勢参宮道の追分。津で最古の常夜燈1777年がある江戸橋西詰。高田本山道(明治22)の標識があり、東海道の関や亀山からの伊勢別街道に繋がる。
大部田(へた)託縁寺付近の民家。近年、江戸橋の改修と共にこの地域に区画整理が行われた。細い道は相変わらずだが、多くの古民家や商家が消えつつある。
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大部田(へた)託縁寺付近の民家。近年、江戸橋の改修と共にこの地域に区画整理が行われた。細い道は相変わらずだが、多くの古民家や商家が消えつつある。
酢屋・阿部:江戸期は醸造業者が多く集まる地域。深正寺、光蓮寺、一乗寺など寺も多い。小さな小丹神社は藩主藤堂高次の鶴狩と昇進の話の「鶴之宮」関連。鶴神社はJR線路の西上の台地に移築されている。
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酢屋・阿部:江戸期は醸造業者が多く集まる地域。深正寺、光蓮寺、一乗寺など寺も多い。小さな小丹神社は藩主藤堂高次の鶴狩と昇進の話の「鶴之宮」関連。鶴神社はJR線路の西上の台地に移築されている。
上浜町:旧名・下部田:今は津駅前の繁華街になっているが、江戸期は街道に沿う集落があるだけだった。西の丘陵は藤堂藩の鷹狩場で城主の別荘などがあった。
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上浜町:旧名・下部田:今は津駅前の繁華街になっているが、江戸期は街道に沿う集落があるだけだった。西の丘陵は藤堂藩の鷹狩場で城主の別荘などがあった。
初馬寺:聖徳太子開創・伝。大日如来と阿弥陀如来は平安時代前後期作の重文。藤堂家守護の祈願所。本尊は太子が自ら刻んだと伝わる・馬頭観世音菩薩。寺門の石柱には国宝とあるが・・。
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初馬寺:聖徳太子開創・伝。大日如来と阿弥陀如来は平安時代前後期作の重文。藤堂家守護の祈願所。本尊は太子が自ら刻んだと伝わる・馬頭観世音菩薩。寺門の石柱には国宝とあるが・・。
初馬寺魚籃観世音:元禄時代。大魚が入った篭を提げ微笑む観音。九鬼浦(尾鷲)網元が豊漁・縁結び観音と祀り大漁を得た。桑名藩家老から桑名の網元へ渡り、この寺に入る。
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初馬寺魚籃観世音:元禄時代。大魚が入った篭を提げ微笑む観音。九鬼浦(尾鷲)網元が豊漁・縁結び観音と祀り大漁を得た。桑名藩家老から桑名の網元へ渡り、この寺に入る。
偕楽園:安濃川塔世橋にあった「部田の常夜燈1830」を移築。津藩第11代藩主・藤堂高猷が1859年につくった別荘「御山荘」を公園化した偕楽園。付近には藤堂高虎が文禄の役で朝鮮より持ち帰った龍灯籠もある。
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偕楽園:安濃川塔世橋にあった「部田の常夜燈1830」を移築。津藩第11代藩主・藤堂高猷が1859年につくった別荘「御山荘」を公園化した偕楽園。付近には藤堂高虎が文禄の役で朝鮮より持ち帰った龍灯籠もある。
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