記録ID: 3661152
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ハイキング
中国
(布部)要害山
2021年10月24日(日) [日帰り]


体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 00:09
- 距離
- 385m
- 登り
- 52m
- 下り
- 7m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2021年10月の天気図 |
---|---|
アクセス |
写真
布部要害山由来
要害山は火山系安山岩で出来別名一円山ともいわれ標高180mあリ、布部は尼子と毛利の天下分け目の戦場となったところで、尼子の武将森脇市正久仍が陣取った山城の一つである。
元亀元年(1570)2月14日毛利輝元ひきいる一万四千の将兵と尼子勝久ひきいる武将山中鹿介幸盛七千の兵が激突した。しかし多勢に無勢で、尼子方は三百の死者を出し、広瀬冨田城奪還の夢破れ、ついに山佐方面に総退却せざるを得なかった。
両軍の戦死者の霊を慰める山中祭は毎年2月14日に行われ陣粥がふるまわれる。なお山頂の祠は120年前西ノ谷から移され祭神は加具槌の神(いざなぎ いざなみの命の子)で、火のわざわいをしずめるよう祀ったと古事記は伝えている。地元では愛宕神社と呼び8月に神事や、夏祭りの点灯でにぎわう。
要害山は火山系安山岩で出来別名一円山ともいわれ標高180mあリ、布部は尼子と毛利の天下分け目の戦場となったところで、尼子の武将森脇市正久仍が陣取った山城の一つである。
元亀元年(1570)2月14日毛利輝元ひきいる一万四千の将兵と尼子勝久ひきいる武将山中鹿介幸盛七千の兵が激突した。しかし多勢に無勢で、尼子方は三百の死者を出し、広瀬冨田城奪還の夢破れ、ついに山佐方面に総退却せざるを得なかった。
両軍の戦死者の霊を慰める山中祭は毎年2月14日に行われ陣粥がふるまわれる。なお山頂の祠は120年前西ノ谷から移され祭神は加具槌の神(いざなぎ いざなみの命の子)で、火のわざわいをしずめるよう祀ったと古事記は伝えている。地元では愛宕神社と呼び8月に神事や、夏祭りの点灯でにぎわう。
感想
安来市の小学生低学年向け副読本をたまたま見つけたら、知らない山がいくつも・・てことで、その中の一つ、広瀬布部地区の布部要害山へ。
山頂には、布弁神社がもともと座していたそうです。
https://www.city.yasugi.shimane.jp/kurashi/kyoiku/kyoikuiinkai/furusatodokuhon.data/1teigakunen1.pdf
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