番外編:海外の旅の記録

コースタイム
1979年 サウジアラビア(仕事)、東南アジア
1980年 北太平洋、サウジアラビア(仕事)
1981年 サウジアラビア(仕事)、ネパール、スリランカ
1982年 サウジアラビア(仕事)、東南アジア
1983年 サウジアラビア(仕事)、東南アジア
1985年 東南アジア
1986年 東南アジア
1987年 パキスタン(仕事)、東南アジア
1988年 パキスタン(仕事)、モルジブ、東南アジア
1989年 パキスタン(仕事)、バーレン、セーシェル、モーリシャス、東南アジア
1990年 マカオ(博打)、東南アジア、台湾
1991年 米国、イラン(仕事)、マカオ(博打)
1992年 イラン(仕事)、マカオ(博打)
1993年 イラン(仕事)、中米、マカオ(博打)
1994年 東南アジア、南太平洋、ニュージーランド、マカオ(賭博)
1995年 台湾、中国、マカオ(賭博)、東南アジア
1996年 シンガポール(仕事)、北太平洋
1997年 東南アジア、シンガポール(仕事)
1998年 東南アジア、カナダ(仕事)、リビア(仕事)、北アフリカ
1999年 リビア(仕事)、カナダ(仕事)、北アフリカ
2000年 東南アジア、南太平洋
2001年 南太平洋
2002年 東南アジア、台湾
*行先の後の()無しは全て旅行
天候 | 2017/12/03まで |
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アクセス |
利用交通機関:
電車 バス タクシー
船 飛行機
|
コース状況/ 危険箇所等 |
世界は広い! 文化、風習、制度、規律、戒律・・・ 千差万別、万差億別、億差兆別・・・ 郷に入ったら郷に従うのが安全対策の究極のセオリー! |
写真
感想
もう写真もほとんど残っていないが、薄れていく記憶を記録で補足。
(思い出し、思い出し、でチョボチョボ追記をしているので、まだまだ脱稿まではかかりそう
)
第一章:初めての海外旅、ヨーロッパ周遊からユーラシアをインドまで
日程の日付は初めて羽田から海外に飛び立った日。
飛行機に乗るのも初めてで緊張と興奮、期待、夢、不安・・・アドレナリンがMAX全開だった。[url=http://www.yamareco.com/uploads/photos/2571.gif][img]http://www.yamareco.com/uploads/thumbs/2571.gif[/img][/url]
パスポートとお金と航空券を腹巻に隠し南回りで27時間かけてロンドンへ飛んだ。一日以上エコノミーの狭い座席に座り続けているのはけっこう辛かったはずだがそれを感じさせない期待感があった。
英語など適当でもなんとかなるだろう、と思っていたのだが、最初のロンドンの入国手続きでそれがまったく甘い考えだったこと思い知らされた。なんせ、聞き取れない、一言も。入国審査の英語など、観光目的、滞在日数、申告品の有無ぐらいで難しい単語も文もないはずなのにまったくチンプンカンプン、理解できない。他の人の4〜5倍の時間はかかった。
今でも鮮明に記憶に残っているのは、係官の最後の質問「Can you speak English?」を「えっ?」「えっ?」「えっ?」と3,4回も聞き直してようやく理解でき、「Ahh,Just little」と答えたら、係官がスタンプを押したパスポートを投げ返して、犬や猫でも追い払うようにあっちへ行けとジェスチャーしたこと。
情けなかった〜。
街に出てもタバコ一つロクに買えなかった。マルボロやラッキーストライクなどRとLの発音がまったく通じず、煙草売りのおばちゃんに「しっ、しっし!」と追い払われていた。結局ケントぐらいしか買えなかった。
それでも2週間近くB&Bやユースホステルを転々としながら街を彷徨っていた。
ロンドンで一番印象に残っているのは、大英博物館、ダンヒル、アビーロードなどより、ハイドパークで乞食の放浪者がハット、ステッキ、スーツのちゃんとした身なりでゴミ箱を漁っていたこと。
へぇ〜、イギリスは乞食までもが紳士の国なんだなぁ、と妙に感心した。
宿や食事は英語がほとんどしゃべれなくても指さして「あれ」「これ」と言ってればなんとかなった。
が、それ以上の会話が出来ないのも悲しく、少なくとも単語だけでも覚えようと持って行った超小型和英英和辞書「GEM」を空いてる時間、移動中などに必死に見て勉強した。
その甲斐あって2週間近く生の英語を聞いてると少しはなんとかおぼろげに聞き取れるようになってきた。
そして、ようやく英語に慣れた頃に今度はドーバー海峡を船で渡ってフランスへ行った。
言葉の壁は元の黙阿弥。フランス語もまったくチンプンカンプン。そして彼らはこっちの英語をなんとか聞きとってくれても答えはほぼ全部フランス語。今までの英語学習の努力はなんだったんだ?と虚しくなるくらいだった。
とりあえず買物が出来るように、と数字だけは「アン、ドゥ、トロワ・・・」と覚えるようにした。
パリに在住していた日本人と話す機会があったので「フランス語がわからない」と言ったら、
「フランス語なんて簡単さ、ボンジュール、メルシーが言えれば暮らしていけるし、ジュテームが言えれば恋愛もできる、コンビアン?が言えればヤレるよ(笑)」と笑い飛ばしてくれた。
パリに一週間ぐらい、そして南仏コートダジュールのニース、カンヌ、モナコと一週間ぐらいかけて周ってイタリアのサンレモに抜けた。シーズンが丁度カンヌ映画祭、モナコグランプリの時期だった。
カンヌの海岸で若い女優のトップレスの撮影会を観れたり、モナコグランプリではチケットも何もない貧乏旅行者なのにF1のピットまで普通に入れてくれてマシンに触ることも出来きてチョー感激だった。今ではちょっと信じられないくらいのおおらかさ、自由さがまだどこにもあった。
そしてようやく2週間ぐらいでフランス語に慣れてきたら(喋れたり理解出来たりしたわけではないが)今度はイタリア。
でも、イタリアは言葉が出来なくてもなんか楽しかった。温かい国の国民性なのか人懐っこく、明るく、いい加減、適当、で居やすかった。特に子供たちの好奇心旺盛さ天真爛漫さに笑ったし、癒された。
公園でピザとコーラで昼飯を食べていたら数人の子供たちに囲まれて、「お前、大人なのになんでコーラなんだよ、ビール飲まないのかよ?」とからまれたこともあった。そう、小学生ぐらいの子供達がみんなビール飲んでいた。今のように発泡酒などない時代で日本と違ってコーラよりビールの方が全然安かった。
イタリアに若い世代からのアルコール中毒が多いことを納得してしまった。
それとイタリアは食べ物が安くて美味しかった記憶がある。もっとも高級なレストランに入ったりちゃんとしたイタリア料理を食べた訳でなく、町場の安食堂やテイクアウトのピザがほとんどだったが、美味しくて毎日腹いっぱい喰えて満足してた記憶がある。イギリスはよく言われるがほんと食べ物に美味しかった印象がなかったし、フランス料理は貧乏旅行者の口にはまず入らなかったので余計そういう印象だったのかも。
ジェノバ、ミラノ、ベニス、フェレンツェ、ローマ、ナポリと観光都市コースを一通り周ってやはり10日〜2週間ぐらい滞在してたと思う。本当は長靴の突端やシチリア、コルシカなどの島も行きたかったのだが・・・
次はスイスに向かって北上。
ジュネーブ、ベルン、チューリッヒ、インターラーケン、グリンデルワルド、ツェルマット・・・
本場アルプスの山々の美しさ優雅さ壮大さにメチャクチャ最高に感激した。それと同時に物価の高さも最高に思い知ったことの記憶が残っている。
この次はふんだんにお金を持って絶対また来る!と心に誓ったのだが、未だに再訪出来てない(泣)
泊まっていた宿はほぼユースホステル。当時日本でもユースホステル全盛期で自分も国内旅行ではだいぶ利用していたが、発祥地のヨーロッパのユースホステルは日本のそれとはだいぶ雰囲気が違っていて、スイスなど☆がついてもいいくらい立地場所も雰囲気も良く感激していた。ホールにミニコンサートができるくらいの楽器類が並んでいるようなところもあった。
但し予約制度がまったくなく常に先着順というのがけっこう大変で午後は観光も早めに切り上げて玄関に並んで待っていた記憶がある。
こういう宿泊施設ではバックパッカー同士、国籍や言葉が違っていてもけっこう簡単に仲良くなれた。まだまだ海外をバックパックする日本人も少なく珍しがられて色々親切にされたり楽しい思いもした。
ぼちぼち旅慣れてきていておおよその旅行英語や簡単な日常会話ぐらいならなんとかなっていたが、それ以上に増々言葉の大事さを痛感した。
スイスに後ろ髪をひかれながらも次のオーストリアに抜けた。
ザウツブルグにしろウイーンにしろクラシック音楽の都のイメージがぴったりだった印象を思い出す。まったくNHK名曲アルバムの実体験版そのものだった。
小学校、中学校と嫌いだったクラシック音楽観賞が逆に好きになったのはこの時からだったと思う。
特にバッハやそれ以前のバロック音楽が好きになった。
ヨーロッパはこのオーストリアに限らずどこの都市にも日本の神社仏閣と同様に教会がある。そしてある程度の大きさの教会になるとパイプオルガンが設置されていた。
普段、宗教心など欠片もないが、なんの気なしに覗いた有名でもなんでもない名も知らない教会でステンドグラスから射す陽の光を浴びながら厳かで優雅なパイプオルガンの音色に聴き惚れていると、邪悪な心が喰い改められるような気がしてなぜかウルウルしてしまう雰囲気になったりもした。
交響曲や協奏曲などの壮大なクラシック音楽もいいが、軽いバロック音楽の方が今でも好き。
いままで宗教の力を感じたのは他にパキスタンに駐在した時とフィジーの離れ小島に3〜4週間滞在していた時にあった。それはまた機会があれば。
次はドイツへ
とりあえず一般的な観光のライン下りやロマンチック街道など、そして有名なミューヘンのビアホールなどを見て回った。この時のビアホールの体験で初めてヨーロッパではオリンピックよりサッカーのワールドカップの方がメジャーで盛り上がっていることを知った。自分は見なかったが、きっと当時から熱烈なフーリガンはいたのだろうな。
当時、ドイツはまだ西ドイツ、東ドイツに別れていて有名な「ベルリンの壁」もしっかり存在していた。
東ドイツは観光目的でもビザ必要で、ベルリンも西ドイツから行くには意外と不便なところにあった。
この頃すでに旅行を始めて一カ月以上経っていたが予想以上の経費がかかっていた。もたもたしていたら、北欧のスエーデンやノルウエーに行けなくなる・・・ヨーロッパは緯度が上がって北へ行くほど物価が高くなるし・・・
と言うことでとりあえず途中のハンブルグぐらいを見て先にもっと北を目指すことにした。
このハンブルグも大きくて面白そうな町だったが、北欧を一回りして再度南下するときにまた寄れるだろうと駆け足で済ませてしまった。
細かく書いているとキリないので北欧としてまとめると、
なんせ、物価が高かった印象が強烈でまともに飯を食べるのにも苦労したような記憶がある。
デンマークはチボリ公園と人魚姫ぐらいしか覚えていない。
フェリーで渡ったスエーデンには美女が多く、それまで日本を出たこともなかったので「美人の種類ってこんなにあるんだぁ!」と街中でカメラバシャバシャ撮っていた(笑) そんな美人の写真集も今はない・・・(泣)
ノルウエーは丁度白夜のシーズンだったのでそれを見に北極圏の街ナルビックまで足を伸ばした。
<<続く>>
約三か月かけて北はノルウエーから南はスペイン、イタリアなど地中海沿岸の国々などヨーロッパをぐるっと周った。
今思えば、ビザの申請がメンドイと東ドイツや東欧圏に行かなかったのが残念。
そしてギリシャへ飛び、エーゲ海クルーズで島伝いをトルコに上陸、そのままバス、鉄道を乗り継ぎ、たまにヒッチハイクもしながらインドまで陸路を横断した。当時は中東もアフガニスタンも危険ではあったがまだなんとか通れた。
今のように「地球の歩き方」や「ロンリープラネット」のようなガイド本もなく情報も手探り状態で行き当たりばったりのその日暮らしのような旅行だったがそれが逆にめちゃくちゃ楽しくて毎日が面白くて増々旅にのめり込んでいった。
最後のインドでは金もほとんどなくなって、カメラ、衣類、雑貨、ガラクタなど売れるものはみな売り払いながら旅行をしていた。
三か月ぐらいはウロウロしていたがとうとうお金も売るものもなくなって諦めて帰ってきた。
当時、まだ羽田だったが、入国の際そのインド帰りそのものの服装、風体を見て税関員に徹底的に調べられた。(笑)
初めての海外旅行だったが8カ月の長期旅行だった。
この最初の旅行でクソ度胸と根性がついてしまいその後は言葉の壁などなんのその、どこでも平気で行けるようになってしまった。
若かったんだなぁ・・・
初めての海外旅行だったのに全てが上手く楽しく行けてしまった
第二章:初めての海外労働
その次の海外は仕事だった。
ヨーロッパからインドまでの旅を終え無一文になって帰国すれば必然働く必要に迫られるのは当然のこと。
アルバイトニュース(昔から愛読誌だった)でバイトを探しなんとか仕事を始めるのだが放浪の夢が忘れられない。
と言うより、逆に旅への思いが日々募って悶々とした暮らしを続けていた。
次の旅の資金を貯めるためにももう少し一生懸命、そして実入りのいい仕事に就かなければならないのはわかっていたのだが自分の都合だけでどうにかなるほど世の中そこまで甘くはなかった。
そんな虚脱した生活の中、たまたま旅先で出会った人から「職人さんが足らないのだが、仕事してみないか?」との海外の仕事のオファーがきた。
もう二つ返事で「どこでも行きます、なんでもやります!」の即答。
この海外初仕事がその後の人生を一般のサラリーマンや普通の労働者とはまったく別のものにしてしまった。
ほんと、運命や人生など何がもとでどう転ぶか皆目わからない、を地で行ってしまった出会いだった。
行った先はサウジアラビアの砂漠の中。
仕事の中身は火力発電所の建設工事。
もともとアルバイトで土方仕事や大工仕事はやってたことがあったとは言え、バイトの手もとではなくスーパーバイザー(監督)の仕事と言うことで慣れるまで初めはけっこう大変だった。
旅行で覚えたいい加減な和製英語で現地人やアジア系出稼ぎ人に作業指示を出すのだが相手も理解出来ずに戸惑うのはあたりまえ。
なんせ中学、高校と英語などまるっきり興味もなく授業もまともに受けてなかったから文法などほとんど知らず、この頃にやっと基本五文型や受動態、能動態の違いで意味がまったく違うことを覚えたくらい。(笑)
それでもFACE to FACEで話せばなんとか通じるものでそこそこ仕事にはなった。
気候環境は熱帯の砂漠で過酷だったし、キャンプ(飯場)での現地人が作る日本食(?)はお世辞にも美味いとは言えなかった。アラブ圏の中でも一番戒律の厳しいサウジではビールなどのアルコール類もまずなかった。それでも見るもの、聞くもの、話すこと、毎日が初体験で新鮮で楽しかった。
約1年近く無事務めあげたら、お金もけっこう貯まってしまった。なんせ砂漠の中ではたばこ代と麻雀の負けぐらいしか使うことはなかったから。
1年間、酒も娯楽も無しに働いたご褒美は帰国の途中の途中下車の許可。
家庭のある人ならそんなことより一刻も早くウチに帰るのだろうが独身の気軽さ、前回の旅行で金を使い果たし行けなかった東南アジア、バンコクへ遊びに行った。
当時のバンコクやパタヤの盛り場はまだベトナム戦争で派遣されたアメリカ兵の残り香が残っていた。
そして悪名高い日本人の恥、ヤリパック(集団買春ツアー)も全盛だった。
自分も清廉潔白で一切遊ばなかった、とは言えないけど・・・m(_ω_)m
それよりも色々な街や国をウロウロしているのが面白かった。
一カ月近く東南アジアをうろついて帰国して会社に帰宅報告に出社したら、あいつは行方不明!と言うことになっていてけっこう怒られて始末書までも書かされた。
「でも、途中下車の許可は取っているし・・・」と反論すると、
「普通は一日二日、長くても3,4日なんだよ。一カ月は長すぎる!」とのお叱りだった。
ま、今でもそうだが、昔から一般の常識や相場は知らなかったな。(笑)
一般常識に欠けるところはあったが、仕事はそこそこ認めてもらえた様で、その後もそう言った関係の色々な仕事をチョコチョコ結局20年近く続けることになった。
一番最期の海外仕事はリビアのサハラ砂漠の真ん中に何百本もの深い井戸を掘って水をくみ上げ、人工の水路で地中海沿岸まで流して農業灌漑用水として利用するプロジェクトへの資材納入、という仕事だった。普通ではあまり経験出来ない内容の仕事で楽しかったし、広大な砂漠の真ん中での暮らしも夜は卓袱の闇夜に広がる星空はどれが天の川か判らないくらいの星の数で感動したし、昼間の紺青の青空は肉眼で人工衛星が見えるほど透き通っていて、本当の自然と言うものを改めて感じれた時だった。
今では発注の大元のカダフィさんがクーデターで惨殺されてしまいまだ未完のはずだが果たしてプロジェクトはどうなってしまったことやら・・・?
専制支配国家の常として、クーデターや革命の後にはその専制君主の残したもはその良し悪しに関わらず破壊されてしまうことが多いのが歴史の事実。
自分が携わったから余計にそう思うのかもしれないが、何百億円、何千億円もかけたプロジェクトがいとも簡単に破棄、破壊されてしまうのはやっぱり悲しいし、寂しい。
第三章:海とダイビング
1年間働いてとりあえず金も貯まった。さて、どこへ行こう?と思案していた時、友人から旅の誘い、と言うか初めての海外旅行に連れて行ってもらいたい、との願い。
偶々、その友人とは沖縄で一年間バイトしていた時の仲間、そうだ、南の島の海へ行こう、と決めた。
南の島のブルーラグーンとホワイトサンドビーチの海にハマったのはこの沖縄バイト時代だった。
「あの南の島の青い海を見に行こうぜ!」友人も即同意。
当時南の島の海のツアーと言えばハワイ、グアム、サイパンぐらいのもの、フィジーやタヒチなど直行便もなく(知らなかっただけか?)、ましてやモルジブなど夢のまた夢だった。
普通ならグアムかハワイに決定なのだろうが、なんせ天邪鬼、メジャーなところを敬遠してしまう。
選んだ先がミクロネシアのマジョロ島。コンチネンタル航空のグアム周りハワイ行きの各島停車路線のハワイ手前の島だった。多分直行でハワイに行く倍以上の値段を払った相当ぜいたくなオープンチケットだったと思う。
マジョロ、ポナペ、トラック(今はチャック島?)など当時はまだまだマイナーでどこへ行っても日本人観光客に会うことはなかったし、どこの島もちょっと小さな部落に行けば戦争体験者の年寄がいて日本人を懐かしがり、戦時中に習ったと言う片言の日本語で話しかけてきたり、日本語の歌を聞かせてくれたりした。
彼ら年寄は戦争当時の日本の統治にまったく悪い印象を持っておらず逆に学校、病院、道路、港湾などのインフラ、教育の整備、普及にとても感謝していて、温かい歓待を受けた。
「俺の持っている無人島へ遊びに行こう」など、観光的な無人島とは違って本当に手つかずの自然そのままの無人島ハイクなど最高に楽しかった。
海の中ももちろん手つかずのあらゆる種類のサンゴ礁や「佃煮か!」と言うほどの大量のトロピカルフィッシュが泳いでいた。沖縄も良かったがそれ以上に感動していた。
当然、ダイビングもやるつもりだったのだが、スキューバダイビングにライセンスがいることを現地で初めて知って愕然!
まったく「なにそれ?」って言うくらい無知だった。
既に大きな島には欧米系のダイブショップがいくつかあったが、ライセンス講習をやっているところやチンプンカンプンな英語しか喋れない日本人をまともに相手してくれるところはなかった。まだまだダイビングは危険なレジャーの部類だったから。
ダイビングは出来なかったが好意的な異文化に触れたり、戦跡ツアー、ジャングルツアーなどそれなりに娯楽はあって楽しかった。
泊まっていた宿はバックパッカー、ゲストハウス、民宿などの安宿ばかりだったが、治安も良く全然問題なかった。基本、島と言うのは犯罪を犯しても逃げ場がないので概して治安はいい。情報化などされてない昔のド田舎は尚更良かった。
各島停車でグアムまで戻ってきてようやく日本人相手にライセンス講習をしてくれるダイブショップを見つけた。
今、PADIのオープンウォーターライセンスなど3,4日で取れてしまうが、多分一週間以上、十日近くかかったと思う。
英語での座学、実地訓練、中間試験、卒業試験は学校の英語教育の授業とはまったく違ってメチャ楽しかった。多分インストラクターの講師に対して発した英語のほとんどは「Ohh、yeee・・・」だったと思う(笑)
こんないい加減な日本人によく最後まで授業をしてくれた、と感謝してたが、途中で判ったのだが、このインストラクターの禿げあがったおっさん、多分40代前半だと思ったが、20代後半の若い日本人の彼女がいて、日本人に対して免疫が出来ていたためだった。
そして、この日本人の彼女は米国人の弁護士と同棲をしていたしたたかな女性だった。一度家へ遊びに行ったら、その若い弁護士さん部屋で大麻をくゆらせていて、「ジョイントするか?」と勧めてきた。
弁護士が、マジかよ・・・!!!とたまげてしまった。
ダイビングの方は無事(?)卒業試験もパスした。
講習してくれたインストラクターのおっさんはものすごく気前がよくて、帰国フライトまでの数日間、卒業の褒美にどこでも潜らせてやる、とタダで色々なところへ連れて行ってくれた。今ではとても考えられない楽しいサービスだった。
ま、そんなおおらかな時代だったんですね・・・(笑)
このミクロネシア旅行で唯一の心残りは、現地ポナペで初めてその存在を知った「カピンガマランギ島」へ行けなかったこと。ポナペから船で一週間かかり定期船は三カ月に一度、という絶海のサンゴ礁の孤島。いつか行ってみたいと思っていたのだがとうとう今日まで行けず終いになっている。
ダイビングはその後もちょくちょく色々な海へ潜りに行った。特に○回目の彼女が出来た時は二人でよく行った。モルジブ、セーシェル、モーリシャスなどのインド洋からタヒチ、フィジー、クックなどのポリネシア、グァム、サイパンのミクロネシア、遠くはコスタリカ、コロンビアなどのカリブ海、そしてタイ、マレーシア、インドネシア、フィリピンなどのアジア圏などなど。もちろん日本でも。ただ基本が寒がりなので、日本では沖縄、小笠原がメインで八丈島ぐらいが北限だった。
ハマっていた時はン十万円もかけて重装備までも全部揃えていたのだが今はそれも一切ない。
残っているのはPADIのオープンウォーターとアドバンスのライセンスカードだけ。
ま、このカードさえあればまた行きたくなったとしてもなんとかなるし。
第四章:さすらいのギャンブラーの夢を見ていた頃
話はまったく変わって、「さすらいのギャンブラー」を目指していた頃のお話(笑)
海外で最初にカジノに行ったのはメチャクチャマイナーだがネパール、スリランカなどのリゾートカジノだった。
最初のヨーロッパ放浪中、イギリス、ドイツ、フランス、モナコなどカジノは一杯あったが、博打に使える金などまったくなかった。それにヨーロッパのカジノは紳士の社交場と言われるようにネクタイ、スーツ、靴などのドレスコードが厳しく、ノータイの一介の貧乏バックパッカーを気楽に入れてくれるところではなかった。
その点、ネパールやスリランカのリゾートカジノは観光客がターゲットなだけあって、ある程度の服装で靴さえ履いていればなんとか入れてもらえた。
もともと博打ギャンブルは好きで日本でも、パチンコ、麻雀、競馬などには随分ハマっていた。
性格自体が臆病なためか大負けした記憶もなく「俺ってけっこう博才あるのかも・・・」と本気で思っていた。多分、負けた記憶が飛んでいただけなのだろう。(笑)
カジノで最初にハマったのはやはり花形のルーレットだった。
何と言っても数字の一点賭けで的中した時の35倍の配当には痺れる。2点賭けの17倍でも喜びは相当。
賭け方は他にも4点賭け、6点賭けや大中小、列賭け、大小、赤黒、奇数偶数賭けなど色々あるが究極はそれらをすべて組み合わせた十字賭け!
ここはそれを詳しく解説する場所ではないので割愛するが、賭け方の必勝法や保険法など判って来ると、まず回る円盤の数字の並びや色を覚えなくてはならないことが判って来る。その一番基礎としてまず、台の種類にヨーロピアンスタイルとアメリカンスタイルがあること、ヨーロピアンは”0”一つだが、アメリカンには”0”と”00”があり、当然数字の並び順も違うことなどやればやるほど泥沼にハマっていく。
そしてそれら賭け方のノウハウをマスターすることも大事だが、それと同様に実際にルーレット台に座る時のその座る場所も最重要なポイントなのも判って来る。
ただ、一人でルーレット台を占有することなどまずなくその絶好のポジションに座れるかどうかはその時のタイミングで意外と難しかった。
またフィリピン、セブ辺りのカジノではボールをスピンして投げ入れる前に「ノー・モア・ベット」を宣告してしまう。これ体験するとわかるがなんとも締まらないお間抜けなゲームになり下がってしまう。
ほかに今はもう見ることはできないが、昔、マカオにあった中国スタイルのルーレットは数字が24までしかなく、回転盤に投げ入れるボールの大きさがテニスボールぐらいの巨大さだったのにも笑った。
ルーレットもやればやるほど、知れば知るほど奥が深い博打である。
日本も東京オリンピックにむけ多分カジノが解禁になってお台場辺りに出来るのだろうが、中毒患者が増えないこと願っている。
いくら好きでも一晩、二晩、ルーレットだけ賭け続ければさすがに飽きたり、息抜きもしたくなってくる。そんな時カジノ内をウロウロしてスロットルマシーンやサイコロを使ったクラップス、ポーカー、ブラックジャックなどのカードゲームを覗いたり見学していたりして見つけたのがバカラ!だった。
これはもう痺れた!自分の中だけではなくギャンブルの世界の中でも究極の博打だと思う。
日本の地下賭博で捕まるのはほとんどこれだし、富士山の強力で一財産を貯め、それを博打にぶち込んでラスベガスのホテルと勝負した伝説のギャンブラー柏木昭男がハマったのもバカラだった。
自分も何億円も勝負できる身分ではないが、そこそこの額をブチ込んでハマっていた。
博打から足を洗う前の最後の数年はマカオに入り浸りで多い年で年20回ぐらいは行っていた。
マカオのカジノは欧米のそれとは格式も品格も違う。日本で言えばパチンコ屋的な感覚でお気楽に入れる。服装も一応ドレスコードはあるみたいだが、普通にシャツと靴ぐらい履いていれば咎められることはまずない。
一度の渡航で一週間から二週間、長ければ一月近く昼夜関係なく徹夜でバカラをやり続けていた。
博打に疲れた息抜きにたまに観光をしていた。有名なセントポール天主堂跡は常宿から近い事もあって何度も行ったが、タイパ島やコロアネ島など奥マカオには数回しか行かなかった。
ま、観光しても博打の事で頭が一杯で何を見ても大して感動もしなかったし記憶にも残らなかった。
もちろん博打場では目立たない様にしているつもりだったがそれだけ行けばやはり顔を覚えられてしまう。そうなると最悪、当然地元のチャイニーズマフィアがカモろうとあの手この手で寄ってくるようになる。もう落ち着いて博打などしていられなくなる。
博打場だけでなくカジノや街のレストランでちょこっと飯を食っていてもニヤニヤして寄ってくるのだからたまったものではなかった。
それでも、当時7,8軒あったと思うがマカオ市内のカジノを転々としてチャイニーズマフィアを避けて賭博を続けていた。
が、最終的にはどこに行ってもメンが割れてしまい、どうしようもなくなり結局はマカオのバカラから足を洗ってしまった。
本当は、勝つことが出来なくなってきたことと博打をすることに緊張や興奮が起らなくなって興味がなくなったのが最大の理由だとは思う。
少なくとも10年以上は博打にハマっていたと思うが、トータルの戦績は、多分、トントンかチョイマイナスぐらいだと思う。勝ち続けていた頃は「俺って博才あるじゃん!このままさすらいのギャンブラーで世界中のカジノを旅して周って喰っていけるかも・・・」と本気で考えていたこともあった。
他人から見たら完全にアホの典型だが、自分ではメチャクチャ幸せな時代だったと思う。(笑)
第五章:旅先のハプニング、でも未だバックバージン(笑)
色々なところを周っていると当然色々な出来事やハプニングに出くわす。
その中の一つ、ゲイ、ホモ関係のハプニングもいくつかあった。
詳しく書くとズバリ下ネタになってしまうので詳細は書けないがそこそこの事まではあった。
中でも一番恐ろしかったのが、イランでの出来事だった。
恐ろしいと言っても殺されるとか言うのではなく、力ずくでバックバージンを強奪される程度のことなのだが、女性の一人旅の怖さを身を持って体験した。
体毛の濃い体臭のキツイ屈強なイラニアンに部屋に閉じ込められカッターナイフをチャリチャリ鳴らしながらニヤニヤ迫られた時は生きた心地がしなかった。
東南アジアは、タイに限らずシンガポールでもフィリピンでもゲイと言うよりオカマが多い。
彼らは心身共に女になり切っているので危険はないが、その仕草、言動でまったく本当の女性と間違えて惚れてしまったこともあった。
普段、日本でもそうだが、そんなに女性から告白されたり言い寄られたりすることはまずないので(お水の商売は別として)たまにそんなことがあると嬉しくなって冷静な判断機能が停止して舞い上がって見境がなくなり、つい間違えて事に及んだ体験もした。
<<続く>>
第六章:理想の旅、究極の旅、夢の旅
仕事での中東滞在やその行き帰りの中東、印パ圏、東南アジアへの寄り道や単発の個人旅行などを繰り返して行くうちに、いつしか旅の原点に戻りたくなってどこか長期に流れてみたいと思うようになっていた。
とりあえず旅の最終的な夢は太平洋一周放浪を考えていた。
コースは、
東京から北海道、千島列島経由でカムチャッカ半島に上陸、アリューシャン列島沿いにアラスカに渡り、そのままカナダ、アメリカと北米大陸を南下、メキシコやグアテマラ、ニカラグア、コスタリカなどの中米を通ってコロンビア、ベネズエラの南米に入る。途中フロリダ半島からキューバ、ドミニカ、プエルトリコ、ジャマイカなどの大スンダ列島から小スンダ列島経由でのベネズエラ入りも魅力で悩むところ。
南米はペルー、ボリビア、ブラジル、アルゼンチン、チリなど周り出来れば南極へ寄り道。
タヒチやキリバス、サモア、トンガ、フィジー、バヌアツなど南太平洋を周り、ニュージーランド、オーストラリアからニューギニアに北上してアジアへ。インドネシアから東南アジアを周って、ベトナム、中国、台湾を周って、沖縄から九州、四国、関西、東海道と周り東京へ帰ってくる。
この壮大な環太平洋一周を一度はやってみたかった。
ただ、最終的な夢の前にもっとお気楽に出来る旅、と言うことで東京から飛行機を使わずにどこまで南下できるか?を試してみよう、と思った。
当時、まだ猿岩石のヒッチハイク番組などなかった時代だったが、我ながら旅に関してはけっこう先端をいっていたと思う(笑)
コース的には、飛行機を使わなくても、鉄道、バス、船で
東京、鹿児島、沖縄、台湾、香港、広州、ベトナム、カンボジア、タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア、パプアニューギニア、オーストラリア、ニュージーランド、出来れば南極・・・
ぐらい行けるだろうと計画した。
この頃は既に旅の荷物などボストンバッグ一つで済ませていたので、気持ちの準備だけして、東京から東海道線の鈍行列車に乗り込んだ。
行けるところまで・・・というお気楽さで一番最初の時のような昂揚感はそんなになかった。問題は多分、香港から中国本土、そしてベトナムまでの中国国内の通過。それと、インドネシア近辺の島伝いの通過。インドネシアとオーストラリアが意外と仲悪く、パプア経由で行けるかどうか?など考えていた。
鈍行を乗り継いで九州の鹿児島まで行き、船で沖縄に行った。沖縄は何度来てもいいところ。台湾に行く船のスケジュールを調べてのんびり滞在。石垣島で出国手続きをして台湾に渡った。この石垣島での出国手続きは一度経験してみると楽しい。港の桟橋にどこからか机を一つ持ってきてそこでビザをチェックしてパスポートにスタンプを押す。まったくローカルと言うか開放的と言うのか簡単であけっぴろげ。ニセビザ、ニセパスポートなどで密出国しようと思えばいくらでも出来そうなおおらかさだった。那覇だともう少し厳格な出国審査があるのかもしれない。
西表や黒島の沖を通り与那国近海を一晩かけて台湾の基隆へ向かう。基隆から台北、高雄へと列車で移動。台湾もすでに何度か訪れていたのでこの辺はスムーズ。
が、高雄で香港行きのフェリーがあるはずだったのに「今、定期点検、修繕のためにドッグ入りで運航はない」とあっさりあっけなく旅の計画は頓挫してしまった。(泣)
気合いが入っていた分、このまま帰ってまた出直す気にもならず、高雄の街の安そうな旅行代理店に行って適当な行き先の航空券を買って旅を続けることにした。
行き先は今回はベトナムにした。
<<続く>>
第七章:気の向くままの気まま旅・・・
海外の旅も経験を積んでくると知識や知恵も蓄積されてくるし、旅行会話程度の英語なら現地での意思疎通も一人でなんとかこなせるようになってくる。そうなると旅のスタイルが軽快になると言うか、悪く言うと雑になってくる。荷物もボストンバッグ一個持って行くのすらめんどくさくなってしまう。人がいなかったりお店がないようなそんなに未開の地に探検に行くわけでもないし、旅の日常に必要なものなど大体どこでも買えるのにわざわざ日本から重たい苦労をして持って行く意味が判らない、と思っていた。購買に多少の金がかかるとはいっても、帰りのお土産代と比べたら、Tシャツ、パンツ、歯ブラシの値段などたかが知れている。
最期の方の旅はほとんど手ぶらでサンダル履きで成田から飛び立っていた。空港の荷物検査の速いこと・・・(笑)
そんな旅の一つで、ニュージーランドに行ったことがある。前の章に書いた日本からオーストラリアまで旅が出来なかった代償もあったし、ニュージーランドの自然の美しさを一度実際に見てみたい、という思いがあったから。
ミルフォードサウンドやマウントクック近辺のトレッキングなども魅力だし、釣りも面白そうだし、温泉もあるって言うし・・・
冬は寒かろう、と思い、ぼちぼち暖かくなるだろうと10月にオープンチケットを買って飛び立った。2〜3カ月は周るつもりだったのでさすが手ぶらと言うことはなかったが、それでもボストンバック一個で着換えと釣り道具と地球の歩き方ぐらいを持って行った。
日本で言えばGWぐらいの陽気を想像していたのだが、オークランドに降り立ったら意外と寒い、「マジかよ・・・」だった。
晴れていても空気が冷たい。どうやら、日本の五月ぐらいの感覚とはちと違っていた。北島でこんなだとクライストチャーチなどの南島の方はもっと寒いだろうな・・・初っ端から軟弱にへこむ。
それでもオークランドやその近辺の安宿やYHに数日滞在して観光したり釣りしたりしながら様子をみてみた。
が、どうやら、暖かくなるのは来月以降の様子、こりゃダメだ、と暖かい所へ2〜3週間避寒に行くことにした。
どこに行くか?オーストラリアやニュージーランドでは逆さ世界地図が売られているが、ちと斬新な感覚でそれを眺めながら行き先を探す。
ま、どうせまたオークランドに戻ってくるんだし・・、と、久々懐かしのフィジーに行ってみることにした。
行き先がニュージーランドだろうが、フィジーだろうが持って行く荷物はまったく同じなんだし・・・、チケットだけ買ってお気軽にさっさと飛び立った。飛行機の座席など前日の予約でも全然問題なく取れ日本のJRの指定席を取るより簡単だったかも。
フィジーはその4,5年前にノービザで滞在できる三カ月間(今は四カ月?)ぐらいブラブラ周っていたことがある。この国には300以上の島があり、島によって文化や風習などにバリエーションもあり、どこへ行っても飽きない。
それに欧米のバックパッカーが世界一周の旅をする時、太平洋横断のオーストラリア〜ハワイ間のストップオーバーポイントにもなっているせいもあって島の割に物価は安いし、安宿も一杯ある。離島へ行っても英語が通じるし、現地人はスレてなく明るいし、もちろん綺麗な海でダイビングも出来るし、のんびりもできる。大好きな国の一つ。
一度来ていると尚更お気楽に旅ができる。
詳しく書くと長くなるので端折るが、新しい島や昔行った島など新旧取り混ぜて3週間ぐら周った。もっと滞在して色々な島へ行きたい気もしたのだが、本来の旅先のニュージーランドがメインであること思い出して後ろ髪惹かれる思いでオークランドに舞い戻った。
が、まだ寒かった。再び「マジかよ〜!」だった。
<<続く>>
この頃の旅はお金と時間がそこそこあったので好きな時に好きな処へ行けた。
もっとも、根が貧乏人だし、ほとんど単独だったので、お金があってもファーストクラスや高級ホテルなどを利用することはまずなかった。いくらお金があってもフィジーやタヒチ、モルジブなどで四つ星、五つ星の高級リゾートホテルに一人で泊まるのは恥ずかしいし、自分のキャラと全然合わない無様さがみっともない気がしてまったく楽しめそうになかったから。
それより安宿で同じような旅をしている欧米のバックパッカーと気楽に友達になれる旅の方がよほど楽しかった。
<<続く>>
オリジナルのジョン・デンバーよりこっちが好き♡
第八章:エピローグ
訪れた国は・・・
アジア
台湾・中国・フィリピン・タイ・マレーシア・シンガポール・インドネシア・ベトナム・ラオス
中東
インド・パキスタン・ネパール・スリランカ・アフガニスタン・イラン・トルコ・サウジアラビア・バーレン・カタール・UAE
インド洋
モルジブ・シェーシェル・モーリシャス
ヨーロッパ
イギリス・フランス・ドイツ・オランダ・ベルギー・ルクセンブルグ・デンマーク・スエーデン・ノルウエー・スイス・オーストリア・イタリア・バチカン・スペイン・ギリシャ
アフリカ
チェニジア・リビア
北中南米
カナダ・アメリカ・メキシコ・グアテマラ・コスタリカ・コロンビア
太平洋
フィジー・タヒチ・クック・マーシャル・ミクロネシア・マリアナ・ニュージーランド
旅行や旅、仕事などで色々周ったが、好きだった地域は北回帰線と南回帰線の間の暖かゾーン。概して荷物も少なく、お金もかからずお気楽な旅ができた。
そして最後にハマったのは南太平洋だった。
白い砂浜、コバルトブルーのリーフ、そしてヤシの木と原色の花々・・・
何もしないでただただ風を感じて怠惰な時を過ごすのが何より好きだった。
本当は山より海人間なのかも・・
沖のリーフで砕ける波の音を聴きながらこんな曲を聴いてまどろむのが一番好きかも・・・。
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