記録ID: 429734
全員に公開
雪山ハイキング
アジア
ダウラギリ・サーキット ネパール学校支援事業とトレッキング
2012年10月18日(木) 〜
2012年11月06日(火)


- GPS
- 316:00
- 距離
- 74.6km
- 登り
- 6,565m
- 下り
- 4,937m
コースタイム
10/18 岡山9:45→飛→11:20インチョン(泊)
10/19 インチョン8:40→飛→12:25カトマンヅ(泊)
10/20 カトマンヅ8:30→飛→9:05ポカラ→ベニ(昼食)→17:00ダルバン1110m(泊)
10/21 ダルバン8:44→11:25ダラパニ1560m(泊)
10/22 ダラパニ(泊)
10/23 ダラバニ8:10→12:20ファリアガオン1850m (泊)
10/24 ファリアガオン7:30→16:50ボガラ2080m(泊)
10/25 ボガラ7:15→15:30ドバン2520m(泊)
10/26 ドバン7:40→17:30イタリーBC3660m(泊)
10/27 イタリーBC8:00→スイスBC→13:30ジャパンBC4085m(泊)
10/28 ジャパンBC8:10→12:30ダウラギリBC4740m(泊)
10/29 ダウラギリBC8:00→12:55フレンチパス13:00→14:00ヒドンバレー5180m(泊)
10/30 ヒドンバレー8:00→タパパス5258m→18:00マルファ2670m(泊)
10/31 マルファ10:00→車→10:30ジョムソン2710m(泊)
11/1 ジョムソン(泊)
11/2 ジョムソン7:20→飛→7:40ポカラ(朝・昼食)13:30→飛→14:15カトマンヅ(泊)
11/3 カトマンヅ(泊)
11/4 カトマンヅ(泊)
11/5 カトマンヅ15:20→飛→25:00インチョン(泊)
11/6 インチョン18:40→飛→20:05岡山
10/19 インチョン8:40→飛→12:25カトマンヅ(泊)
10/20 カトマンヅ8:30→飛→9:05ポカラ→ベニ(昼食)→17:00ダルバン1110m(泊)
10/21 ダルバン8:44→11:25ダラパニ1560m(泊)
10/22 ダラパニ(泊)
10/23 ダラバニ8:10→12:20ファリアガオン1850m (泊)
10/24 ファリアガオン7:30→16:50ボガラ2080m(泊)
10/25 ボガラ7:15→15:30ドバン2520m(泊)
10/26 ドバン7:40→17:30イタリーBC3660m(泊)
10/27 イタリーBC8:00→スイスBC→13:30ジャパンBC4085m(泊)
10/28 ジャパンBC8:10→12:30ダウラギリBC4740m(泊)
10/29 ダウラギリBC8:00→12:55フレンチパス13:00→14:00ヒドンバレー5180m(泊)
10/30 ヒドンバレー8:00→タパパス5258m→18:00マルファ2670m(泊)
10/31 マルファ10:00→車→10:30ジョムソン2710m(泊)
11/1 ジョムソン(泊)
11/2 ジョムソン7:20→飛→7:40ポカラ(朝・昼食)13:30→飛→14:15カトマンヅ(泊)
11/3 カトマンヅ(泊)
11/4 カトマンヅ(泊)
11/5 カトマンヅ15:20→飛→25:00インチョン(泊)
11/6 インチョン18:40→飛→20:05岡山
過去天気図(気象庁) | 2012年10月の天気図 |
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アクセス |
利用交通機関:
バス
飛行機
|
コース状況/ 危険箇所等 |
アンナプルナ1峰(8091m)で人類最初の8000峰登頂を果たしたフランス隊は、計画当初はダウラギリ1峰(8167m)を目指していました。カリガンダキ上流のジョムソンからヒドンバレー(隠された谷)を越えてダウラギリを眺めた時、彼らフランス隊はダウラギリの凄まじい山容を目にして登頂を断念し、アンナプルナに転進成功しました。そのフランス隊がダウラギリを見た場所という由来で名付けられた”フレンチパス(フランス人の峠)”にミャグディコーラ下流からアプローチし、5000m超の峠を2つとヒドンバレーを越えて、ジョムソンにいたる山旅です。 |
写真
10月21日、ダルバンからダラパニへ。
ダルバンまではポカラから普通のバスとボロボロのバスで半日。ダラパニとファリアガオンの学校に持って行く太陽光発電システム、コンピュータ機器、ネット接続機材などを荷分けして出発。
ダルバンまではポカラから普通のバスとボロボロのバスで半日。ダラパニとファリアガオンの学校に持って行く太陽光発電システム、コンピュータ機器、ネット接続機材などを荷分けして出発。
『ダルバンを出発してしばらく行くと急登が始まり、登り切ったあたりでダウラギリ主峰を見た。久しぶりに見る8000M峰。これからあの大きな山の麓を周ると思うと、何か現実的でないように感じるほど遠く見える。セリキサニ校のあるダラパニ村の手前まで来ると、歓迎の村人たちが集まっているようだったので、少し手前で隊長一行を待つことにした。天気上々。』日記から
『ダラパニに到着。ダサイン祭の最中でもあり、ダラパニではいつもより多くなっていると思われる大勢の村人から盛大な歓迎を受け、こそばゆく、なんだか申し訳ない気持ちにもなる。皆素敵な笑顔で迎えてくれ、ナマステの挨拶にほっこりする。私たちの為に祭日の貴重な時間を割いてくれる、それが一番ありがたいことだと思う。贈呈した望遠鏡に興味津々の子供たち、いや大人達も、列をなして順番待ち。中には覗きたいけど恥ずかしくて近づいてこられない子もいる。』相方の日記から
10月22日早朝のセリキサニ校。
校庭からグルジャ・ヒマールを見る。2010年のランタン谷、2008年のメラピークの頃と比べて、ネパールの社会生活は部分的にですが確実に変化しています。その最も顕著な例の一つがインターネットの普及だと思います。
校庭からグルジャ・ヒマールを見る。2010年のランタン谷、2008年のメラピークの頃と比べて、ネパールの社会生活は部分的にですが確実に変化しています。その最も顕著な例の一つがインターネットの普及だと思います。
『セリキサニ校庭で。子供達だけでなくおじさんおばさんも大勢きて月を見る。クレーターがはっきり見えた時の子供は顔つきが変わるのが分かる。はじめはニコニコ嬉しそうにしていたのが、真剣な表情になった。その子の中で何かが変化する瞬間なのかもしれない。』日記から
10月23日、ダラパニからファリアガオン。
タカム、マチムを過ぎてファリアガオンに到着し、ダンパンディ校へ。ここで今回と昨年の支援物資の確認するはずが、学校内には何もなく、学校関係者も見当たらず。バッティ(茶屋)のおばさんに訊ねたりしながら、やっと学校の庶務担当らしき人を見つけて説明。『コンピュータやプリンタ、電源の現状を見たいので案内してくれますか?』『コンピュータはここ(学校)にはありません。』・・・え?
タカム、マチムを過ぎてファリアガオンに到着し、ダンパンディ校へ。ここで今回と昨年の支援物資の確認するはずが、学校内には何もなく、学校関係者も見当たらず。バッティ(茶屋)のおばさんに訊ねたりしながら、やっと学校の庶務担当らしき人を見つけて説明。『コンピュータやプリンタ、電源の現状を見たいので案内してくれますか?』『コンピュータはここ(学校)にはありません。』・・・え?
『・・・しばらくして、昨年の支援物資を詰めたダンボール箱が運ばれてきた。もしかすると電源の問題などで、学校以外の場所で使用していたのかもしれないが、だとするとその現状をきちんと見ておかなくてはならない。こうなると今回の支援物資も、受取った人たちと一緒に現場で確認することが必要だ。しかし当事者能力のある関係者はマチムに出掛けており今日は帰ってこない様子。結局、明日早朝に帰る予定の学校関係者に面会し、お互いに確認し合う事にする。今日はファリアガオンを数時間滞在のみで通過し、ムリまで行く予定だったが、このまま放っておく気になれず宿泊を決め、ダンパンディ校の校庭にテントを立てる。すぐ隣で遊んでいる子供達が覗きに来てくれるので楽しい時間だ。明日はムリを越えてボガラまで歩くこととなり、1.5日分、約10時間行動となるだろう。』日記から
10月24日、ファリアガオンからムリを経由してボガラへ。
ファリアガオンからの下り斜面です。概ね段々畑の中を降っている、石ころの多い生活道です。相方はここで捻挫しました。景色がよく見える広々とした斜面を谷底の吊り橋まで降りています。
ファリアガオンからの下り斜面です。概ね段々畑の中を降っている、石ころの多い生活道です。相方はここで捻挫しました。景色がよく見える広々とした斜面を谷底の吊り橋まで降りています。
ムリはこの地域(ダル・コーラ北側)の中心の街で、一つ南の地域(ダル・コーラ南側の地域でタカムが中心の街、ダラパニ、ファリアガオンがここに含まれます。)より人が少ない感じ。平地(耕作地)の面積も比較してみると少ない印象でした。しかし300戸程度の村落の多くの家の屋根にはソーラーパネルが設置してあり、生活の一部として活用されていました。このパネルは政府補助が半額出ていると聞きました。この時期はマッカイ(とうもろこし)の収穫が終わった時期だったのか、どの家でもマッカイを乾燥させるために軒下に干してありました。
結構巾の広い道を5〜6回折り返しながらジグザグに登ります。折り返し前後の水平道はほぼ断崖の中です。地面は変わらず土と石混じりです。ナウラに着くまでに河床から100m程度は上がっていると思います。対岸(ミャグディ・コーラ左岸)までは水平距離で250mくらいでしょうか。谷間に入り込んでいるので、まだダウラギリ山群の雪山は見えませんでした。緑の多い谷間を奥へ奥へと進んでいる感じで、日の当たる時間が短いせいか、少し暗い印象の風景でした。
バガラもこのように高いところにあります。村から少し離れた宿泊地だったのですが、村と言っても10戸程度でした。農地らしい農地も少なく貧しい印象を持ちましたが、このバガラやドバンはまだ放牧用の宿泊地(カルカ)から少し規模が発展した程度の段階かと思います。
バガラを出ると、ミャグディ・コーラから高い場所にある支流にかかる橋があります。森から出て、支流を渡り、また森の中の道へと戻ります。少し歩くとまた開けた場所に出て、そこに水牛の放牧をしているカルカがあります。
ドバンからチョリバンまでは土と石混じりの道、すれ違いできる程度の幅1〜1.5mくらいの道です。概ね河沿いの林の中で、たまに河床に出るとミャグディ・コーラ奥の谷の方角が見える程度の展望です。河床との距離は離れたり近づいたりですが、水平距離10〜20m程度、高さもその程度。写真のチョリバンに着く手前から河床を離れ、イタリBCまで河岸段丘上の斜面を登ります。チョリバンは森の中の広場です。カルカとして伐採されたように見えました。その木材で作られたであろうバッティが1軒、木材作業小屋が1軒あります。この木材はイタリBCでの山小屋建設(1軒新築中)に使っているのではないかと思います。ミャグディ・コーラは見えず、河床との水平距離100〜200m程度、高さも150m程度と思います。
この写真はイタリBCから下部に見える右岸です。輝いて見えるのがツォーラボンピークから降りている尾根の上の小ピークと思います。目の前のテントは、緑色のテントが常設テントで、ここのバッティの経営者がツーリストに貸しています。バッティでは食事もできますが、テントの向こうに見える畑の収穫物も使っているようでした。
この写真はイタリBC上部のミャグディ・コーラの谷間を見ています。白いピークはシタチュクラと思います。これはヒドン・バレーからも反対側がよく見える山です。左下には新築中の山小屋。今頃は宿泊できる小屋になっていると思います。
『数日先行していたイギリスのグループでは、寒さのためにイタリBCから帰る人もいた。多くの隊がイタリBCまでで引き返すのだということを知った。確かにここが平地と高所の境目だった。』日記から
『数日先行していたイギリスのグループでは、寒さのためにイタリBCから帰る人もいた。多くの隊がイタリBCまでで引き返すのだということを知った。確かにここが平地と高所の境目だった。』日記から
この写真はイタリBCからプチャール壁(西壁下部)を見ています(前の写真の右側)。
『一昨日、昨日と長時間行動が続いたので、今日のイタリBC到着後、明日は高度順化も兼ねて休養日の予定だった。シェルパたちも休みたい気持ちを何となく訴えてくる。しかしこの調子で明後日一気にダウラギリBCに上がれるだろうか?それよりも明日少しでも上部のジャパンBCまで上がっておけばリスクが少ないのではないだろうか?サーダーと相談して明日はジャパンBCに上がって半日休養とすることに決定。ここイタリBCは予想以上に寒い。ダウラギリ主峰西端のプチャール壁が目の前に立ち塞がり、氷壁の冷気がしのび降りてくる谷底のカルカ(放牧地)だ。』日記から
『一昨日、昨日と長時間行動が続いたので、今日のイタリBC到着後、明日は高度順化も兼ねて休養日の予定だった。シェルパたちも休みたい気持ちを何となく訴えてくる。しかしこの調子で明後日一気にダウラギリBCに上がれるだろうか?それよりも明日少しでも上部のジャパンBCまで上がっておけばリスクが少ないのではないだろうか?サーダーと相談して明日はジャパンBCに上がって半日休養とすることに決定。ここイタリBCは予想以上に寒い。ダウラギリ主峰西端のプチャール壁が目の前に立ち塞がり、氷壁の冷気がしのび降りてくる谷底のカルカ(放牧地)だ。』日記から
10月27日、ジャパンBCに向かう途中でイタリBCの方を振り返った写真です。右奥に見える河岸段丘の上に広い草原地帯があり、そこにイタリBCがあります。モレーンの典型的な地形で、底まで降りて、すぐに右岸を200m登り、右岸側の河岸段丘上に出ます。
『イタリBCからしばらくするといかにも氷河のモレーンエンドを歩いている風景になる。つまり崩れやすい堆積土の凸凹を延々と歩くわけだ。イタリBC直下のルートは土砂崩れで不安定になっていて、大人数で歩くのが怖いような悪い斜面を200mほど下った。悪斜面の対岸をまた200m程登って振り返ると、ロシア隊が悪斜面をソロリソロリと下っているのが見えた。彼らは毎日我々の1時間あとから出発し、キャンプ地手前で追い抜いてゆくという賢い方法をとっている。我が隊は彼らの道案内にもなっているということだ。しかし、シェルパレスで各自が自分で食事を作りながらのトレッキングスタイルは気に入った。そういえばもう1隊、昨日まで前後して歩いていたオーストリア隊がイタリBCに上がってきていなかった。気の良いおじさんおばさんのパーティで、休憩の時など言葉は通じなくてもお互い笑顔で挨拶し合い、気に掛け合っていたのだが、やはり体力的にイタリBCに届かなかったのだろうか?』日記から
右岸側の河岸段丘上に出ると、スイスBCがあります(一部の地図とは違ってスイスBCは右岸にあります)。ここにもカルカの小屋が1軒ありますが無人です。ここからジャパンBCまで標高差200m位ですが、途中で氷河になります。
どこから氷河上に入ったかは定かでないのですが、地図でのフレンチBCの辺りから氷河中央部に入っていると思います。この写真のように氷河上に厚さ50センチ〜1m位の砂礫が堆積しており、ところどころ雪が見えています。中央に盛り上がっている丘の向こうがジャパンBCです。
スイスBCの辺りではまだミャグディ・コーラの河床がかなり下にあったのですが、フレンチBC付近まで来るとすぐ右に氷河が上がってきます。ジャパンBC手前の氷河上で振り返った写真ではこのような歩きやすい道が続いていますが、徐々に空気も薄くなってきます。氷河上のルートを登って行きます。相方とクマール(シェルパリーダー)が座っている石の下は氷の台です。
ジャパンBCです。右に見えるテントはここに常設食堂を営業している現地人のテントです。氷河上の低い方(写真の左の方)にゆくとデイクリーク(昼間だけ流れる氷河上の水流)があり、食堂やシェルパはそこまで水を汲みに行きます(シェルパで往復30分位か?)。
『ジャパンBCに着くと、今日は半日休養どころではないとわかった。高度障害が出ていることは、食欲減退に現れている。日本から持ってきたフリーズドライのスープが頼りとなる。しかもすごく寒い。あとから来たロシア隊もここで泊まることにしたようだ。『ダウラBCまで行かないの?』と聞くと『デーンジャラス!』と言っていた。怖いものなしに見えるが、ちゃんと考えているようだ。』日記から
『ジャパンBCに着くと、今日は半日休養どころではないとわかった。高度障害が出ていることは、食欲減退に現れている。日本から持ってきたフリーズドライのスープが頼りとなる。しかもすごく寒い。あとから来たロシア隊もここで泊まることにしたようだ。『ダウラBCまで行かないの?』と聞くと『デーンジャラス!』と言っていた。怖いものなしに見えるが、ちゃんと考えているようだ。』日記から
10月28日、ジャパンBCからダウラギリBCへ。
モレーンは地形的には氷河両端の堆積物の土手を言いますから、このジャパンBC付近にはあまり顕著なモレーンはありません。また、氷河上の土砂堆積物をモレーンということもあります。この写真の中央下部にジャパンBCがあります。背景は黒い岩のツォーラボン・ピークとその右にダウラギリ5峰。
モレーンは地形的には氷河両端の堆積物の土手を言いますから、このジャパンBC付近にはあまり顕著なモレーンはありません。また、氷河上の土砂堆積物をモレーンということもあります。この写真の中央下部にジャパンBCがあります。背景は黒い岩のツォーラボン・ピークとその右にダウラギリ5峰。
写真のように氷河上に薄く堆積した土砂の上を歩くのですが、あまり周りの景色が見えず、むしろ後ろを振り返って、ダウラギリ5峰の稜線の写真を何度も撮影していました。途中の浅いクレバスには、直径1m位のタイヤが何故か捨ててありましたが、後で聞いたところではヘリコプターが墜落したという話でした。その残骸なのかもしれません。
ピナクルがよく目立つコーナーを右(東)へ曲がると、ツクチェ・ピークが見えてきます。どんどん東に進路を向けてダウラギリBCを目指して歩きますが、向かって右側にはなにか巨大な山塊の圧力を感じるだけで、まだその一部でも山らしい姿を見ることはできません。
進路が完全に東向きになる頃、ダウラギリ北壁の全貌が見えます。ダウラギリ北東稜の最上部の雪面もはっきりルートを確認できます。この頃になると、空気が薄いことがはっきりと自覚されてきて、周りの景色よりも快適な寝床を優先したい気持ちに…
ダウラギリBCからは、ツクチェ・ピークは見えますが、北東コルは見えずにその前面にあるアイスフォールの端部がアイガー岸壁の左に見えます。フレンチ・パスはツクチェ・ピークの左奥にあるはずですが、他の尾根に遮られて見えません。何と言ってもダウラギリ北壁の巨大さに圧倒されます。
『目の前に、ダウラギリ主峰北壁、まったく、言葉が無い。素晴らしい。ポストモンスーンの登山期間もそろそろ終わるので、ベースキャンプには我々とロシア隊の2隊のみ。北壁の高度差は約3500mあり前人未到だが、最上部の懸垂氷河を越えることは人間には無理のように思えてしまう。いよいよ明日は、人類初の8000M峰登頂にまつわるフランス隊の足跡を残すフレンチ・パスを越える。』日記から
『ダウラギリのお膝元で相方は感慨深げ。そっとしておく。』相方の日記から
『目の前に、ダウラギリ主峰北壁、まったく、言葉が無い。素晴らしい。ポストモンスーンの登山期間もそろそろ終わるので、ベースキャンプには我々とロシア隊の2隊のみ。北壁の高度差は約3500mあり前人未到だが、最上部の懸垂氷河を越えることは人間には無理のように思えてしまう。いよいよ明日は、人類初の8000M峰登頂にまつわるフランス隊の足跡を残すフレンチ・パスを越える。』日記から
『ダウラギリのお膝元で相方は感慨深げ。そっとしておく。』相方の日記から
ツクチェ・ピークの山複に大湾曲を見せる地層も、ヒマラヤ造山運動の時間的空間的な大きさを感じさせるものでした。
『ダウラギリ北壁はデカかった。アイスフォールも物凄いがどこか懐かしい。春に竹内さんが登った北東稜ルート上部が少し見える。クルティカやマッキンタイアがアルパインスタイルで駆け登った東壁を見たい。』日記から
『ダウラギリ北壁はデカかった。アイスフォールも物凄いがどこか懐かしい。春に竹内さんが登った北東稜ルート上部が少し見える。クルティカやマッキンタイアがアルパインスタイルで駆け登った東壁を見たい。』日記から
10月29日、ダウラギリBCからフレンチ・パスへ。
フレンチ・パスというので、これまで経験したネパールの峠(クーンブのドゥードコシとヒンクー谷を隔てるツェトラ峠やゴザインクンドの上部にあるラウルピナヤク峠など)を想像すると、急な登山道をジグザグに登るような明確なルートが峠に向けて延びているのだろうと考えていましたが、今回のフレンチ・パスは少し感じが違っていました。まず、フレンチ・パスは峠ではあるけれども、コル(鞍部)上の明確な地形ではなく、なだらかな長い稜線が横に広がっている中の一地点で、その左右の稜線もほとんど同じくらいの高度で連なっていて、ようするに峠らしくありません。これで少し困ったのは、高度の影響でしんどい思いをしている時に『あそこまで行けばゴールだ』と思える地点がなかなか見つけられないことでした。これは相方も同じだったのではないかと思います。
フレンチ・パスというので、これまで経験したネパールの峠(クーンブのドゥードコシとヒンクー谷を隔てるツェトラ峠やゴザインクンドの上部にあるラウルピナヤク峠など)を想像すると、急な登山道をジグザグに登るような明確なルートが峠に向けて延びているのだろうと考えていましたが、今回のフレンチ・パスは少し感じが違っていました。まず、フレンチ・パスは峠ではあるけれども、コル(鞍部)上の明確な地形ではなく、なだらかな長い稜線が横に広がっている中の一地点で、その左右の稜線もほとんど同じくらいの高度で連なっていて、ようするに峠らしくありません。これで少し困ったのは、高度の影響でしんどい思いをしている時に『あそこまで行けばゴールだ』と思える地点がなかなか見つけられないことでした。これは相方も同じだったのではないかと思います。
ツクチェ・ピークの山塊を右に見ながら通過し、そろそろフレンチ・パスの登りにかかるという段階では、ただ広い荒野を登っている感じです。目の前には津波のような稜線が低く長く横たわっています。とにかくその稜線に近づくように1時間少し歩き続けると、やがて道の右端が切れ落ちてきて、ツクチェ・ピーク前方(北西側)の氷河右岸のモレーン(土手)を歩いているのがわかるようになります。それからまた1時間も歩くと、目の前の横長の稜線に向けて少し傾斜が増してくるので、もうすぐ峠だろうかとも思いますが、どれがその峠なのか定かではありません。そのなんとなく中途半端な気持ちに耐えつつ登りつづけて半時間くらいで、稜線上にケルンのような突起とタルチョーが掲げてある様子が見えるので、「あー、あそこがフレンチ・パスか」とようやく分かり、分かってからはほんの10分ほどで峠に着きました。サーダー(シェルパリーダー)のクマールと相方が先に登り、峠らしきところで立ち止まっている、そこが遥々目指してきたフレンとパスでした。
その昔、アンナプルナに転進する前にダウラギリを偵察したフランス隊が、ここからダウラギリのすさまじい山容を見て登路なしと判断し引き返した場所。彼らがもう1〜2時間ダウラギリの方面へ下降して偵察していれば、北東コルとその先の登頂ルートが見えたでしょう。フレンチ・パスからは北壁の巨大な姿が圧倒的で、その左にある北東コルはツクチェ・ピークに隠れて見えないのです。
クマールやアンダワが踊って喜んでいるので、私もしみじみと「やっと来たわ〜」と感動しました。しかし強風と寒さで10分も滞在できず、その日の宿泊地であるヒドン・バレーの広い斜面を降り始めたのですが、かなり下降してフレンチ・パスを振り返った時、もう少しいたかったなぁ...フランス隊もこんな感じで長居できなかったのかなぁ…と考えていました。ダウラギリに見下されながら谷間を引き返すフランス隊を想像していると、彼らがとても身近に感じられました。
フレンチ・パスからヒドン・バレーへ。
ヒドン・バレーには氷河もモレーンもなく、土の地面が広がっています。殺風景な荒野の中に一筋だけ小川が流れているのですが、その川の両岸が少し土手らしくなっていて、河川による侵食が始まったばかりの他惑星の平野のようなところです。ヒドン・バレーを囲む雪の山にもそれぞれ山名があり、トレッキングピークとしてよく登られているタパピークやタシカンもその内のピークです。谷間から見える雪のピークは砂糖を盛り上げたような綺麗な山稜と山頂が印象的で、あまり高さや怖さを感じさせません。ヒドン・バレーに宿泊地は、ちょうどフレンチ・パスとタパ・パスの中間くらいの地点にあります。テン場らしくない平原ですが、これまでのトレッキング隊のゴミが目立つのでそれとわかるような程度の場所。つまりテン場としてはあまり快適でない吹き曝しの場所にあります。テン場のどちらかを尾根に守られている地形でもなく、寒く、風が強く、どことなく不安にさせられる場所でした。どういう訳かわかりませんが、人間が住み着く手がかりを全く与えてくれないような雰囲気。早くここを離れたいと思ってしまう宿泊地でした。結果的にはここから強行軍一日でカリガンダキのマルファに降りてしまうのですが、それはこの荒野を離れて早く人里に降りたいと思わせるヒドン・バレーの雰囲気にも原因があったのかもしれません。
ヒドン・バレーには氷河もモレーンもなく、土の地面が広がっています。殺風景な荒野の中に一筋だけ小川が流れているのですが、その川の両岸が少し土手らしくなっていて、河川による侵食が始まったばかりの他惑星の平野のようなところです。ヒドン・バレーを囲む雪の山にもそれぞれ山名があり、トレッキングピークとしてよく登られているタパピークやタシカンもその内のピークです。谷間から見える雪のピークは砂糖を盛り上げたような綺麗な山稜と山頂が印象的で、あまり高さや怖さを感じさせません。ヒドン・バレーに宿泊地は、ちょうどフレンチ・パスとタパ・パスの中間くらいの地点にあります。テン場らしくない平原ですが、これまでのトレッキング隊のゴミが目立つのでそれとわかるような程度の場所。つまりテン場としてはあまり快適でない吹き曝しの場所にあります。テン場のどちらかを尾根に守られている地形でもなく、寒く、風が強く、どことなく不安にさせられる場所でした。どういう訳かわかりませんが、人間が住み着く手がかりを全く与えてくれないような雰囲気。早くここを離れたいと思ってしまう宿泊地でした。結果的にはここから強行軍一日でカリガンダキのマルファに降りてしまうのですが、それはこの荒野を離れて早く人里に降りたいと思わせるヒドン・バレーの雰囲気にも原因があったのかもしれません。
『ダウラギリ主峰北東コルのアイスフォールを右に見つつ登り、やっとの思いでフレンチ・パスを越えると、風景はチベット的様相。フレンチ・パスとタパ・パス(ダンプスパス)という5000mを超える二つの峠によって隔絶されたヒドン・バレー。北の沙漠へと雪は流れ、山はただひっそりと言葉も無く、月世界の昼間のようだった。』日記から
10月30日、タパ・パスへの登りはキツいものでした。テン場から1時間ほどで雪の斜面をトラバース気味に左上するルートになり、これが峠まで続きます。左上トラバースの時間は約1時間半程度で、タパ・パスに着くとまたチョルテン(チベット仏教の経典を収めた高さ1m位のケルン状の石積み)とタルチョー(経文を染め写した五色の小旗を繋げたもの)が迎えてくれます。ここもフレンチ・パスと同じように峠らしくない広くて平らな地形ですが、この時は積雪が多かったために一面に雪原となっていました。場所によっては膝まで潜るラッセルもありました。
タパ・パスで最初に嬉しいのは、目の前にニルギリの連峰が美しく見渡せることです。その向こうにアンナプルナの大山塊を隠すように、カリガンダキの川岸から一気に7000mの高みまで立ち上がり、麓の緑濃い里から厳しい山頂稜線までを一度に見ることができます。
タパ・パスを越えると、その次はマルファに向けて下降だと思い込み虚しく、約3時間ほど延々と続くトラバースを強いられます。雪が深く、下降というよりもむしろまた登っているような山腹のルートを歩きながら、ニルギリやダウラギリ主峰(山頂部分だけ見える)を眺めつつ進むと、タパピークにアタックしている最中の日本隊ベースキャンプがありました。トレッキングエージェントが同じ隊だったので、シェルパ同士は知り合いばかり。ここでホットオレンジをたっぷり頂き、まだまだ続く雪面トラバースを再開してまた小一時間すると、やっと雪が消えて礫地の斜面に変わります。歩くのは楽になりますが、今度は風と寒さが増してきて、やはり楽な下降ではありません。
やがてはるか下方にジョムソンが見え、更にはマルファも近い(といっても3時間強はかかりますが)ことが感じられると、下降途中のヤクカルカで一泊せずにマルファまで降りてしまおうという気持ちになり、ヘッドランプを頼りにマルファに辿り着いた時にはもう街中の商店も食堂もすっかり店仕舞いした時間でした。
感想
●『チベット高原に源を持つカリガンダキはネパール中西部のヒマラヤを2つの大きな塊に分断している。東側の山塊をアンナプルナ山群、西側をダウラギリ山群と呼ぶ。海面から隆起するヒマラヤ造山作用と雨水等による浸食作用とがほぼ同じ速度で進行したためであろう。』 定金司郎
●シェルパは携帯電話をよく使用していました。使用しているのはネパールテレコム(NTC)の携帯電話です。カトマンズでも普通に使っている携帯電話と同じで、携帯会社としてはNTCとN-Cellが主流です。山岳地域ではNTCの方が回線状況が良いと言われています。私達は携帯レンタルはしませんでしたが、登りではムリ付近まで、下りではマルファ手前から携帯電話が繋がっていたようです。
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