記録ID: 4565116
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ハイキング
甲信越
網掛山から網掛峠へ周回やまJog
2022年08月08日(月) [日帰り]


体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 01:26
- 距離
- 5.2km
- 登り
- 399m
- 下り
- 449m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2022年08月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
写真
古代文字「ヲシテ文字」
アミカケヤマ 標高一一三二.七米
1966年の夏に大量のオシテ文字による古文書が滋賀県で発見され解読された。
それ迄一千数百年にもわたって日本の歴史は古事記や日本書紀が原点であったが、原文どうしの対比比較の結果、ヲシテ文献が古事記、日本書紀が編纂されたときの原書であることが判明した。
歴史だけに留まらず、日本独自の言霊(ヲシテ文字や数などの一字一字に意味がある)の文化が根底に存在し、漢字文化では表現できない
奥深く、古事記、日本書紀では真相を知ることが出来ないヲシテ文献では、日本(ひのもと)の国(トコヨクニ)の建国は6000年程前、人類のルーツ、長寿、健康法、宇宙観、生死観(生前、死後、再生)、幸福、教育など広範囲にわたって解明されつつある。
この古文書(ヲシテ文献)によると、この地には重大な歴史があったことが明らかになってきた(阿智のルーツ)。
この山は現在網掛山と呼ばれている。
縄文時代は祈座(ノリクラ)であった参道を東に進むと展望台があり、下山していくと頭権現(神戸とは神と民との境)。さらに下る伏谷神社(民が神に伏して祈った所)付近の部落に小野川(川は後に付けた)、中野、大野の三部落があり、後々までも当番で祭事(まつりとは神と人の間を釣り合せること)に参加した。
この三部落の地名を智里と言っている。
智とは神と共にあるもの、かしこい人が住んでいる里からきている(言霊よりの引用)この地のどこを発掘しても遺跡、土器などが出土するのはその裏付であり、東山道もこの時代から国司も利用している。
アミカケヤマ 標高一一三二.七米
1966年の夏に大量のオシテ文字による古文書が滋賀県で発見され解読された。
それ迄一千数百年にもわたって日本の歴史は古事記や日本書紀が原点であったが、原文どうしの対比比較の結果、ヲシテ文献が古事記、日本書紀が編纂されたときの原書であることが判明した。
歴史だけに留まらず、日本独自の言霊(ヲシテ文字や数などの一字一字に意味がある)の文化が根底に存在し、漢字文化では表現できない
奥深く、古事記、日本書紀では真相を知ることが出来ないヲシテ文献では、日本(ひのもと)の国(トコヨクニ)の建国は6000年程前、人類のルーツ、長寿、健康法、宇宙観、生死観(生前、死後、再生)、幸福、教育など広範囲にわたって解明されつつある。
この古文書(ヲシテ文献)によると、この地には重大な歴史があったことが明らかになってきた(阿智のルーツ)。
この山は現在網掛山と呼ばれている。
縄文時代は祈座(ノリクラ)であった参道を東に進むと展望台があり、下山していくと頭権現(神戸とは神と民との境)。さらに下る伏谷神社(民が神に伏して祈った所)付近の部落に小野川(川は後に付けた)、中野、大野の三部落があり、後々までも当番で祭事(まつりとは神と人の間を釣り合せること)に参加した。
この三部落の地名を智里と言っている。
智とは神と共にあるもの、かしこい人が住んでいる里からきている(言霊よりの引用)この地のどこを発掘しても遺跡、土器などが出土するのはその裏付であり、東山道もこの時代から国司も利用している。
網掛峠解説この網掛峠は、標高九七一メートル、古代の官道「東山道」の経路にあたり、当時は神坂峠(国史跡)と一括して「信濃坂」といわれた難所であったが、同時に都から信濃国へ入る玄関口でもあった。
この峠を越えて通った古代人の中には日本武尊、信濃及び東国の防人、伝教大師、坂上田村麻呂が古典に記されていて、中央から公の使や地方官、文物などもこの峠を越えて入来し、東山道諸国からの租税や微用人馬もすべてこの峠を越えて往来した。
この峠には「蛇瘤杉」という杉の大木があって峠の象徴となっていたが、昭和二十八年十月老衰を理由に伐り倒された。丸剤もその切り株と「蛇瘤杉」の石碑が残っているが、この杉には次の伝説がある。
近江の国琵琶湖畔の村の若い男女が、村人のねたみから村を追い出され。旅をかさねてこの峠まで来たとき、疲れと飢えのために産んだばかりの赤児とともに絶命した。
村人は哀れんで三人をここに葬り、墓じるしに杉の木を植えたところ、杉の木はたちまちに成長して幹が三つにわかれ数個の瘤をもつ大樹となった。
そのころ琵琶湖に杉の木の影がうつり、湖が荒れて魚がとれなくなった。占ってもらうと信州路の山深い峠で恨み死んだ三人のたたりであるといわれ、そこでこの地を尋ねて来て三人の霊を祀ったところ、湖はもとの静けさをとりもどしたという。
若者夫婦の持ってきた網が木に掛けられていたことから網掛峠といわれるようになり、ここに祀られてあった網掛三社権現社は大正四年伏谷社境内に移された。
この峠は、神坂峠と同じように古代の旅人は旅の平安を祈る峠神祭祀の場所であったと思われ、ナギ鎌や灰釉陶器片の出土が伝えられているが、東麓にあたる大垣外からは石製模造品は三百数十個も出土していて、この峠とのかかわりを暗示させている。
なお、この峠から西方約四〇〇ヘクタールの広大な山地は「オオサンドウ」といわれ、古代東山道のルートを伝承する地名として注目されている。 阿智村教育委員会
この峠を越えて通った古代人の中には日本武尊、信濃及び東国の防人、伝教大師、坂上田村麻呂が古典に記されていて、中央から公の使や地方官、文物などもこの峠を越えて入来し、東山道諸国からの租税や微用人馬もすべてこの峠を越えて往来した。
この峠には「蛇瘤杉」という杉の大木があって峠の象徴となっていたが、昭和二十八年十月老衰を理由に伐り倒された。丸剤もその切り株と「蛇瘤杉」の石碑が残っているが、この杉には次の伝説がある。
近江の国琵琶湖畔の村の若い男女が、村人のねたみから村を追い出され。旅をかさねてこの峠まで来たとき、疲れと飢えのために産んだばかりの赤児とともに絶命した。
村人は哀れんで三人をここに葬り、墓じるしに杉の木を植えたところ、杉の木はたちまちに成長して幹が三つにわかれ数個の瘤をもつ大樹となった。
そのころ琵琶湖に杉の木の影がうつり、湖が荒れて魚がとれなくなった。占ってもらうと信州路の山深い峠で恨み死んだ三人のたたりであるといわれ、そこでこの地を尋ねて来て三人の霊を祀ったところ、湖はもとの静けさをとりもどしたという。
若者夫婦の持ってきた網が木に掛けられていたことから網掛峠といわれるようになり、ここに祀られてあった網掛三社権現社は大正四年伏谷社境内に移された。
この峠は、神坂峠と同じように古代の旅人は旅の平安を祈る峠神祭祀の場所であったと思われ、ナギ鎌や灰釉陶器片の出土が伝えられているが、東麓にあたる大垣外からは石製模造品は三百数十個も出土していて、この峠とのかかわりを暗示させている。
なお、この峠から西方約四〇〇ヘクタールの広大な山地は「オオサンドウ」といわれ、古代東山道のルートを伝承する地名として注目されている。 阿智村教育委員会
撮影機器:
感想
今日こそは“阿智セブンサミット”の残り2座 網掛山 と 蛇垰山 を一度に平らげよう!家を9時前に出て網掛山登山口に10時前に着いて取付きで少しウロウロ迷い農作業の女性に道を聞く、どうやら逆コースで入ったみたいだ😆そんなに急登ではないし路面も登りやすいが…虫が顔に纏わりついてタオルを尻尾がわりに振りながら登った🤣途中の東側尾根展望台で眺望を見ながら記念ノートに一句、”編みかけの、吾が人生は、ほころびて”🤣50分かからずに山頂へ、下山開始したが道が見つからない💦GPS確認すると反対側の尾根に降りている‥しばらく迷って、登る途中に分岐があったのを思い出した!いったん分岐まで下ると、←網掛峠の看板があった、神坂峠に至る古代東山道をピョンピョン下り登山開始から1時間位で降りてきたが、又迷ってしまう🥲普通の生活道路を15分位ウロウロしてようやく見覚えのある東山道遺跡の看板まで出れた。
さあ!2座目の蛇垰山へ移動、登山道駐車場に12時半頃着いたので🍙を食べていると雨が降り出したどんどん酷くなってくるのでしばらく待った…すぐ登れば16時には家に帰れるがこれ以上は待てないし帰ってきた,残念
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