豊後三賢人の私塾は藪入りの殿堂( ^o^)ノ


- GPS
- 04:38
- 距離
- 19.3km
- 登り
- 953m
- 下り
- 943m
コースタイム
- 山行
- 3:44
- 休憩
- 0:54
- 合計
- 4:38
天候 | 正月の天晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2023年01月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
実家〜(徒歩)〜JR暘谷駅=(電車)=JR豊後豊岡駅 【復路】 下山して実家まで歩き |
コース状況/ 危険箇所等 |
【実家(a)〜JR暘谷駅=JR豊後豊岡駅】 国道10号に出て5分も歩けば駅。 日出町中心部の駅が出来たのは35年前。できれば、高校の頃に出来て欲しかったな〜 駅前のトキハで昼飯を調達したら、電車で一駅乗ってスタート! 【〜大山積神社〜法花寺】 駅前のマルショクの前から坂道に入り、休田だらけの棚田の石垣の道を登り、大山積神社への参道に入る。 短い林道状の参道を抜けると城郭の石垣のような神社が見えてくる。 (日出町には小学4年〜高校卒業まで住んでいたが、こんなに魅惑な神社あるとは知らなかった。 幼い頃は自分の地区以外はとても遠く感じた。考えてみれば、地元の名刹や歴史に由縁のある場所をほとんど知らず、狭い自分の地区だけが全世界だったのだね) 参拝したら参道を戻り、法花寺地区への坂を登り、法花寺渓谷の小さなせせらぎの中の微笑ましい遊具案内を見て、経塚山の登山口への道へ進む。 【〜十三仏】 里山によくある林道を進み、途中で法華寺(お寺は“華”、地域は“花”)があるが、すでに13:00を過ぎており、日没の遅い九州の里山と言えども、街歩き装備に近いので参拝はパスして先に進む。 林道の終点はストンと切り落ちた涸沢で、その急斜面に小さな仏さまが点在している。 【〜帆足万里先生・塾跡】 仏さまの急斜面のジグザグで登ると里山にしては珍しく鎖場の岩稜トラバース。 乗越すと里山らしい森の中。ちょっと進んで、尾根ルートor万里先生※1の私塾跡へのルートに分岐する。 植林帯と雑木林が混交するバリエーションルートに近いV字谷を登り、途中で徒渉(地上水は無い)してやがて森の中に石垣が見える。巻いて低い石垣の上に乗ると、ここが万里先生の塾だったことを記念する大きな石碑がニョッキリ! 塾生は学ぶ意欲が強くないと、なかなかここまで来れないよね(^^; ちなみに、石碑に刻まれた文字は、藩主・木下さまの明治維新後・子爵家初代当主の俊哲※2さんによるもの。 ※1:帆足万里先生 豊後国日出藩出身の江戸時代後期の儒学者・経世家・日出藩家老。字は鵬卿。号は愚亭など。三浦梅園、広瀬淡窓と共に豊後三賢の一人と言われる。 地元の日出小学校の校歌でもお名前があり、私は小学校4年で転入した時には「昔の校長先生かな?」くらいに思っていたら、実家の近所に立派なお墓がありました。 ※2:木下俊哲さん 日出藩は外様の小藩(2万5000石)ながら名君や常識人が多いが、彼は最後の藩主(第16代・木下俊愿公)の二男で、お人好しが過ぎて数多くの借金保証人になり、日出での不動産を手放している。 ちなみに藩祖・木下延俊公は豊臣秀吉公の正室・高台院(於禰)の兄の三男であり、大坂夏の陣後も「豊臣氏」を称することが許されており、江戸時代を通じて移封も減封もされることなく、16代にわたって木下家は日出を支配し、明治時代を迎えている。 【〜ジャクナゲ展望台〜△経塚山】 塾跡からはV字谷の右岸側にあたる斜面をトラバース調に登り、尾根筋の本ルートに合流するが、ここらから雑木林になる。 尾根は途中急斜面になる箇所ではロープが張ってあり、途中で唯一行会ったオジサンは「こんなに急と思わんかった」と苦笑されていた。 やがて尾根道は緩斜面になり、ほぼフラットになったところで、ぽっかりな眺望ポイントがあり、ターザンが作ったような手作りの展望台があるので、利用させていただいた。 緩斜面の道はやがて森を抜けて笹の広い尾根になる。 再び雑木林に入り、経塚山の肩(といってもかなり広いが)から笹の緩い尾根を登り、ミヤマキリシマの広いピークに至る。 【〜西ノ峠】 無線アンテナ施設用の道路まで下ったら、ABCの3つのルート案内標識がある。以前はAにあたるルートだけだったが、地元の登山愛好家のみなさんが2ルートを開削してくれていた。 もちろん新道へ。NTTの統制無線中継所跡の柵沿いから笹を刈り込んだ新道ができており、その先でBCに別れている。「Cルートは急斜面」の道標にしたがって昨年10月に出来たて道を笹の切り口の感触を感じながら心地良く下ることができた。 ザビエル師が通った西鹿鳴越道との合流点は七ツ石山への縦走路のすぐ近く。七ツ石にも久々に登りたくなったので翌日の訪問を決めた。 【〜山田湧水】 8年ぶり?の西鹿鳴越道は気持ち良くトントントンと下っていく。 山田湧水で里に出て一口だけ水を含ませていただく。 【〜城山登山口〜(a)】 山裾から高速のバイパス沿い側道に出てから城山登山口までゆったり歩き、日出町仁王を下って実家に至る。 少年時代は途方もなく遠く感じて歩こうなんて思いもしなかった道は、なぜか、オッサンにとってはゆったりとした心地良い。子供の頃は鬱蒼とした森だったので先が見えなかったからかなぁ。 |
その他周辺情報 | 【買物】 暘谷駅前には、トキハインダストリー、セブンイレブン。 ケーズ(家電量販)もポッポおじさん(鶏系弁当屋)もあって調達充実! 【温泉】 無し。 |
写真
休田だらけの棚田の石垣の道を登る。
段々畑を見ると「瀬戸の花嫁」が自動的に頭の中で流れてくるが、「幼い弟〜」から先のくだりは花嫁がなんとも自己中心的に思えてくるのは私だけだろうか(;^_^A
林道状の参道を抜けると城郭の石垣のような神社が見えてくる。
江戸期は豊後森藩(現玖珠町)・久留島さまの飛地で見事な石垣は3年を掛けて藩の支援で築いたそう。
麓の豊岡の港から参勤交代に行っていたそうで、水軍の末裔だけに海を見渡せるこの地に思いが深かったのかもしれないね(^^)
植林帯と雑木林が混交するV字谷を登っていったら、忘れ去られた遺跡のように石垣が現われた。
ここが、豊後の三賢人と讃えられた質素を旨とする碩学者が、家老職を辞した後に開いた学びの場なのだね。
塾生は学ぶ意欲が強くないと、なかなかここまで来れないよね(^^;
昭和6年建立の記念碑。
文字は、藩主・木下さまの明治維新後・子爵家初代当主の俊哲さんによるもの。
日出藩は豊臣秀吉公の正室・高台院(於禰)の兄弟筋なので、大坂夏の陣後も「豊臣氏」を称することが許されいた超外様大名だが、小藩(2万5000石)ながら名君や常識人が多い。
彼は最後の藩主(第16代・木下俊愿公)の二男で、お人好しが過ぎて数多くの借金保証人になり、日出での不動産を手放している。
装備
個人装備 |
ザック:バーサライトパック20
靴:ツォロミー1
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感想
『豊後三賢人の私塾は藪入りの殿堂( ^o^)ノ』
1/2(月)、大好きな箱根駅伝を視ていたけど、年末から続く晴れやかな空に自分も山を歩きたくなってふらふら出動し、初めて電車を使って(1駅だけど)故郷の里山歴史探険をしてみました(^^)
海辺の駅から、石積みの棚田跡・城砦のような村神さまにご挨拶し、里山の尾根へ続く里の坂道を辿り、忘れ去られたような森の中で“日出の賢人・帆足万里先生”の私塾跡へ。
ひっそりした尾根から大展望の頂へ登ったら、新たな道が開かれて、古の宣教師が来国した道に繋がっていた。
18歳まで住んでいた故郷には、まだまだ知らない歴史がたくさん残っているようだ。また帰ってきたら探訪の山歩きをしたいな(^^)
【山行記】
万里先生が、日出藩の殿さまに懇望を受けて家老職となり、倹約・不正摘発で財政改革を貢献したが、保守派に峻厳果断に過ぎと疎まれて職を辞した後に、私塾を開いたことは知っていたが、こんな森の奥とは思わなかった。
学ぶ人も教える人も熱心さがあってこそ、ここまで来れるのかな。
万里先生は身体が弱かったらしいが、衛生を重んじ、食物に気をつけて養生して当時としては長命の75年を生きたとのことだった。意思が強さに改めて感服!
彼のお名前は小学校の校歌にも刻まれている。
(日出町立日出小学校)
桜花咲く暘谷の
古い歴史の学びの庭に
見よ見よ万里先生の
残した教え受け継いで
笑顔明るく励むぞ我等
あぁ〜誉れあれ日出小学校〜
確か2番だったと思ったけど、45年前なので正確さに自信がないなぁ・・・(^^;
コメント
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