記録ID: 5087891
全員に公開
ハイキング
京都・北摂
山科東西南北 地下鉄小野駅〜大岩街道〜西野道〜地下鉄椥辻駅
2023年01月12日(木) [日帰り]



体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 04:14
- 距離
- 7.6km
- 登り
- 29m
- 下り
- 21m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2023年01月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
写真
勧修寺
お坊さんと30分以上談笑。
///////////////////////////
88 勧修寺
平安時代の九〇〇年ごろ、醍醐天皇が母である藤原胤子を弔うた め、胤子の母方の実家であった宮道弥益の邸宅を寺に改めたのが始まりといわれています。 今昔物語集では、この場所が母方の祖父母である藤原高藤と列子とのロマンスの場として語り継がれています。
境内には、平安時代の面影を残す「氷室池」を中心とした、背後 の山々を背景とする借景庭園があり、水戸光圀が寄進したと伝えられ、勧修寺型灯籠と呼ばれるユニ ークな灯籠もあります。 現在の書院や宸殿は、江戸時代に天皇の旧殿を移築したものです が、書院は国の重要文化財、宸殿・本堂は京都市の指定文化財となっています。
(山科検定テキストより)
お坊さんと30分以上談笑。
///////////////////////////
88 勧修寺
平安時代の九〇〇年ごろ、醍醐天皇が母である藤原胤子を弔うた め、胤子の母方の実家であった宮道弥益の邸宅を寺に改めたのが始まりといわれています。 今昔物語集では、この場所が母方の祖父母である藤原高藤と列子とのロマンスの場として語り継がれています。
境内には、平安時代の面影を残す「氷室池」を中心とした、背後 の山々を背景とする借景庭園があり、水戸光圀が寄進したと伝えられ、勧修寺型灯籠と呼ばれるユニ ークな灯籠もあります。 現在の書院や宸殿は、江戸時代に天皇の旧殿を移築したものです が、書院は国の重要文化財、宸殿・本堂は京都市の指定文化財となっています。
(山科検定テキストより)
87仏光院
仏光院は一九四七 (昭和二二)年、大石順教尼により再興された寺院です。
大石順教尼は若い頃に事件に巻き込まれ、両腕を失いました。 苦難と失意の中、カナリアがくちばしだけで自在に雛を育てる姿に悟りを得て筆を口にくわえて書画に精進を続け、日展に入選し、日本人として初めて世界身体障害者芸術家協会の会員に選ばれました。
大石順教尼は、身体障害者福祉活動に生涯をささげ、一九三六 (昭和一一)年、身体障害者福祉相談所を開設したのが、後に仏光院となっています。
(山科検定テキストより)
仏光院は一九四七 (昭和二二)年、大石順教尼により再興された寺院です。
大石順教尼は若い頃に事件に巻き込まれ、両腕を失いました。 苦難と失意の中、カナリアがくちばしだけで自在に雛を育てる姿に悟りを得て筆を口にくわえて書画に精進を続け、日展に入選し、日本人として初めて世界身体障害者芸術家協会の会員に選ばれました。
大石順教尼は、身体障害者福祉活動に生涯をささげ、一九三六 (昭和一一)年、身体障害者福祉相談所を開設したのが、後に仏光院となっています。
(山科検定テキストより)
85宮道神社
平安時代の八九八年に創建された宮道神社は、日本武尊、 稚武王、 宮道弥益、列子、弥益の妻大宅氏の五座を祀っています。 一六六五年には藤原高藤、藤原定方ら勧修寺ゆかりの人を合わせて祀り、二所大明神とも呼ばれています。
(山科検定テキストより)
平安時代の八九八年に創建された宮道神社は、日本武尊、 稚武王、 宮道弥益、列子、弥益の妻大宅氏の五座を祀っています。 一六六五年には藤原高藤、藤原定方ら勧修寺ゆかりの人を合わせて祀り、二所大明神とも呼ばれています。
(山科検定テキストより)
86 藤原定方墓碑
三条右大臣藤原定方は平安時代の公家・歌人であり、 醍醐天皇を外祖父に、藤原高藤を父に持ち、百人一首の「名にし負はば逢坂山のさねかずら 人に知られでくるよしもがな」でも知られています。 墓碑は、江戸時代の一七二三年に建てられたものです。
(山科検定テキストより)
三条右大臣藤原定方は平安時代の公家・歌人であり、 醍醐天皇を外祖父に、藤原高藤を父に持ち、百人一首の「名にし負はば逢坂山のさねかずら 人に知られでくるよしもがな」でも知られています。 墓碑は、江戸時代の一七二三年に建てられたものです。
(山科検定テキストより)
89 勧修寺(吉利倶) 八幡宮
平安時代の八五三年に創建され た「勧修寺(吉利倶) 八幡宮」の 正式名称は「八幡宮」です。 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后をまつ っています。室町時代の兵火によ り宝物や旧記を失いましたが、勧修寺に残っていた史料により、事跡の一端をかろうじて知ることが できます。
江戸時代 の一六九五 年に再建さ れた本殿などは、京都市指定文化財となっています。
(山科検定テキストより)
平安時代の八五三年に創建され た「勧修寺(吉利倶) 八幡宮」の 正式名称は「八幡宮」です。 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后をまつ っています。室町時代の兵火によ り宝物や旧記を失いましたが、勧修寺に残っていた史料により、事跡の一端をかろうじて知ることが できます。
江戸時代 の一六九五 年に再建さ れた本殿などは、京都市指定文化財となっています。
(山科検定テキストより)
藤原高藤と列子とのロマンス
野村(東野・西野)、栗栖野一帯は平安貴族の狩猟地として知られていました。八五七年、藤原高藤がこの地で鷹狩をしていた時に雷雨に遭い、雨宿りのために訪れた宮道弥益邸で一夜を 過ごしましたが、高藤は宮道弥益の娘、列子と契りを結びました。 高藤はその後、父親に鷹狩を禁じら れ、高藤と列子は長く音信不通となっていましたが、数年後に再会した際、列子には一夜の契りで宿した娘、胤子がおり、高藤は母子ともに都に連れて帰りました。
胤子は成長し、宇多天皇の女御となり、醍醐天皇の生母となりました。
(『今昔物語集』より)
野村(東野・西野)、栗栖野一帯は平安貴族の狩猟地として知られていました。八五七年、藤原高藤がこの地で鷹狩をしていた時に雷雨に遭い、雨宿りのために訪れた宮道弥益邸で一夜を 過ごしましたが、高藤は宮道弥益の娘、列子と契りを結びました。 高藤はその後、父親に鷹狩を禁じら れ、高藤と列子は長く音信不通となっていましたが、数年後に再会した際、列子には一夜の契りで宿した娘、胤子がおり、高藤は母子ともに都に連れて帰りました。
胤子は成長し、宇多天皇の女御となり、醍醐天皇の生母となりました。
(『今昔物語集』より)
撮影機器:
感想
今日も山科散策。
昨年山科検定の試験を受けて・・・。
知らないこといっぱい(-_-;)
お友達を案内する。
山科って面白いところだ♫
お気に入りした人
人
拍手で応援
拍手した人
拍手
訪問者数:190人
コメント
この記録に関連する登山ルート
この場所を通る登山ルートは、まだ登録されていません。
ルートを登録する
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する