230331の(3) 下仁田市街を歩く 観光駐車場から駅と下仁田戦争に思いを向ける
- GPS
- 02:16
- 距離
- 5.2km
- 登り
- 80m
- 下り
- 89m
コースタイム
- 山行
- 2:14
- 休憩
- 0:02
- 合計
- 2:16
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2023年03月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
その他周辺情報 | 道の駅しもにた」 |
写真
感想
この日の午後は下仁田町に出没しました。朝通った時に歴史のある街並みを見つけました。また無料駐車場もその時に発見しました。午後から行こうと思った山に行けなくなったこともあって、下仁田の街を歩きたいと言う希望が出てきたのです。
街中の朝へ無料駐車場に車を止めて出発しました。
まずは、歴史のある街並みをちょいちょい撮影します。地勢の関係上、山に囲まれ川が流れるこの地は、人が住むのに都合が良かったようで、旧石器時代から代々のの遺跡が見つかっています。江戸時代には中山道往環の宿場町として栄えました。
明治時代になってからも町制が施行されたのは1889年とこの辺の市町村では最も古く、この地域の中心的な役割を担っていました。1897年には上信電鉄上信線下仁田駅が開業し、高崎方面への利便がますます増しました。
駐車場を出て5分ほど歩くと、下仁田駅に着きました。駅をじっくりと観察します。かつてこの駅には電車に乗ってやってきたことがありますが、駅舎の観察などをせずに来た電車に乗ってまた帰ってしまったことを思い出しています。なので今回は駅をじっくりと見学することにしました。
「関東の駅百選」に選ばれており、大変風情があります。上毛かるたの1札が紹介されていたり、様々なポスターや表示も雰囲気があり、いかにも人が使っている駅だなという感じがしました。しかし、乗車券は自動販売機で販売されており、そこに時代のギャップを感じました。
駅前はバスターミナルになっており、南牧村行きのワゴン車を待つお客さんが2人おりました。
その後は朝車で見つけた、桜がたくさん咲いている神社に向かいます。そこは、「山際稲荷神社」というそうです。満開のソメイヨシノ、しかもアップしてみると、鼻の中心部がまだ緑色で咲きたてです。あと1週間は見頃を維持すると思われます。金曜日の平日にかかわらず、団体客がお花見で飲食をしておりました。「あー、ビールー」と思いますが、私は駐車場まで戻ったらまた車の運転をせねばなりません。
神社までの階段を上ると、下仁田の市街が一望できます。ただし、この日は満開の桜により半分ぐらいしか見ることが出来ませんでした。そしてその奥にたくさんの名山が見えていました。
なお、神社境内の中には「下仁田戦争」に関するものがありました。そのことも調べてみたく、私は郷土資料館に向けて歩き出したのです。
じきに郷土資料館に着きます。ここは、1階に荒船風穴の内容展示。2回は下仁田町の郷土資料、その中に下仁田戦争の展示もありました。
1階では、荒船風穴に関するビデオを10分ほど見ました。天然の冷蔵庫として、養蚕事業に大いに貢献をした荒船風穴。どのように発見され、どのように人間より手が加えられ、どのように利用されていたのか、それをじっくりと見ることができました。荒船風穴の入場料割引券もいただいたのですが、残念ながら今日は3月31日、まだ冬季閉鎖中です。(ちなみにオープンは4月1日だそうで)
下仁田戦争は1864年にあった、天狗党の乱の1つの戦いである。水戸天狗党は水戸の藩政改革に与した一派であり、勇敢な人たちという意味で「天狗党」と呼ばれていた。その中でも尊王攘夷派の人たちが起こした乱である。
水戸天狗党はその後、開国派の人たちの暗殺や未遂事件を繰り返します。最初64人と言う集団でしたが、各地を回っていくうちに感動するものが次々加わり、1400名余りという集団に膨れ上がりました。
まずは、日光東照宮参拝し、その後西に向かって進んでいきます。その中で茨城県や栃木県の各地で、準備金を得るために放火を繰り返したり、殺人を起こした事から、水戸天狗党は暴徒集団であると言う認識が定着していきました。しかしながら、幕府は水戸派の人物の影響により、追討命令を出すことができませんでした。その後、この人物が罷免されることにより、幕府は、水戸天狗党の討伐命令が出されたのでした。
その後、関東1円で討伐軍と水戸天狗党の戦いが行われました。地元の人たちも、今度は討伐軍に味方し少しずつ水戸天狗堂の勢いが減ってきました。
その中、一橋慶喜に尊王攘夷を訴えている一派が西に向かって進み始めます。下仁田では天狗党と追ってきた高崎藩の戦いが行われました。天狗党が約800名、高崎藩は400名。もちろん銃器火器も天狗党の方が有利、結局天狗党が4名、高崎藩が36名の死者を出し、戦闘終了したのでした。天狗党は、この後信州に入り、さらに西を目指して行きます。
結局、頼みにしていた一橋慶喜も、幕府軍4000名を率い討伐軍に変わりました。そのこともあって、最終的には福井県敦賀市あたりまで進軍した水戸天狗党は降伏したのでした。降伏後、かなりの人数が斬首刑を受けたそうです。
また、いろいろなところを巡っていくうちに、水戸天狗党に関する歴史的な場所に出会うかもしれません。その時には、「ああ、そういえば下仁田で見たなぁ」と思うことでしょう。
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