記録ID: 5422856
全員に公開
ハイキング
京都・北摂
非公開文化財特別公開 法嚴寺(牛尾観音)京阪追分⇔法嚴寺 拝観中止(-_-;)
2023年04月29日(土) [日帰り]



体力度
2
日帰りが可能
- GPS
- 07:15
- 距離
- 10.4km
- 登り
- 306m
- 下り
- 305m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2023年04月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
写真
この地図を参考に歩く
54牛尾山ハイキングコース
昔の面影がまだ残る小山から音羽山の渓流を遡って四季の自然の趣を味わえる山道です。途中には蛙岩、大師堂、弘法大師が修行したと伝えられる経岩、聴呪の滝、波切 不動尊、音羽の滝、大蛇伝説の蛇壺など、いにしえを偲びながら寺の石段を昇ると法厳寺があります。 途中の桜馬場から尾根づたいに上醍醐寺へ続く道もあります。法厳寺の裏の山道から東海自然歩道を経てたどり着く音羽山(五九三 m)からは、山科盆地、京都市街、琵琶湖、比叡、比良の山々が一望できます。
(山科検定テキスト)
54牛尾山ハイキングコース
昔の面影がまだ残る小山から音羽山の渓流を遡って四季の自然の趣を味わえる山道です。途中には蛙岩、大師堂、弘法大師が修行したと伝えられる経岩、聴呪の滝、波切 不動尊、音羽の滝、大蛇伝説の蛇壺など、いにしえを偲びながら寺の石段を昇ると法厳寺があります。 途中の桜馬場から尾根づたいに上醍醐寺へ続く道もあります。法厳寺の裏の山道から東海自然歩道を経てたどり着く音羽山(五九三 m)からは、山科盆地、京都市街、琵琶湖、比叡、比良の山々が一望できます。
(山科検定テキスト)
60追分道標
旧三条通と奈良街道との分かれ道に「追分道標」が建っています。
かつて東国と京都や奈良を結んだ重要な道筋であり、東海道と奈良街道の分かれ道標です。当時の賑わいを「伊勢参宮名所図会」 (一七九七年)に見ることができます。
現在の道標には「みきハ京ミちひたりハふしミみち 昭和二十九年再建 柳緑花紅 法名 未徹」とあります。
その隣にある「蓮如上人道標」は下半分が埋まっていますが、「蓮如上人是より十町明和三丙戌」と読めます。 明和三年というのは一七六六年です。
(山科検定テキスト)
旧三条通と奈良街道との分かれ道に「追分道標」が建っています。
かつて東国と京都や奈良を結んだ重要な道筋であり、東海道と奈良街道の分かれ道標です。当時の賑わいを「伊勢参宮名所図会」 (一七九七年)に見ることができます。
現在の道標には「みきハ京ミちひたりハふしミみち 昭和二十九年再建 柳緑花紅 法名 未徹」とあります。
その隣にある「蓮如上人道標」は下半分が埋まっていますが、「蓮如上人是より十町明和三丙戌」と読めます。 明和三年というのは一七六六年です。
(山科検定テキスト)
57京の田舎民具資料館
ここは、一九八七(昭和六二)年に近郊の農家の協力を得て子どもの学習教材、資料となる品々を集めて開設されたものです。
江戸時代に水争いを解決するために考えられた分水石をはじめ、京都の田舎で使われた衣食住に関する資料、仕事に使わ れた農機具、商いの道具など、江戸中期から一九六〇(昭和三五)年頃までの約五百種類、二千点が展示されています。
(山科検定テキスト)
ここは、一九八七(昭和六二)年に近郊の農家の協力を得て子どもの学習教材、資料となる品々を集めて開設されたものです。
江戸時代に水争いを解決するために考えられた分水石をはじめ、京都の田舎で使われた衣食住に関する資料、仕事に使わ れた農機具、商いの道具など、江戸中期から一九六〇(昭和三五)年頃までの約五百種類、二千点が展示されています。
(山科検定テキスト)
57明教寺
この寺は真宗西本願寺派に属し、 山号を露山といいます。一四六九 年、小山の郷士、中川喜平治が本願寺第七代存如上人に帰依し、当寺を建立しました。その子玄鎮は蓮如上人より名号や巻物、書付を受け、それらは寺の宝として伝 わっています。 この寺には数奇な運命をたどった「千手観音」の話が伝わってい ます。昔、山崩れ、洪水で本堂にあった「十一面観音像」が行方不 明になりました。数年後、音羽川の下流の地で農民が見つけ、お堂を建てて安置しました。このお堂は後に東野の称名寺となり、(一九ページ参照) 今も像は称名寺に安置されています。 明教寺の近くには、浄土真宗安楽寺や蓮如上人の孫の円如上人の墓があります。
(山科検定テキスト)
帰りに寄るつもりが寄れなかった(-_-;)
この寺は真宗西本願寺派に属し、 山号を露山といいます。一四六九 年、小山の郷士、中川喜平治が本願寺第七代存如上人に帰依し、当寺を建立しました。その子玄鎮は蓮如上人より名号や巻物、書付を受け、それらは寺の宝として伝 わっています。 この寺には数奇な運命をたどった「千手観音」の話が伝わってい ます。昔、山崩れ、洪水で本堂にあった「十一面観音像」が行方不 明になりました。数年後、音羽川の下流の地で農民が見つけ、お堂を建てて安置しました。このお堂は後に東野の称名寺となり、(一九ページ参照) 今も像は称名寺に安置されています。 明教寺の近くには、浄土真宗安楽寺や蓮如上人の孫の円如上人の墓があります。
(山科検定テキスト)
帰りに寄るつもりが寄れなかった(-_-;)
55白石神社
小山の外れにある白石神社は、伊弉諾尊と伊弉冉尊を祭神として 八〇七年の創建といわれています。御神体の白い巨岩があることから白石神社といわれました。
神社は一月にとんど焼き、六月にお百灯祭、一一月にお火焚祭が営まれ、小山の住民の信仰の支えとなっている産土神です。
境内には村の歴史を見守っていた大杉 (区民誇りの木)があります。
(山科検定テキスト)
小山の外れにある白石神社は、伊弉諾尊と伊弉冉尊を祭神として 八〇七年の創建といわれています。御神体の白い巨岩があることから白石神社といわれました。
神社は一月にとんど焼き、六月にお百灯祭、一一月にお火焚祭が営まれ、小山の住民の信仰の支えとなっている産土神です。
境内には村の歴史を見守っていた大杉 (区民誇りの木)があります。
(山科検定テキスト)
53法厳寺
奈良時代末の七七八年に延鎮によって創設されたと伝えられてい ます。奈良小島寺に住んでいた延鎮は尊敬する行叡和尚を訪ねて音羽山に入り、和尚の履物が落ちていたので「この地でご往生されたに違いない」と思い、ここに仏寺を建立したのがこの寺です。 本尊の十一面千手観音菩薩像は天智天皇の作、脇士の不動明王像、毘沙門天像は弘法大師の作と伝えられています。脇壇には行叡居士、延鎮法師の像が安置され、毎年四月と一〇月の一七日に「御開帳法会」が営まれ、本尊が公開されます。
法厳寺は「清水寺の奥ノ院」と いわれます。寺の縁起によれば、平安時代、坂上田村麻呂が妻の病を治すために鹿の胆を求めてやって来た音羽山の山中で 鎮に出会い、殺生を諭されました。田村麻呂は自分の行いを恥じて、射止めた鹿を丁重に供養するとたちまち妻の病が全快しました。喜んだ田村麻呂はお礼に寺を建て寄進しました。そのお寺が清水寺とされています。境内にある大杉(区民誇りの 木)は寺の歴史の証人です。 この 杉は「天狗杉」とも呼ばれ、行叡和尚の履物が杉の下にあったことから、行叡和尚は音羽山の天狗だったといわれました。
(山科検定テキスト)
奈良時代末の七七八年に延鎮によって創設されたと伝えられてい ます。奈良小島寺に住んでいた延鎮は尊敬する行叡和尚を訪ねて音羽山に入り、和尚の履物が落ちていたので「この地でご往生されたに違いない」と思い、ここに仏寺を建立したのがこの寺です。 本尊の十一面千手観音菩薩像は天智天皇の作、脇士の不動明王像、毘沙門天像は弘法大師の作と伝えられています。脇壇には行叡居士、延鎮法師の像が安置され、毎年四月と一〇月の一七日に「御開帳法会」が営まれ、本尊が公開されます。
法厳寺は「清水寺の奥ノ院」と いわれます。寺の縁起によれば、平安時代、坂上田村麻呂が妻の病を治すために鹿の胆を求めてやって来た音羽山の山中で 鎮に出会い、殺生を諭されました。田村麻呂は自分の行いを恥じて、射止めた鹿を丁重に供養するとたちまち妻の病が全快しました。喜んだ田村麻呂はお礼に寺を建て寄進しました。そのお寺が清水寺とされています。境内にある大杉(区民誇りの 木)は寺の歴史の証人です。 この 杉は「天狗杉」とも呼ばれ、行叡和尚の履物が杉の下にあったことから、行叡和尚は音羽山の天狗だったといわれました。
(山科検定テキスト)
清水寺とそんなに深い関係があるとは(驚き)。
清水寺の奥の院だったとは・・・。
”坂上田村麻呂が修行中の僧延鎮に殺生を戒められ”
そんなことは知っていたのに・・・。
あの有名な大西良慶さんがこのお寺の住職だったなんて
・・・。
改めて清水寺とは・・・。
清水寺
(東山区清水一丁目)
本尊 十一面千手観音
北法相宗の大本山。
山号は音羽山。
世界遺産(文化遺産)。
西国三士二所観音霊場第十六番札所。
宝亀十一年(七八O)、この地に鹿狩りにきた坂上田村麻呂が修行中の僧延鎮に殺生を戒められ、夫人とともに千手観音を造り、お堂を建てたのが始まりと伝える。弘仁元年(八一〇)に嵯峨天皇から宸筆を賜わって鎮護国家の道場となり、「清水寺」を世号とした。かつては法相宗として南都の興福寺(奈良県奈良市)に属したため、延暦寺との抗争の度に攻撃を受け、たびたび焼亡した。北法相宗となったのは昭和四十年(一九六五)のことである。「清水の舞台」として知られる本堂(国宝)は寛永十年(一六三三)の再建で、舞台は檜板張り、柱は欅で高さ約十三メートルある。秘仏の本尊十一面千手観音立像は、左右の腕を頭上に高く挙げて化仏を戴く独特の姿で、この形式の観音像は「清水型観音」と呼ばれている。本堂の舞台から見えるもう一つの舞台造の建造物は、「奥の千手堂」とも呼
ばれる奥の院(重要文化財)で、三面千手観音坐像(重要文化財)を安置する。清水寺の起源となった「音羽の滝」の真上に立地する。他に、仁王門、西門、三重塔、鐘楼、経堂、開山堂(田村堂)、轟門、朝倉堂、釈迦堂、阿弥陀堂、子安塔(泰産寺三重塔)などの堂塔伽藍が重要文化財の指定を受けている。
阿弥陀堂は、洛陽六阿弥陀巡りの札所で、また洛陽三十三所観音霊場のうち第十番から第十四番の札所が境内にある。
(京都検定テキスト)
清水寺の奥の院だったとは・・・。
”坂上田村麻呂が修行中の僧延鎮に殺生を戒められ”
そんなことは知っていたのに・・・。
あの有名な大西良慶さんがこのお寺の住職だったなんて
・・・。
改めて清水寺とは・・・。
清水寺
(東山区清水一丁目)
本尊 十一面千手観音
北法相宗の大本山。
山号は音羽山。
世界遺産(文化遺産)。
西国三士二所観音霊場第十六番札所。
宝亀十一年(七八O)、この地に鹿狩りにきた坂上田村麻呂が修行中の僧延鎮に殺生を戒められ、夫人とともに千手観音を造り、お堂を建てたのが始まりと伝える。弘仁元年(八一〇)に嵯峨天皇から宸筆を賜わって鎮護国家の道場となり、「清水寺」を世号とした。かつては法相宗として南都の興福寺(奈良県奈良市)に属したため、延暦寺との抗争の度に攻撃を受け、たびたび焼亡した。北法相宗となったのは昭和四十年(一九六五)のことである。「清水の舞台」として知られる本堂(国宝)は寛永十年(一六三三)の再建で、舞台は檜板張り、柱は欅で高さ約十三メートルある。秘仏の本尊十一面千手観音立像は、左右の腕を頭上に高く挙げて化仏を戴く独特の姿で、この形式の観音像は「清水型観音」と呼ばれている。本堂の舞台から見えるもう一つの舞台造の建造物は、「奥の千手堂」とも呼
ばれる奥の院(重要文化財)で、三面千手観音坐像(重要文化財)を安置する。清水寺の起源となった「音羽の滝」の真上に立地する。他に、仁王門、西門、三重塔、鐘楼、経堂、開山堂(田村堂)、轟門、朝倉堂、釈迦堂、阿弥陀堂、子安塔(泰産寺三重塔)などの堂塔伽藍が重要文化財の指定を受けている。
阿弥陀堂は、洛陽六阿弥陀巡りの札所で、また洛陽三十三所観音霊場のうち第十番から第十四番の札所が境内にある。
(京都検定テキスト)
講演会の時間ギリギリに到着
今日の演目・午前の部
牛尾山法嚴寺の歴史
寺宝と参拝道の史跡
鏡山次郎
レジュメ12枚スライド91枚分
前半
復習するのに役に立つ資料。
数に限りがあってもらえない人もいました。
午後の部にも参加することも可だと。
面白そうだったし急遽変更午後の部も聞くことにする。
レジュメには午後の講演会の内容も入っていた。
今日の演目・午前の部
牛尾山法嚴寺の歴史
寺宝と参拝道の史跡
鏡山次郎
レジュメ12枚スライド91枚分
前半
復習するのに役に立つ資料。
数に限りがあってもらえない人もいました。
午後の部にも参加することも可だと。
面白そうだったし急遽変更午後の部も聞くことにする。
レジュメには午後の講演会の内容も入っていた。
護摩堂
鐘の回りをぐるぐる
音が出てきた♫
聞き逃してしまったが・・・。
皆不思議がっている。
ガイドさんは・・・。
京都検定1級の人はすぐにわかると。
答はアインシュタイン
シンギングボウル?
https://www.youtube.com/watch?v=9fBQWBKDttw
知恩院の鐘には、大正11年(1922)に来日した( 19 )博士が、鐘を撞かせて鐘の真下には音の波が相殺し合って音が消える場所があることを確かめる実験をしたという有名なエピソードがある。
(京都検定1級10回19問)
鐘の回りをぐるぐる
音が出てきた♫
聞き逃してしまったが・・・。
皆不思議がっている。
ガイドさんは・・・。
京都検定1級の人はすぐにわかると。
答はアインシュタイン
シンギングボウル?
https://www.youtube.com/watch?v=9fBQWBKDttw
知恩院の鐘には、大正11年(1922)に来日した( 19 )博士が、鐘を撞かせて鐘の真下には音の波が相殺し合って音が消える場所があることを確かめる実験をしたという有名なエピソードがある。
(京都検定1級10回19問)
59二の講 (二九)の行事
小山の地で行われる大蛇退治伝説にちなむ行事で、京都市無形民 俗文化財(登録)となっています。 毎年二月九日に山仕事の安全と 五穀豊穣を祈って地元の人たちが 藁束で長さ一三m程の縄状の大蛇を編み、樒、榊、御幣を付けた足を胴体に吊るした後、御神酒や供物を供えて神事をします。縄の大蛇は住民の手により地域を練り歩き、音羽川の松の木に掛けられ一年間祀られます。この風習は現在伝承される数少ない「山の神行事」として貴重な ものです。
(山科検定テキスト)
小山の地で行われる大蛇退治伝説にちなむ行事で、京都市無形民 俗文化財(登録)となっています。 毎年二月九日に山仕事の安全と 五穀豊穣を祈って地元の人たちが 藁束で長さ一三m程の縄状の大蛇を編み、樒、榊、御幣を付けた足を胴体に吊るした後、御神酒や供物を供えて神事をします。縄の大蛇は住民の手により地域を練り歩き、音羽川の松の木に掛けられ一年間祀られます。この風習は現在伝承される数少ない「山の神行事」として貴重な ものです。
(山科検定テキスト)
10芝町遺跡
追分の三叉路から奈良街道沿いに南に進み一筋目を東に入ると、
北側に「諸羽神社・若宮八幡宮御旅所」があります。
この地域の古い遺跡は「芝町遺跡」で、京都市の「遺跡地図台帳」によれば、 四ノ宮(奈良野町・芝畑町)・音羽(珍事町・平林町)・ 小山(神無森町)にかけて遺物(縄 文・弥生・奈良)が発掘されています。
その跡に、二社の「御旅所」が設けられたと考えられます。この 御旅所の祭祀が、古代信仰の原始的形態とも言える磐境(いわさが・いわくら)を中心したものであるともいわれ、大事な意味をもっています。
一四七七年には、「山科七郷」としてこの地域の神無森に郷中関 (関所)を設けています。
(山科検定テキスト)
追分の三叉路から奈良街道沿いに南に進み一筋目を東に入ると、
北側に「諸羽神社・若宮八幡宮御旅所」があります。
この地域の古い遺跡は「芝町遺跡」で、京都市の「遺跡地図台帳」によれば、 四ノ宮(奈良野町・芝畑町)・音羽(珍事町・平林町)・ 小山(神無森町)にかけて遺物(縄 文・弥生・奈良)が発掘されています。
その跡に、二社の「御旅所」が設けられたと考えられます。この 御旅所の祭祀が、古代信仰の原始的形態とも言える磐境(いわさが・いわくら)を中心したものであるともいわれ、大事な意味をもっています。
一四七七年には、「山科七郷」としてこの地域の神無森に郷中関 (関所)を設けています。
(山科検定テキスト)
コラム(おもしろ)
竹と筍
昭和初期まで山科は多くの竹やぶがあり、筍の産地でした。現在でも筍を出荷しており、農家の庭先などで「朝取り筍」との札を見かけます。 藤尾地域には、奈良街道と旧東海道の分岐点に一九〇七(明治四〇年に、山科藤尾筍組合が建てた、関係者の偉業を称える頌徳碑があります。その東側には筍の入札場(集荷場) であった建物が残って います。
(山科検定テキスト)
竹と筍
昭和初期まで山科は多くの竹やぶがあり、筍の産地でした。現在でも筍を出荷しており、農家の庭先などで「朝取り筍」との札を見かけます。 藤尾地域には、奈良街道と旧東海道の分岐点に一九〇七(明治四〇年に、山科藤尾筍組合が建てた、関係者の偉業を称える頌徳碑があります。その東側には筍の入札場(集荷場) であった建物が残って います。
(山科検定テキスト)
感想
軽いつもりで非公開文化財で法嚴寺(牛尾観音)を訪ねた。
牛尾観音には音羽山ハイキング途中で何度も訪れたことはあるのに知らないことばかり、通称寺牛尾観音が法嚴寺であること、清水寺の奥の院であったこと、大西良慶さんが住職であったこと・・・。
残念なことに拝観中止となりました(-_-;)
春期非公開文化財 特別公開について
4/30の土砂崩れは復旧し、通行止めは解除となりましたが今後も雨予報があるため危険との判断で、主催である公益社団法人京都古文化保存協会から全日程拝観中止と決定されました。
誠に申し訳ございませんが御理解いただけますようお願い申し上げます
https://www.hougonji.info/
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