東川口駅から出発。北口広場にはトンネル掘削シールドマシンのカッターらしきモニュメントがあった。本物か否かは不明
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5/21 9:57
東川口駅から出発。北口広場にはトンネル掘削シールドマシンのカッターらしきモニュメントがあった。本物か否かは不明
JR武蔵野線沿いに西へ階段を上がり、鎌倉街道中道に。ここは日光御成街道とも重なっている
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5/21 10:02
JR武蔵野線沿いに西へ階段を上がり、鎌倉街道中道に。ここは日光御成街道とも重なっている
国道463号線を東に折れて日光御成街道とは暫しの別れ。畷橋で綾瀬川を渡ります
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5/21 10:28
国道463号線を東に折れて日光御成街道とは暫しの別れ。畷橋で綾瀬川を渡ります
すぐ先、左に馬頭観音。かなり古そうだが造年は読み取れず
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5/21 10:29
すぐ先、左に馬頭観音。かなり古そうだが造年は読み取れず
五才川橋交差点で国道を離れ、県道を北上
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5/21 10:38
五才川橋交差点で国道を離れ、県道を北上
玉泉寺看板の手前に小さな石柱。道標のようだが詳細不明
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5/21 10:41
玉泉寺看板の手前に小さな石柱。道標のようだが詳細不明
右の路地を入り、釣上の神明社へ。元々は地元住民中村氏の屋敷神。参詣希望者が多かったことから村野鎮守になったとか
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5/21 10:51
右の路地を入り、釣上の神明社へ。元々は地元住民中村氏の屋敷神。参詣希望者が多かったことから村野鎮守になったとか
境内の狛犬様は家出人の足止めに効くと云われ、家出人が見つからない時は狛犬の足に紐を結び、帰って来ると紐をほどくという信仰があるそうです
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5/21 10:53
境内の狛犬様は家出人の足止めに効くと云われ、家出人が見つからない時は狛犬の足に紐を結び、帰って来ると紐をほどくという信仰があるそうです
帰りに気づきましたが、新しそうに見える石灯籠も安永2年(1773)のものでした
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5/21 10:59
帰りに気づきましたが、新しそうに見える石灯籠も安永2年(1773)のものでした
玉泉寺に向かう途中、集会所入口角に享保9年(1724)の道標。正面に「従是神明宮・」とあります
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5/21 11:01
玉泉寺に向かう途中、集会所入口角に享保9年(1724)の道標。正面に「従是神明宮・」とあります
玉泉寺は慶長2年(1597)に没した玉泉心泰が開山したと云われる古刹
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5/21 11:04
玉泉寺は慶長2年(1597)に没した玉泉心泰が開山したと云われる古刹
境内のフェンスに隠れるように、寛文4年(1664)寒念仏供養塔と寛文12年(1672)庚申塔がありました
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5/21 11:04
境内のフェンスに隠れるように、寛文4年(1664)寒念仏供養塔と寛文12年(1672)庚申塔がありました
そのスタートはいつも今です
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5/21 11:06
そのスタートはいつも今です
県道に戻り150mほど、笠付の立派な庚申塔。宝永5年(1708)のもの
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5/21 11:10
県道に戻り150mほど、笠付の立派な庚申塔。宝永5年(1708)のもの
庚申塔の角を西に入って保寿院へ。境内に本堂はなく、自治会の集会所がありました
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5/21 11:13
庚申塔の角を西に入って保寿院へ。境内に本堂はなく、自治会の集会所がありました
入口の左側に七基の石塔が並び、中央の大きな笠を持った宝篋印塔は享保14年(1729)のもの
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5/21 11:14
入口の左側に七基の石塔が並び、中央の大きな笠を持った宝篋印塔は享保14年(1729)のもの
県道に戻り、釣上交差点をさらに進むと
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5/21 11:26
県道に戻り、釣上交差点をさらに進むと
行く手右側に円福寺。入口左側に小堂と三基の庚申塔。小堂の中には延宝8年(1680)の地蔵菩薩立像がありました
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5/21 11:38
行く手右側に円福寺。入口左側に小堂と三基の庚申塔。小堂の中には延宝8年(1680)の地蔵菩薩立像がありました
その奥、大きな宝篋印塔は宝暦10年(1760)のもの。ここにも本堂はなく、公会堂がありました。
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5/21 11:41
その奥、大きな宝篋印塔は宝暦10年(1760)のもの。ここにも本堂はなく、公会堂がありました。
円福寺から400mほど県道を進み、左へ400mほど、右に路地を入ると、住宅地の外れに稲蒼魂神社があります
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5/21 11:58
円福寺から400mほど県道を進み、左へ400mほど、右に路地を入ると、住宅地の外れに稲蒼魂神社があります
神社裏のフェンスの向こうに天保6年(1835)の万葉歌碑。土地区画整備によりここに移転されたとか。碑文には「前玉之小埼乃沼…」と刻まれています
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5/21 12:01
神社裏のフェンスの向こうに天保6年(1835)の万葉歌碑。土地区画整備によりここに移転されたとか。碑文には「前玉之小埼乃沼…」と刻まれています
綾瀬川の向こうには埼玉スタジアムが見えます
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5/21 12:04
綾瀬川の向こうには埼玉スタジアムが見えます
県道に戻り、田原橋から右に入ると光秀寺。創立は永禄7年(1564)。天正19年(1591)には家康から朱印地3石を受けているとか
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5/21 13:11
県道に戻り、田原橋から右に入ると光秀寺。創立は永禄7年(1564)。天正19年(1591)には家康から朱印地3石を受けているとか
山門裏手右側に明和元年(1764)の光明真言供養塔や地蔵菩薩立像、庚申塔が並びます
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5/21 13:20
山門裏手右側に明和元年(1764)の光明真言供養塔や地蔵菩薩立像、庚申塔が並びます
さらに川沿いを進むと尾ヶ崎観音堂。祭りの夜、若い衆が好みの娘の尻をひねる風習があり「ひねり観音」とも呼ばれていたとか。当然、今はNG
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5/21 13:26
さらに川沿いを進むと尾ヶ崎観音堂。祭りの夜、若い衆が好みの娘の尻をひねる風習があり「ひねり観音」とも呼ばれていたとか。当然、今はNG
道なりに進み、城南中学校を左に入り500mほど。墓地の入口に鎌倉時代中期、寛元元年(1243)の板碑が立っていました
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5/21 13:48
道なりに進み、城南中学校を左に入り500mほど。墓地の入口に鎌倉時代中期、寛元元年(1243)の板碑が立っていました
城南中学校まで戻ると少し先に勝軍寺。天正2年(1574)京都の仁和寺から「勝軍寺」の新号を賜った古刹です
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5/21 14:03
城南中学校まで戻ると少し先に勝軍寺。天正2年(1574)京都の仁和寺から「勝軍寺」の新号を賜った古刹です
参道左に石塔が並び、左端は延宝6年(1678)の阿弥陀三尊像。その隣になんとなくひょうきんな頬被りをした地蔵菩薩坐像
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5/21 14:07
参道左に石塔が並び、左端は延宝6年(1678)の阿弥陀三尊像。その隣になんとなくひょうきんな頬被りをした地蔵菩薩坐像
笠付きの庚申塔は明和5年(1768)のもの。その右は宝永3年(1706)の庚申塔。足下の正面向きの邪鬼が面白い。
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5/21 14:07
笠付きの庚申塔は明和5年(1768)のもの。その右は宝永3年(1706)の庚申塔。足下の正面向きの邪鬼が面白い。
六地蔵の後ろには大きな宝篋印塔。安永9年(1780)のもの
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5/21 14:08
六地蔵の後ろには大きな宝篋印塔。安永9年(1780)のもの
勝軍寺のお隣には尾ヶ崎の八幡神社。創建時期は不明です
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5/21 14:10
勝軍寺のお隣には尾ヶ崎の八幡神社。創建時期は不明です
源義家が奥州征伐の途中この地で休憩し、軍扇を立て掛けたといわれる桑の木の株を御神体にしたとか
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5/21 14:13
源義家が奥州征伐の途中この地で休憩し、軍扇を立て掛けたといわれる桑の木の株を御神体にしたとか
道なりに県道に出て笹久保の交差点を過ぎると笹久保の八幡神社。篠岡八幡大神社が正式名のようです
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5/21 14:31
道なりに県道に出て笹久保の交差点を過ぎると笹久保の八幡神社。篠岡八幡大神社が正式名のようです
前九年の役(1051-1062)の時、奥州征伐に赴く源義家が立寄り、戦勝祈願のため笹の生い茂った窪地に軍扇を祀ったことから笹久保となったとか
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5/21 14:34
前九年の役(1051-1062)の時、奥州征伐に赴く源義家が立寄り、戦勝祈願のため笹の生い茂った窪地に軍扇を祀ったことから笹久保となったとか
八幡神社裏手から県道沿い東側の道を進むと常福寺に着きます
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5/21 14:50
八幡神社裏手から県道沿い東側の道を進むと常福寺に着きます
こちらはまだ新しそうな立派な常福寺仁王門
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5/21 14:51
こちらはまだ新しそうな立派な常福寺仁王門
ここには永禄3年(1560)の二十一仏板石塔婆があるようですが、実物を見ることはできませんでした
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5/21 14:52
ここには永禄3年(1560)の二十一仏板石塔婆があるようですが、実物を見ることはできませんでした
仁王門の裏手にはお釈迦様、布袋様、お地蔵様と大きな石仏が並びます。布袋様の大きなおなかに圧倒されます
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5/21 14:53
仁王門の裏手にはお釈迦様、布袋様、お地蔵様と大きな石仏が並びます。布袋様の大きなおなかに圧倒されます
その先には7基の石塔。笠付の石塔は十三仏を浮き彫りにした寛政7年(1795)の三界万霊塔。その左は明和3年(1766)の百所供養塔で道標も兼ねていたようだ
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5/21 14:54
その先には7基の石塔。笠付の石塔は十三仏を浮き彫りにした寛政7年(1795)の三界万霊塔。その左は明和3年(1766)の百所供養塔で道標も兼ねていたようだ
岩槻農協前交差点を東に入り、その先を左折して富士浅間神社へ。岩槻太田氏が城下で最も高いこの地に社殿を造営し富士山頂から神霊を遷したことに始まります
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5/21 15:43
岩槻農協前交差点を東に入り、その先を左折して富士浅間神社へ。岩槻太田氏が城下で最も高いこの地に社殿を造営し富士山頂から神霊を遷したことに始まります
参道階段の石燈籠の裏手に、猿田彦大神の石塔と天和2年(1682)・宝永5年(1708)造立の2基の庚申塔が並んでいます
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5/21 15:44
参道階段の石燈籠の裏手に、猿田彦大神の石塔と天和2年(1682)・宝永5年(1708)造立の2基の庚申塔が並んでいます
国道16号バイパスを西に進むと公民館の屋上に元浅間神社が。かつて国道16号バイパスの所に塚があり、社殿に上がるにはかなりの階段を登ったそうです
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5/21 15:56
国道16号バイパスを西に進むと公民館の屋上に元浅間神社が。かつて国道16号バイパスの所に塚があり、社殿に上がるにはかなりの階段を登ったそうです
階段の下には3基の庚申塔。左から寛文12年(1672)、寛文11年(1671)、延宝5年(1677)と岩槻では一番古い時代の庚申塔とのこと
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5/21 15:56
階段の下には3基の庚申塔。左から寛文12年(1672)、寛文11年(1671)、延宝5年(1677)と岩槻では一番古い時代の庚申塔とのこと
仲町交差点から岩槻駅に向かうと小さなお社の裏手に、正徳3年(1713)の庚申塔と宝暦5年(1755)の供養塔。その隣の石仏は頭が落ちて痛みも激しい
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5/21 16:01
仲町交差点から岩槻駅に向かうと小さなお社の裏手に、正徳3年(1713)の庚申塔と宝暦5年(1755)の供養塔。その隣の石仏は頭が落ちて痛みも激しい
天神小路を左に入り鈴木酒造へ。明治4年(1871)創業の酒蔵で、酒蔵資料館には直売所も併設されています
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5/21 16:13
天神小路を左に入り鈴木酒造へ。明治4年(1871)創業の酒蔵で、酒蔵資料館には直売所も併設されています
鈴木酒造から路地を抜けて岩槻藩遷喬館へ。岩槻藩主大岡家の家臣児玉南柯によって寛政11年(1799)私塾として開設され、後に藩校となったとか
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5/21 16:19
鈴木酒造から路地を抜けて岩槻藩遷喬館へ。岩槻藩主大岡家の家臣児玉南柯によって寛政11年(1799)私塾として開設され、後に藩校となったとか
遷喬館から商店街を抜けて
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5/21 16:31
遷喬館から商店街を抜けて
岩槻駅で本日の街道歩きはおしまい。岩槻の宿とお城めぐりは次回のお楽しみとしました
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5/21 16:38
岩槻駅で本日の街道歩きはおしまい。岩槻の宿とお城めぐりは次回のお楽しみとしました
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