岩槻駅東口を出発
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6/10 12:50
岩槻駅東口を出発
岩槻区役所裏の道を北へ進むと踏切手前に庚申堂。宝永2年(1705)の青面金剛像の石造庚申塔が祀られています
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6/10 13:04
岩槻区役所裏の道を北へ進むと踏切手前に庚申堂。宝永2年(1705)の青面金剛像の石造庚申塔が祀られています
踏切手前を右に入ると愛宕神社。かつて岩槻の城と城下町は大構といわれる土塁に囲まれており、愛宕神社はその上に鎮座しているとか
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6/10 13:07
踏切手前を右に入ると愛宕神社。かつて岩槻の城と城下町は大構といわれる土塁に囲まれており、愛宕神社はその上に鎮座しているとか
大構は昭和30年代にかけて徐々に切り崩されたとのことですが、ここ愛宕神社でその名残りが見られます
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6/10 13:08
大構は昭和30年代にかけて徐々に切り崩されたとのことですが、ここ愛宕神社でその名残りが見られます
愛宕神社を出て、大工町通りを渡ります。昔はこの辺りに岩槻城の増改築を行なう大工さんや職人さんが住んでいたとか
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6/10 13:15
愛宕神社を出て、大工町通りを渡ります。昔はこの辺りに岩槻城の増改築を行なう大工さんや職人さんが住んでいたとか
創立は元和6年(1620)と云われる大瀧寺。山門の梁には巻き付くように大きく立派な龍の彫り物が見られます
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6/10 13:22
創立は元和6年(1620)と云われる大瀧寺。山門の梁には巻き付くように大きく立派な龍の彫り物が見られます
本堂は昭和29年火災により焼失し、平成17年に再建されたそうですが、本堂の柱にも大きな龍の彫り物がありました
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6/10 13:21
本堂は昭和29年火災により焼失し、平成17年に再建されたそうですが、本堂の柱にも大きな龍の彫り物がありました
お隣は岩槻小学校。校庭の真ん中に樹齢約140年と云われる大イチョウが。小学校のフェンス越しにのぞき見
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6/10 13:28
お隣は岩槻小学校。校庭の真ん中に樹齢約140年と云われる大イチョウが。小学校のフェンス越しにのぞき見
県道2号を渡って時の鐘へ。寛文11年(1671年)に城主阿部正春が設置した岩槻城の鐘楼です。現在は自動化され、毎日、朝夕6時と正午の3回鳴らされているとか
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6/10 13:34
県道2号を渡って時の鐘へ。寛文11年(1671年)に城主阿部正春が設置した岩槻城の鐘楼です。現在は自動化され、毎日、朝夕6時と正午の3回鳴らされているとか
時の鐘を出て旧街道を南下し諏訪神社へ。諏訪神社は岩槻藩主阿部正次が軍神として信濃国諏訪上社から勧請したとか
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6/10 13:47
時の鐘を出て旧街道を南下し諏訪神社へ。諏訪神社は岩槻藩主阿部正次が軍神として信濃国諏訪上社から勧請したとか
コンクリート製の覆屋の中を覗いてみると、江戸時代前期の特徴を残すという本殿が見えました
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6/10 13:50
コンクリート製の覆屋の中を覗いてみると、江戸時代前期の特徴を残すという本殿が見えました
諏訪神社の左横の細道を抜けると岩槻城址公園前に出ます
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6/10 13:57
諏訪神社の左横の細道を抜けると岩槻城址公園前に出ます
公園横の岩槻市民会館は豆腐ラーメン発祥の地。B級グルメ埼玉県で2度の優勝を誇っているとか。食べてみたかったな〜
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6/10 14:02
公園横の岩槻市民会館は豆腐ラーメン発祥の地。B級グルメ埼玉県で2度の優勝を誇っているとか。食べてみたかったな〜
黒門で親しまれ、岩槻城の城門と伝えられる門。廃藩置県により城内から撤去され、点々とした後、昭和45年にここに移設されたため、城内での位置は不明とか
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6/10 14:05
黒門で親しまれ、岩槻城の城門と伝えられる門。廃藩置県により城内から撤去され、点々とした後、昭和45年にここに移設されたため、城内での位置は不明とか
城門横の高木の上ではシラサギが巣を作り、子育て中
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6/10 14:05
城門横の高木の上ではシラサギが巣を作り、子育て中
この写真の中に3羽の親鳥と1羽の雛が確認できます
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6/10 14:06
この写真の中に3羽の親鳥と1羽の雛が確認できます
城門の先には人形塚。岩槻の人形作りの起源は江戸時代初め頃とされ、人形師たちが心血を注ぎ、人々に愛された人形の冥福を祈るため作られたそうです
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6/10 14:11
城門の先には人形塚。岩槻の人形作りの起源は江戸時代初め頃とされ、人形師たちが心血を注ぎ、人々に愛された人形の冥福を祈るため作られたそうです
人形塚の隣には岩槻城裏門。廃藩置県により民間に払い下げられましたが、昭和55年岩槻市に寄贈されてここに移設されたとか
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6/10 14:12
人形塚の隣には岩槻城裏門。廃藩置県により民間に払い下げられましたが、昭和55年岩槻市に寄贈されてここに移設されたとか
岩槻城址公園の菖蒲池に架かる八ツ橋。池には菖蒲や蓮の花が咲いていました
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6/10 14:16
岩槻城址公園の菖蒲池に架かる八ツ橋。池には菖蒲や蓮の花が咲いていました
城址公園北東角には東武デラックスロマンスカーが展示されています。車内は空調完備で、懐かしさを感じつつゆっくりと休むことができました
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6/10 14:26
城址公園北東角には東武デラックスロマンスカーが展示されています。車内は空調完備で、懐かしさを感じつつゆっくりと休むことができました
公園から県道2号に出て西に進むと、道の北側に二の丸跡の標柱
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6/10 14:40
公園から県道2号に出て西に進むと、道の北側に二の丸跡の標柱
続いて、マミーマートの看板横には本丸跡の標柱
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6/10 14:46
続いて、マミーマートの看板横には本丸跡の標柱
さらに消防署角には三ノ丸跡の標柱
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6/10 14:48
さらに消防署角には三ノ丸跡の標柱
消防署先の路地を左に入るとフェンスに岩槻城大手門跡の表示板がありました
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6/10 14:51
消防署先の路地を左に入るとフェンスに岩槻城大手門跡の表示板がありました
時の鐘の前に出て旧街道を北上。渋江交差点から県道65号に入ります。この辺りは鎌倉街道中道と日光御成道が重なっています。
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6/10 15:04
時の鐘の前に出て旧街道を北上。渋江交差点から県道65号に入ります。この辺りは鎌倉街道中道と日光御成道が重なっています。
すぐ先右側に浄安寺。永正2年(1505)増上寺第5世の天誉了聞上人が開山。境内には、岩槻藩初代藩主高力清長、家康の孫徳松丸の墓や児玉南柯の墓などがあります
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6/10 15:06
すぐ先右側に浄安寺。永正2年(1505)増上寺第5世の天誉了聞上人が開山。境内には、岩槻藩初代藩主高力清長、家康の孫徳松丸の墓や児玉南柯の墓などがあります
児玉南柯の墓。岩槻藩士で江戸時代後期の儒学者。5代藩主忠正の時、遷喬館を創設。文政13年(1830)、85歳で亡くなったそうです
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6/10 15:11
児玉南柯の墓。岩槻藩士で江戸時代後期の儒学者。5代藩主忠正の時、遷喬館を創設。文政13年(1830)、85歳で亡くなったそうです
こちらが岩槻藩初代藩主高力清長、改易された松平忠輝の子で岩槻藩に預けられた徳松丸とその母の墓だとか。どれが誰だか分かりませんでした
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6/10 15:15
こちらが岩槻藩初代藩主高力清長、改易された松平忠輝の子で岩槻藩に預けられた徳松丸とその母の墓だとか。どれが誰だか分かりませんでした
引続き御成道を久伊豆神社へ向かいます
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6/10 15:23
引続き御成道を久伊豆神社へ向かいます
郷社久伊豆神社の石柱のある角を右に、久伊豆神社に向かいます
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6/10 15:24
郷社久伊豆神社の石柱のある角を右に、久伊豆神社に向かいます
路地を抜けて久伊豆神社の参道へ
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6/10 15:37
路地を抜けて久伊豆神社の参道へ
岩槻の総鎮守・久伊豆神社。6世紀半ばに東国に下った土師氏が、出雲の国から勧請したのが始まりとか
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6/10 15:41
岩槻の総鎮守・久伊豆神社。6世紀半ばに東国に下った土師氏が、出雲の国から勧請したのが始まりとか
境内には、昭和13年(1938)に朝香宮から贈られた孔雀の末裔も飼育されていました
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6/10 15:52
境内には、昭和13年(1938)に朝香宮から贈られた孔雀の末裔も飼育されていました
久伊豆神社から旧街道に戻り龍門寺に。山門は市の指定文化財で門扉は閉ざされていますが、右の小さな扉から入れます
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6/10 16:04
久伊豆神社から旧街道に戻り龍門寺に。山門は市の指定文化財で門扉は閉ざされていますが、右の小さな扉から入れます
龍門寺の創立は天文19年(1550)佐枝若狭守、開山は格叟
寅越和尚と伝わっています
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6/10 16:11
龍門寺の創立は天文19年(1550)佐枝若狭守、開山は格叟
寅越和尚と伝わっています
境内には、9代将軍家重の側用人だった岩槻藩主大岡忠光の墓があります
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6/10 16:07
境内には、9代将軍家重の側用人だった岩槻藩主大岡忠光の墓があります
人間総合科学大学の先、左カーブする県道の三叉路に小堂に入ったお地蔵さま。造立年は見当たらず。この角を右に八幡神社に向かいます
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6/10 16:22
人間総合科学大学の先、左カーブする県道の三叉路に小堂に入ったお地蔵さま。造立年は見当たらず。この角を右に八幡神社に向かいます
江川第五公園横にひっそりと質素な八幡神社。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際、岩槻城攻略の軍勢
がこの地で鎧具足を整えて出陣したとか
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6/10 16:28
江川第五公園横にひっそりと質素な八幡神社。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際、岩槻城攻略の軍勢
がこの地で鎧具足を整えて出陣したとか
旧街道に戻り、元荒川を慈恩寺橋で渡ります
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6/10 16:42
旧街道に戻り、元荒川を慈恩寺橋で渡ります
岩槻工業団地入口交差点角に立つ石橋供養塔。造立年は読み取れず
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6/10 16:49
岩槻工業団地入口交差点角に立つ石橋供養塔。造立年は読み取れず
その先、右に入る三叉路角に観音坐像が浮き彫りにされた石塔。慈恩寺への道標だそうです。造立年は分からず
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6/10 16:53
その先、右に入る三叉路角に観音坐像が浮き彫りにされた石塔。慈恩寺への道標だそうです。造立年は分からず
表慈恩寺公民館裏の十字路に庚申塔などの石造物が並びます。最古のものは、右から3基目の庚申塔で天和2年(1682)のものとか
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6/10 17:04
表慈恩寺公民館裏の十字路に庚申塔などの石造物が並びます。最古のものは、右から3基目の庚申塔で天和2年(1682)のものとか
坂東三十三ヶ所観音霊場十二番札所・慈恩寺。天長年間(824〜834)の創建で、開山は慈覚大師とのこと。
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6/10 17:13
坂東三十三ヶ所観音霊場十二番札所・慈恩寺。天長年間(824〜834)の創建で、開山は慈覚大師とのこと。
天正19年(1591)には徳川家康から寺領100石の寄進を受
け、元禄7年(1694)の古図では約13万5千坪の境内と塔中66カ坊を有する大寺だったそうです
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6/10 17:16
天正19年(1591)には徳川家康から寺領100石の寄進を受
け、元禄7年(1694)の古図では約13万5千坪の境内と塔中66カ坊を有する大寺だったそうです
慈恩寺から豊春に向かうと常源寺。創建は江戸時代初期と云われます。本堂前には大きな仁王像が並んでいました。
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6/10 17:25
慈恩寺から豊春に向かうと常源寺。創建は江戸時代初期と云われます。本堂前には大きな仁王像が並んでいました。
常源寺から10分ほどで徳力三社神社。創建年代は不詳ながら、徳力村の鎮守社として祀られ、三社権現社と称していたとか
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6/10 17:35
常源寺から10分ほどで徳力三社神社。創建年代は不詳ながら、徳力村の鎮守社として祀られ、三社権現社と称していたとか
神社の入口付近に2基の庚申塔。左は寛政12年(1800)のもので正面に「青面金剛」の文字。右は風化が激しく読み取れません
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6/10 17:35
神社の入口付近に2基の庚申塔。左は寛政12年(1800)のもので正面に「青面金剛」の文字。右は風化が激しく読み取れません
古墨田川を渡れば豊春駅もあとわずか。今日の街道旅も無事終了です
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6/10 17:43
古墨田川を渡れば豊春駅もあとわずか。今日の街道旅も無事終了です
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