善光寺街道・立峠越え
- GPS
- --:--
- 距離
- 8.5km
- 登り
- 480m
- 下り
- 451m
コースタイム
天候 | 快晴 無風 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2010年04月の天気図 |
アクセス | |
コース状況/ 危険箇所等 |
問題点なし |
写真
感想
4月25日(日) 参加者;junn1&木偶
甦る善光寺道
参加者がjunn1さんと2人だけになったので、善光寺街道の立峠に登って山菜パーティーを,と言う計画を変更して四賀支所から西条駅までを歩くことにする。
8:30に西条駅に集合,1台を駅駐車場に置いて四賀支所に移動し9:10から歩き始める。
2002年に善光寺街道を歩く企画を始め、松本城から乱橋までを大勢の子ども達と一緒に歩いてから9年になる。当初は街道のルートがはっきり分からず、あちこち走り廻って調査しているうちに村人に車を覚えられるほど多くの時間と労力を費やしたものである。
その後、2006年に4年後のご開帳をにらんだ善光寺サミットと言う会議が開かれ、調査隊が組織されて街道をしらみつぶしに調査,翌2007年の善光寺ルネッサンスに引きつがれてご開帳に大きく貢献するなど、近年,街道をめぐる活動が活発に展開される中で、会田宿も整備が進み、街並みが見違えるほどきれいになった。
不可解な道標
さて、歩き始めて最初の信号で街道は左折する。ここに置かれた石の標柱に書かれた『右(?)からし屋』(または『からした』)の意味が分からない。すぐ近くで食事処を営んでいる店の主人に聞いてみると『おや? これはなんだい・!?』と地元の人までもが首を傾げるに及んでこの件は不問となったが、『あぶらや』と言う屋号のその店の主人は、かつて先代か先々代かが立峠に茶店を出しており、『蘭方 正薄荷』と言う万病に効く薬をも売っていた云々〜,等と往時の話しをしてくれ、しばし茶屋談義に花を咲かせた。
大阪屋,萬屋と続く海鼠壁の美しい町並みをそぞろ歩いて本陣のあった横内家を過ぎ、道標に導かれて鍵の手を右折していよいよ坂道にかかる。
立峠は難所
かつては刈谷原峠とともに難所とされた立峠(990m)であるが、現在の林道花川原線の登山口(840m)からの登りのみを峠と見れば、その標高差は150m,距離は600mほどで、急登ではあるが長大とは言えない。
しかし今とは道路事情が大きく異なる時代においては、道標のあるこの右折点(610m)を峠の始まりと見るべきであろうと思う。その場合の標高差は380m,距離は峠までが2.8km,乱橋(840m)までは5・0kmとなり、当時の旅人にとっては難所と言える大きな峠であったことが頷けると言うものだ。
急坂に沿って並んだ美しい街並みの向こうにめざす立峠と送電鉄塔を望み、また虚空蔵山を背景にスッキリと経つ常夜灯や由緒深そうな松の木を愛でながらゆっくり登り、右手に松沢家長屋門を見送って無量寺に至る。
道連れ
芭蕉の『身にしみて 大根からし 秋の風』の句碑のある無量寺。その辺りで先行する2人の女性を追い越す。大町から来たと言う2人は立峠を経て西条駅まで行くと言う。そのうちの1人は、中山道を日本橋から京都まで歩き、また追分の分去れから北国街道を通って善光寺まで歩いたと言い、善光寺西街道は洗馬宿から会田宿までと西条から先を済ませていて、この日西条まで歩くと完結すると言う。
どちらものんびりの行程なので旅は道連れで同道することになる。1人で歩くことが多い女性にとってはコースによって不安を感ずる場所も少なくないのだそうだ。
初めてだという2人を岩井堂の磨崖仏に案内する。観音堂があるのは鷲峰山と言う山の長安寺と言うお寺で、山は険しい岩山となっており、あちこちの岩壁に100体ほどの磨崖仏が彫られているとある。
10:20頃、立峠登り口に着き、本日唯一の登りに備えて休憩。10:30発,立峠への登りにかかる。
刈谷原から立峠を方面を見ると会田宿の辺りが最も低く、道標を鍵の手に右折した所からかなりの勾配の登りとなって岩井堂を経、この登り口からは衝立のような急登になっているのがよく分かる。その最後の壁を登って行く。
20分で稜線に出る。稜線を左に行けば旧四賀村の境界線ルートである。右折して数分で立峠に着く。荷物をそこに置いてすぐに100mあまり上の送電線鉄塔に案内する。
そこから越し方と行く手を見て、立峠が刈谷原宿−会田宿−青柳宿をほぼ一直線に結ぶ重要な位置にあることを見てもらうつもりだった。実際、青柳宿方面は城跡公園の1本松までもがはっきり見えており、180度向きを変えると刈谷原宿を望むことが出来る筈であったが、残念なことに刈谷原宿方面に潅木が繁っていて見づらくなっていた。
それでも立峠が四賀村と麻績村を結ぶ要に位置していることはよく分かるし、何より送電線がそれを示している。
立峠を5分ほど南に進むと唐鳥屋城と言う山城の城跡がある。刈谷原(鷹巣根)城−唐鳥屋城−青柳城を結ぶのろしによる危急の連絡網を想像すると、戦国時代ののろし台としての唐鳥屋城・立峠の位置の重要性が浮かび上がってくるが、実際はどうであったのか・・?
立峠はこれから進む善光寺に思いを馳せ『あの山(聖高原)を越えれば善光寺平だ。まずは一服』と、それまでの我が労苦をねぎらい、さらなる旅路に向けて気を引き締めなおす,といった場所で、かつては『みたらしや』をはじめとする茶屋があってその跡をとどめている。会田宿で食事処を営む『あぶらや』も、ご先祖様がここで『蘭方・正薄荷』なる気付け薬を売っていたとは先刻教わったばかりである。
峠の一帯は広い平地で、今は乱橋側から車を乗り入れることも出来るようになっている。
無風快晴のさわやかな空気の元で早目の昼食を摂り、11:45出発。路の脇にキバナノアマナと思われる黄色い花やイチゲの花を見る。ニリンソウにしては大きな葉はトリカブトかも知れぬ〜等と当てずっぽうなことを話しながら乱橋に向かってのんびり下る。
以前,ルート調査で走り回っていた時に見つけた行き倒れの人の墓を探しながら歩いていると、峠から10分あまり下った辺りにそれはあった。
『越後の国,X(読めない)善寺村孫右ェ門,墓』と刻字された墓石である。行き倒れの人は無縁仏として村人によって葬られたものと思われがちだが、意外とそうではなくて身元はかなり正確に突き止められ、郷里に伝えられたようだと聞いたことがある。
この墓も近くにある石に俄か文字で彫ったようなものではないしっかりとした墓であるところを見ると、没者の縁者がつくって行き倒れた場所まで持ってきたのかもしれない等と想像してみる。
谷すじのきれいな水場の周辺の咲くニリンソウの群落のある場所まで来ると乱橋の集落は近い。乱橋上町,中町,本町と急な坂を下って12:33,県道303号に至る。
ここからは低い丘陵につけられた曲がりくねった路を行くだけであるが、途中に『馬の水のみ場』とか『棉の実道祖神』『一里塚』などの史跡があって面白い。
その1つ,中ノ峠付近で『物種太郎塚』なるものを見つけた。この『物種』を何と読むのだろうか? すぐに浮かんでくるのは『ものぐさ太郎』伝説のことだが、ネットで調べた範囲では『物種』=『ものぐさ』を示す記述は見当たらなかった。ご存知の方があればお教え願いたい。
せっかくなのでお伽草子『ものくさ太郎』を ↓
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/otogi/mono/monokus...
だらだらと歩いても乱橋から西条駅までは40分あまりのもので、同道した女性達は次の坂北駅まで歩きたい様子だったが、電車の都合で断念したようだ。
13:15,西条駅着。5月1日からの海岸線歩きに向けての軽い足慣らしにはなった。
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