記録ID: 7135060
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ハイキング
京都・北摂
朝のウォーキング/史跡巡り 気になるお寺”西光寺”を訪れ、京博へ”法然上人行状絵図”を見に行くことに
2024年08月14日(水) [日帰り]

体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 01:49
- 距離
- 5.4km
- 登り
- 19m
- 下り
- 2m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 1:58
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 1:58
距離 5.4km
登り 19m
下り 2m
5:36
118分
スタート地点
7:34
ゴール地点
| 過去天気図(気象庁) | 2024年08月の天気図 |
|---|---|
| アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
写真
京都検定テキスト
・・・
安貞二年(二三八)、広隆寺の塔頭来迎坊にあった法然の棺から発した瑞光に従い、弟子たちが法難を避けて粟生の地に遺骸を移して、茶毘に付した。
その遺骨は境内の御本廟に祀られ現在に至る。
・・・
広隆寺の塔頭来迎坊とは?
西光寺では!
法然上人の遺骸は
知恩院⇒二尊院⇒西光寺⇒粟生光明寺
???
法難とは?
嘉禄の法難
法然上人のお念仏の教えに反対した勢力が、大谷 (現知恩院)の法然上人のお墓を破壊して、そのご遺骸を鴨川に流すという 計画をしました。その企てを知ったお弟子達が・・・。
知恩院所蔵 国宝 『法然上人行状絵図』の第42巻第5段
法然上人行状絵図は京博で展示中
第42巻第5段があるかどうかは不明(-_-;)
行ってみる価値がある?
・・・
安貞二年(二三八)、広隆寺の塔頭来迎坊にあった法然の棺から発した瑞光に従い、弟子たちが法難を避けて粟生の地に遺骸を移して、茶毘に付した。
その遺骨は境内の御本廟に祀られ現在に至る。
・・・
広隆寺の塔頭来迎坊とは?
西光寺では!
法然上人の遺骸は
知恩院⇒二尊院⇒西光寺⇒粟生光明寺
???
法難とは?
嘉禄の法難
法然上人のお念仏の教えに反対した勢力が、大谷 (現知恩院)の法然上人のお墓を破壊して、そのご遺骸を鴨川に流すという 計画をしました。その企てを知ったお弟子達が・・・。
知恩院所蔵 国宝 『法然上人行状絵図』の第42巻第5段
法然上人行状絵図は京博で展示中
第42巻第5段があるかどうかは不明(-_-;)
行ってみる価値がある?
蚕の社(木島坐天照御魂神祉)
(右京区太秦森ヶ東町)
祭神
天御中主命、瓊々杵命、大国魂神、穂々出見命、鵜茅葺不合命
正式には木島坐天照御魂神社。
創祀時期は不詳。
かつてこの地の勢カ者であった秦氏ゆかりの神社で、平安時代には祈雨の神として信仰された。
本殿の右側にある摂社の養蚕神社は、養蚕・機織・染色の技術に優れた秦氏に縁が深く、蚕の社と呼ばれることから、当社の通称となった。
境内には元糺の池があり、近年環境の変化により渇水状態になっているが、夏の土用の丑の日には動力で境内の水を汲み上げ池に水を流している。
この池に手足を浸すと、しもやけや脚気にならないという。
元糺の池に建つ三柱鳥居(三鳥居)は、明神鳥居を正三角形に組み合わせ、その中心に設けた組石の神座に御幣が立てられ、三方から拝むことができる。
京都御苑内の厳島神社の唐破風鳥居(↓63頁)と北野天満宮内の伴氏社の鳥居(↓65頁)とともに京都三珍鳥居の一つである。
(京都検定テキスト)
(右京区太秦森ヶ東町)
祭神
天御中主命、瓊々杵命、大国魂神、穂々出見命、鵜茅葺不合命
正式には木島坐天照御魂神社。
創祀時期は不詳。
かつてこの地の勢カ者であった秦氏ゆかりの神社で、平安時代には祈雨の神として信仰された。
本殿の右側にある摂社の養蚕神社は、養蚕・機織・染色の技術に優れた秦氏に縁が深く、蚕の社と呼ばれることから、当社の通称となった。
境内には元糺の池があり、近年環境の変化により渇水状態になっているが、夏の土用の丑の日には動力で境内の水を汲み上げ池に水を流している。
この池に手足を浸すと、しもやけや脚気にならないという。
元糺の池に建つ三柱鳥居(三鳥居)は、明神鳥居を正三角形に組み合わせ、その中心に設けた組石の神座に御幣が立てられ、三方から拝むことができる。
京都御苑内の厳島神社の唐破風鳥居(↓63頁)と北野天満宮内の伴氏社の鳥居(↓65頁)とともに京都三珍鳥居の一つである。
(京都検定テキスト)
広隆寺
まだ開いていません(-_-;)
広隆寺(右京区太秦蜂岡町)
本尊 聖徳太子
真言宗単立寺院。
山号は蜂岡山。
法隆寺・四天王寺などとともに聖徳太子建立七大寺の一つ。
古くは蜂岡寺・秦公寺といい、「太秦の太子堂」とも呼ばれる。
推古天皇十一年(六〇三)に秦河勝が聖徳太子から仏像を賜わり、本尊として建立した。
弘仁九年(八一八)と久安六年(一一五〇)の火災により伽藍を焼失したが、創建以来の仏像のほとんどは火災を免れた。
承和三年(八三六)には中興の祖とする道昌が再興に着手。
のち本尊は創建当初の弥勒菩薩から薬師如来となり、さらに聖徳太子像に代わった。
境内西北隅にある桂宮院は奥院とも称し、桂宮院本堂(国宝)は建長三年(一二五一)以前の建築。
永万元年(一一六五)再建の講堂(重要文化財)は丹塗りのため赤堂とも呼ばれている。
仏像では、飛鳥時代を代表する遺品で日本の国宝第一号に指定された弥勒菩薩半跡思惟像が著名。
また、一見泣いているように見える顔立ちから「泣き弥勒」の名で親しまれている菩薩像も国宝。
他に定朝の弟子長勢の作と伝えられる十二神将像、不空 索観音立像、千手観音立像(いずれも国宝)などがある。
(京都検定テキスト)
まだ開いていません(-_-;)
広隆寺(右京区太秦蜂岡町)
本尊 聖徳太子
真言宗単立寺院。
山号は蜂岡山。
法隆寺・四天王寺などとともに聖徳太子建立七大寺の一つ。
古くは蜂岡寺・秦公寺といい、「太秦の太子堂」とも呼ばれる。
推古天皇十一年(六〇三)に秦河勝が聖徳太子から仏像を賜わり、本尊として建立した。
弘仁九年(八一八)と久安六年(一一五〇)の火災により伽藍を焼失したが、創建以来の仏像のほとんどは火災を免れた。
承和三年(八三六)には中興の祖とする道昌が再興に着手。
のち本尊は創建当初の弥勒菩薩から薬師如来となり、さらに聖徳太子像に代わった。
境内西北隅にある桂宮院は奥院とも称し、桂宮院本堂(国宝)は建長三年(一二五一)以前の建築。
永万元年(一一六五)再建の講堂(重要文化財)は丹塗りのため赤堂とも呼ばれている。
仏像では、飛鳥時代を代表する遺品で日本の国宝第一号に指定された弥勒菩薩半跡思惟像が著名。
また、一見泣いているように見える顔立ちから「泣き弥勒」の名で親しまれている菩薩像も国宝。
他に定朝の弟子長勢の作と伝えられる十二神将像、不空 索観音立像、千手観音立像(いずれも国宝)などがある。
(京都検定テキスト)
文博へ行ったら
総合展示
足利将軍、京都に住まう。
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/ead8ad9976cbf673462c40a91ae092a3
福井勇-あいまいな輪郭
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/da8c4f47430908b44239fc3e407853ac
刺繍の世界
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/d682cd965b532e030cd60d35c3b58f72
をやっていました。
わたしとしては”足利将軍、京都に住まう。”だけでよかったのですが・・・。
総合展示
足利将軍、京都に住まう。
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/ead8ad9976cbf673462c40a91ae092a3
福井勇-あいまいな輪郭
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/da8c4f47430908b44239fc3e407853ac
刺繍の世界
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/d682cd965b532e030cd60d35c3b58f72
をやっていました。
わたしとしては”足利将軍、京都に住まう。”だけでよかったのですが・・・。
感想
ちょっとの朝のウォーキングが
京博へ国宝”法然上人行状絵図”を見に行くことになりました。
23巻を見たいものだ!
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