記録ID: 7194671
全員に公開
ハイキング
京都・北摂
朝の迷走歩き(-_-;) 目的は妙蓮寺の彼岸花だったが・・・。
2024年09月04日(水) [日帰り]

体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 02:11
- 距離
- 6.4km
- 登り
- 22m
- 下り
- 6m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 2:12
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 2:12
距離 6.4km
登り 22m
下り 6m
5:59
132分
スタート地点
8:11
ゴール地点
過去天気図(気象庁) | 2024年09月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
バス
|
写真
首途八幡宮
(上京区智恵光院通今出川上ル桜井町)
祭神
応神天皇、比売大神、神功皇后
大内裏の北東に位置するために王城鎮護の神とされ、内野八幡宮とも呼ばれた。
この地にはかつて金売吉次の屋敷があったといわれ、当社はその鎮守社と伝える。
吉次は平安時代の伝説上の商人。
社名は、承安四年(一一七四)に牛若丸(源義経)が奥州に出発する時に道中の安全を祈願したことに由来するとも、寿永年間(一一八二〜八五)に義経が平家追討の首途にあたり、宇佐神宮(大分県宇佐市)の神霊を勧請したことにちなむともいう。
この故事により、旅行の安全を願う信仰がある。
(京都検定テキスト)
(上京区智恵光院通今出川上ル桜井町)
祭神
応神天皇、比売大神、神功皇后
大内裏の北東に位置するために王城鎮護の神とされ、内野八幡宮とも呼ばれた。
この地にはかつて金売吉次の屋敷があったといわれ、当社はその鎮守社と伝える。
吉次は平安時代の伝説上の商人。
社名は、承安四年(一一七四)に牛若丸(源義経)が奥州に出発する時に道中の安全を祈願したことに由来するとも、寿永年間(一一八二〜八五)に義経が平家追討の首途にあたり、宇佐神宮(大分県宇佐市)の神霊を勧請したことにちなむともいう。
この故事により、旅行の安全を願う信仰がある。
(京都検定テキスト)
本隆寺(上京区智恵光院通五辻上ル紋屋町)
本尊 十界輪円具足大曼茶羅
法華宗真門流の総本山。
山号は慧光無量山。
正式には本妙興隆寺。
俗に不焼寺ともいう。
洛中法華二十一ヵ寺本山の一つ。
長享二年(一四八八)に日真が六角西洞院に草庵を建てたことが起こり。
境内の「夜泣き止めの松」は、この木の葉を枕の下に敷くと夜泣きが止むと伝える。
他に、無外如大尼が悟りを開いたという千代野井の井戸や、『雍州府志』を著わした黒川道祐、千家十職黒田正玄歴代の墓もある。
(京都検定テキスト)
本尊 十界輪円具足大曼茶羅
法華宗真門流の総本山。
山号は慧光無量山。
正式には本妙興隆寺。
俗に不焼寺ともいう。
洛中法華二十一ヵ寺本山の一つ。
長享二年(一四八八)に日真が六角西洞院に草庵を建てたことが起こり。
境内の「夜泣き止めの松」は、この木の葉を枕の下に敷くと夜泣きが止むと伝える。
他に、無外如大尼が悟りを開いたという千代野井の井戸や、『雍州府志』を著わした黒川道祐、千家十職黒田正玄歴代の墓もある。
(京都検定テキスト)
雨宝院(西陣聖天)
(上京区智恵光院通上立売上ル聖天町)
本尊 歓喜天(聖天)
真言宗泉涌寺派。
山号は北向山。
西陣聖天とも呼ばれる。
平安時代初期、嵯峨天皇の病気平癒を空海(弘法大師)が等身大の歓喜天像を作って祈願した。
その功績によって空海は天皇の別荘であった時雨亭を賜わり、雨宝堂(大聖歓喜寺)としたことに由来するという。
開基は空海とされる。
観音堂に安置される千手観音立像(重要文化財)は平安時代初期の作風を示している。
本堂前の桜は「歓喜桜」と称される御室桜と同種の八重桜で、開花時には根元から花を付ける。
(京都検定テキスト)
(上京区智恵光院通上立売上ル聖天町)
本尊 歓喜天(聖天)
真言宗泉涌寺派。
山号は北向山。
西陣聖天とも呼ばれる。
平安時代初期、嵯峨天皇の病気平癒を空海(弘法大師)が等身大の歓喜天像を作って祈願した。
その功績によって空海は天皇の別荘であった時雨亭を賜わり、雨宝堂(大聖歓喜寺)としたことに由来するという。
開基は空海とされる。
観音堂に安置される千手観音立像(重要文化財)は平安時代初期の作風を示している。
本堂前の桜は「歓喜桜」と称される御室桜と同種の八重桜で、開花時には根元から花を付ける。
(京都検定テキスト)
妙蓮寺(上京区寺之内通大宮東入妙蓮寺前町)
本尊 十界曼荼羅
本門法華宗の大本山。
山号は卯木山。
洛中法華二十一ヵ寺本山の一つ。
永仁二年(一二九四)に日像が造酒屋の中興氏(柳屋)の帰依を受けて、下京区五条西洞院に開創。
寺名を妙法蓮華寺とも、屋号にちなんで柳寺ともいった。
一時衰退したが、応永年間(一三九四〜一四二八)に日慶が再興、妙蓮寺と号した。
現在地には天正十五年(一五八七)に移転。
山号の由来は「柳」の字を二つに分けたもの。
奥書院と玄関に長谷川派による障壁画(重要文化財)が残る。
境内には有名な妙蓮寺椿や十月頃から翌年の四月頃まで花を付ける御会式桜が咲き、墓地には画家の幸野楳嶺の墓がある。
(京都検定テキスト)
本尊 十界曼荼羅
本門法華宗の大本山。
山号は卯木山。
洛中法華二十一ヵ寺本山の一つ。
永仁二年(一二九四)に日像が造酒屋の中興氏(柳屋)の帰依を受けて、下京区五条西洞院に開創。
寺名を妙法蓮華寺とも、屋号にちなんで柳寺ともいった。
一時衰退したが、応永年間(一三九四〜一四二八)に日慶が再興、妙蓮寺と号した。
現在地には天正十五年(一五八七)に移転。
山号の由来は「柳」の字を二つに分けたもの。
奥書院と玄関に長谷川派による障壁画(重要文化財)が残る。
境内には有名な妙蓮寺椿や十月頃から翌年の四月頃まで花を付ける御会式桜が咲き、墓地には画家の幸野楳嶺の墓がある。
(京都検定テキスト)
テキストにも記述なし
と思ったら
知恩院のところに記述があった♫
・・・・
寛永十八年(一六四一)、方丈再建時に作られたとされる庭園は、東山の裾を築山の代わりに使った雄大豪華な庭で僧玉淵の作とされる。
・・・・
と思ったら
知恩院のところに記述があった♫
・・・・
寛永十八年(一六四一)、方丈再建時に作られたとされる庭園は、東山の裾を築山の代わりに使った雄大豪華な庭で僧玉淵の作とされる。
・・・・
・・・・・。
その機運に乗って、日本最初の美術学校である京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)が明治十三年(一八八〇)に創設された。
各流派のもとに画塾として行われてきた絵画が学校組織に移り変わり、四条派の締議の弟子塩川文麟の弟子幸野楳嶺が中心とな一て進められた画学校から、竹内栖鳳・上村松園など多くの画家を輩出した。
・・・・・
(京都検定テキスト)
その機運に乗って、日本最初の美術学校である京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)が明治十三年(一八八〇)に創設された。
各流派のもとに画塾として行われてきた絵画が学校組織に移り変わり、四条派の締議の弟子塩川文麟の弟子幸野楳嶺が中心とな一て進められた画学校から、竹内栖鳳・上村松園など多くの画家を輩出した。
・・・・・
(京都検定テキスト)
宝鏡寺(上京区寺之内通堀川東入百々町)
本尊 聖観世音菩薩
臨済宗単立の尼門跡寺院。
山号は西山。
通称は人形寺。
また、百々御所と称される。
前身は上京区五辻大宮の景愛寺(尼五山第一位)の子院であった福尼寺。
応安年間(一三六八〜七五)に景愛寺の六世の華林宮恵厳禅尼(光厳天皇の皇女)が現在地に移転して再興。
二十四代三麼地院(サンマジイン)宮が父光格天皇より賜わった直衣雛をはじめ、皇女和宮の遺愛の品などを所蔵する。
境内に人形塚がある。
(京都検定テキスト)
本尊 聖観世音菩薩
臨済宗単立の尼門跡寺院。
山号は西山。
通称は人形寺。
また、百々御所と称される。
前身は上京区五辻大宮の景愛寺(尼五山第一位)の子院であった福尼寺。
応安年間(一三六八〜七五)に景愛寺の六世の華林宮恵厳禅尼(光厳天皇の皇女)が現在地に移転して再興。
二十四代三麼地院(サンマジイン)宮が父光格天皇より賜わった直衣雛をはじめ、皇女和宮の遺愛の品などを所蔵する。
境内に人形塚がある。
(京都検定テキスト)
妙顕寺(上京区寺之内通新町西入妙顕寺前町)
本尊 十界曼荼羅
山号は具足山(龍華の三具足の一)。
正式には四海唱導妙顕寺という。
日蓮宗大本山で、洛中法華二十一ヵ寺本山の一つ。
京都における法華宗寺院の草分け的存在で、関西法華宗団の根本をなす。
開祖日像は、宗祖日蓮の孫弟子で、六老僧の一人日朗の弟子にあたる。
元亨元年(一三二一)、後醍醐天皇より寺地を賜わって創建され、続いて建武元年(一三三四)には同天呈の綸旨により勅願寺となった。
この綸旨は日蓮宗の宗号の綸旨ともいえるもので、法華宗最初の勅願寺として、洛中法華寺院の先頭に位置することとなった。
また、延文二年(一三五七)の後光厳天皇の綸旨は、門流分立する中世の法華宗にあって、北朝が当寺を宗内最高の地位と公認したことを意味し、以来、四海唱導妙顕寺と号した。
その門流は、所在地であった四条櫛笥にちなんで、四条門流と呼ばれ、ホンコクジ(↓172頁)の六条門流と並び立った。
しかし、天文法華の乱をはじめとする数々の法難を受け、寺号も一時妙本寺を名乗ることもあった。
寺地も変わること四度と伝えられ、現在の地には天正十一年(一五八三)、豊臣秀吉の命により移建された。
堂宇は天明の大火での類焼以後の再建。
祖師堂にあたる三菩薩堂は、日蓮・日朗・日像を祀っている。
三菩薩とは、妙顕寺二世の大覚が行った雨乞いの効験によって、後光厳天皇より日蓮に大菩薩号、日朗と日像に菩薩号が与えられたことに由来する。
寺宝に、尾形光琳筆の「松竹梅図」三幅などがある。また客殿前庭は龍華飛翔の庭、書院前庭は光琳曲水の庭と名付けられている。
なお、尾形光琳・乾山兄弟の墓が、塔頭泉妙院にある。
(京都検定テキスト)
本尊 十界曼荼羅
山号は具足山(龍華の三具足の一)。
正式には四海唱導妙顕寺という。
日蓮宗大本山で、洛中法華二十一ヵ寺本山の一つ。
京都における法華宗寺院の草分け的存在で、関西法華宗団の根本をなす。
開祖日像は、宗祖日蓮の孫弟子で、六老僧の一人日朗の弟子にあたる。
元亨元年(一三二一)、後醍醐天皇より寺地を賜わって創建され、続いて建武元年(一三三四)には同天呈の綸旨により勅願寺となった。
この綸旨は日蓮宗の宗号の綸旨ともいえるもので、法華宗最初の勅願寺として、洛中法華寺院の先頭に位置することとなった。
また、延文二年(一三五七)の後光厳天皇の綸旨は、門流分立する中世の法華宗にあって、北朝が当寺を宗内最高の地位と公認したことを意味し、以来、四海唱導妙顕寺と号した。
その門流は、所在地であった四条櫛笥にちなんで、四条門流と呼ばれ、ホンコクジ(↓172頁)の六条門流と並び立った。
しかし、天文法華の乱をはじめとする数々の法難を受け、寺号も一時妙本寺を名乗ることもあった。
寺地も変わること四度と伝えられ、現在の地には天正十一年(一五八三)、豊臣秀吉の命により移建された。
堂宇は天明の大火での類焼以後の再建。
祖師堂にあたる三菩薩堂は、日蓮・日朗・日像を祀っている。
三菩薩とは、妙顕寺二世の大覚が行った雨乞いの効験によって、後光厳天皇より日蓮に大菩薩号、日朗と日像に菩薩号が与えられたことに由来する。
寺宝に、尾形光琳筆の「松竹梅図」三幅などがある。また客殿前庭は龍華飛翔の庭、書院前庭は光琳曲水の庭と名付けられている。
なお、尾形光琳・乾山兄弟の墓が、塔頭泉妙院にある。
(京都検定テキスト)
三千家
千利休を祖とする茶道家元の三家、表千家・裏千家(ともに上京区小川通寺之内上ル)・武者小路千家(上京区武者小路通小川東入)をいう。
利休の孫の千宗旦は、江戸時代初期、利休のわび茶の道を推進させ、宗旦の三男の江岑宗左は表千家を、四男の仙曳宗室は裏千家を、次男の一翁宗守は武者小路千家をそれぞれ興し、三千家が確立した。
宗左は紀州徳川家、宗室は加賀前田家、宗守は讃岐高松松平家に出仕して、経済基盤を固めた。
代表的茶室には、表千家の不審蕃、裏千家の今日庵(重要文化財)、武者小路千家の官休庵などがある。
(京都検定テキスト)
千利休を祖とする茶道家元の三家、表千家・裏千家(ともに上京区小川通寺之内上ル)・武者小路千家(上京区武者小路通小川東入)をいう。
利休の孫の千宗旦は、江戸時代初期、利休のわび茶の道を推進させ、宗旦の三男の江岑宗左は表千家を、四男の仙曳宗室は裏千家を、次男の一翁宗守は武者小路千家をそれぞれ興し、三千家が確立した。
宗左は紀州徳川家、宗室は加賀前田家、宗守は讃岐高松松平家に出仕して、経済基盤を固めた。
代表的茶室には、表千家の不審蕃、裏千家の今日庵(重要文化財)、武者小路千家の官休庵などがある。
(京都検定テキスト)
本法寺(上京区小川通寺之内上ル本法寺前町)
本尊 十界大曼茶羅
日蓮宗の本山。
山号は叡昌山。
洛中法華二十一ヵ寺本山の一つ。
永享八年(一四三六)に日親が四条高倉に建立したという。
日親は同十一年に『立正治国論』を著わし、足利義教の怒りにふれて投獄、焼けた鍋を頭に被らされて「なべかむり日親」と称されたが、のち許されて当寺を再興した。
投獄中に本阿弥清信と知り合い、のちに当寺は本阿弥家の菩提寺となる。
天明八年(一七八八)の大火で類焼して、現在の諸堂はその後の再建。
庭園は国の名勝。
本阿弥光悦の作と伝える三巴の庭は、三島をそれぞれ巴形にして配置。
中庭には光悦遺愛の手水鉢を据える。
長谷川等伯と縁が深く「仏浬繋図」(重要文化財)など、絵画や関係資料が数多く伝わる。
墓地には本阿弥一族や長谷川等伯らの墓がある。
(京都検定テキスト)
本尊 十界大曼茶羅
日蓮宗の本山。
山号は叡昌山。
洛中法華二十一ヵ寺本山の一つ。
永享八年(一四三六)に日親が四条高倉に建立したという。
日親は同十一年に『立正治国論』を著わし、足利義教の怒りにふれて投獄、焼けた鍋を頭に被らされて「なべかむり日親」と称されたが、のち許されて当寺を再興した。
投獄中に本阿弥清信と知り合い、のちに当寺は本阿弥家の菩提寺となる。
天明八年(一七八八)の大火で類焼して、現在の諸堂はその後の再建。
庭園は国の名勝。
本阿弥光悦の作と伝える三巴の庭は、三島をそれぞれ巴形にして配置。
中庭には光悦遺愛の手水鉢を据える。
長谷川等伯と縁が深く「仏浬繋図」(重要文化財)など、絵画や関係資料が数多く伝わる。
墓地には本阿弥一族や長谷川等伯らの墓がある。
(京都検定テキスト)
水火天満宮
(上京区堀川通上御霊前上ル扇町)
祭神 菅原道真
社名は菅原道真の師でもあった比叡山延暦寺の法性坊尊意が都の水害火災を鎮めたことによる。
道真の怨霊によって都は災害に襲われ、鴨川も大洪水となった。
醍醐天皇の勅命を二度まで固辞した尊意であったが、再三の依頼により比叡山を下りて宮中で祈祷をし、道真の怨霊をなぐさめて都に平穏を取り戻したという。
その伝説ゆかりの登天石が境内にある。
(京都検定テキスト)
(上京区堀川通上御霊前上ル扇町)
祭神 菅原道真
社名は菅原道真の師でもあった比叡山延暦寺の法性坊尊意が都の水害火災を鎮めたことによる。
道真の怨霊によって都は災害に襲われ、鴨川も大洪水となった。
醍醐天皇の勅命を二度まで固辞した尊意であったが、再三の依頼により比叡山を下りて宮中で祈祷をし、道真の怨霊をなぐさめて都に平穏を取り戻したという。
その伝説ゆかりの登天石が境内にある。
(京都検定テキスト)
道真の登天石
上京区.水火天満宮
菅原道真は藤原時平の譲言により大宰府に左遷され、非業の死を遂げた。
道真の死後、都で雷が起こると、道真の崇りであると人々は信じ込んだ。
ついには醍醐天皇までもが不安を抱くようになり、道真が師と仰いだ延暦寺の法性坊尊意僧正を宮中に招いて祈祷させることになった。
勅命を受け、延暦寺から宮中に向かう僧正の前で、鴨川の水が溢れ出した。
僧正は数珠をひと揉みすると、水流が分かれ、石の上に道真が現われたが、すぐに消え去った。
僧正は後に残った石を持ち帰り、道真の霊を供養した。
この石が登天石と呼ばれている。
(京都検定テキスト)
十戒の映画みたい(-_-;)
上京区.水火天満宮
菅原道真は藤原時平の譲言により大宰府に左遷され、非業の死を遂げた。
道真の死後、都で雷が起こると、道真の崇りであると人々は信じ込んだ。
ついには醍醐天皇までもが不安を抱くようになり、道真が師と仰いだ延暦寺の法性坊尊意僧正を宮中に招いて祈祷させることになった。
勅命を受け、延暦寺から宮中に向かう僧正の前で、鴨川の水が溢れ出した。
僧正は数珠をひと揉みすると、水流が分かれ、石の上に道真が現われたが、すぐに消え去った。
僧正は後に残った石を持ち帰り、道真の霊を供養した。
この石が登天石と呼ばれている。
(京都検定テキスト)
十戒の映画みたい(-_-;)
妙覚寺(上京区新町頭鞍馬口下ル下清蔵口町)
本尊 十界曼茶羅
日蓮宗の本山で、洛中法華二十一ヵ寺本山の一つ。
山号は具足山(龍華の三具足の一つ・北龍華)。
日実が、妙顕寺から分立して開山に日像を仰ぎ、自らは四世となって開創した。豪商であったという小野妙覚尼の四条大宮の邸宅を寺としたことから、妙覚寺の名がある。
その後、二条衣棚へ移転した。
天文法華の乱で十二世日兆が戦死し、堂宇も焼失したが、同所に復興された。
織田信長は京都に滞在する時、本能寺とともに妙覚寺もたびたび宿所とした。
本能寺の変の時は子の信忠が滞在しており、異変を知るや明智光秀を迎え撃つために二条御所へ移動したが、そこで戦死した。
その後、豊臣秀吉によって現在地へ移転され、現在の堂宇は天明の大火後の再建。
寺伝では、正面の大門は、元は聚楽第の裏門であったという。寺宝に斎藤道三違言状が伝わる。
境内には宗祖日蓮が書写した法華経を納めた華芳塔や、天文法華の乱の犠牲者の供養塔である「天文法難殉教碑」がある。
また、少し離れた境外にある妙覚寺墓地には、狩野元信・永徳ら狩野家歴代の墓がある。
(京都検定テキスト)
本尊 十界曼茶羅
日蓮宗の本山で、洛中法華二十一ヵ寺本山の一つ。
山号は具足山(龍華の三具足の一つ・北龍華)。
日実が、妙顕寺から分立して開山に日像を仰ぎ、自らは四世となって開創した。豪商であったという小野妙覚尼の四条大宮の邸宅を寺としたことから、妙覚寺の名がある。
その後、二条衣棚へ移転した。
天文法華の乱で十二世日兆が戦死し、堂宇も焼失したが、同所に復興された。
織田信長は京都に滞在する時、本能寺とともに妙覚寺もたびたび宿所とした。
本能寺の変の時は子の信忠が滞在しており、異変を知るや明智光秀を迎え撃つために二条御所へ移動したが、そこで戦死した。
その後、豊臣秀吉によって現在地へ移転され、現在の堂宇は天明の大火後の再建。
寺伝では、正面の大門は、元は聚楽第の裏門であったという。寺宝に斎藤道三違言状が伝わる。
境内には宗祖日蓮が書写した法華経を納めた華芳塔や、天文法華の乱の犠牲者の供養塔である「天文法難殉教碑」がある。
また、少し離れた境外にある妙覚寺墓地には、狩野元信・永徳ら狩野家歴代の墓がある。
(京都検定テキスト)
感想
何度も歩いているのに・・・。
久しぶりに来ると右往左往(-_-;)
彼岸花・・・。
まだ早かった(-_-;)
昨年は9/23に来ていた
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-5968405.html
調べてから来ればよかったのに・・・。
でも久しぶりにこの辺りを歩いた
日蓮宗のお寺がいっぱい
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