記録ID: 7455051
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ハイキング
関東
東海道53次 茅ヶ崎〜平塚〜大磯
2024年11月07日(木) [日帰り]


体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 05:23
- 距離
- 13.4km
- 登り
- 14m
- 下り
- 10m
コースタイム
天候 | 快晴 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年11月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
写真
茅ヶ崎市役所前広場にある寛永寺石灯籠。
徳川家の菩提寺として栄えた上野の寛永寺には、全国の大名から歴代将軍への供養としてたくさんの石燈籠が献上されています。
戌辰(ぼしん)の役や関東大震災や戦災などで被害を受けた寛永寺への再建寄付の返礼として茅ヶ崎市へ贈られたものです。
徳川家の菩提寺として栄えた上野の寛永寺には、全国の大名から歴代将軍への供養としてたくさんの石燈籠が献上されています。
戌辰(ぼしん)の役や関東大震災や戦災などで被害を受けた寛永寺への再建寄付の返礼として茅ヶ崎市へ贈られたものです。
南湖の左富士。快晴だったのでクッキリ見えました。ガイドさんも10回1回程度しかこれほど綺麗には見られないとのこと。
日本橋から京都まで続く東海道で、富士山が左側に見える珍しいスポット。国道一号線沿いにある鳥井戸橋の上から富士山を見ると左側に見ることができます。歌川広重(安藤広重)の浮世絵「南期の松原左り不二」に当時の様子が描かれています。
日本橋から京都まで続く東海道で、富士山が左側に見える珍しいスポット。国道一号線沿いにある鳥井戸橋の上から富士山を見ると左側に見ることができます。歌川広重(安藤広重)の浮世絵「南期の松原左り不二」に当時の様子が描かれています。
鶴嶺八幡宮一之鳥居そばの弁慶塚。
源頼朝は、1198年(建久9年)12月27日、武蔵国稲毛(川崎市)を領していた稲毛重成が、亡き妻の冥福を祈るために行った「相模川の橋供養」に参列した。
その帰路、鶴嶺八幡宮にさしかかった所で、弟源義経や叔父源行家らの亡霊に現われて頼朝は落馬。そのことが原因で翌年1月13日に亡くなったのだと伝えられている。
鶴嶺八幡宮の大鳥居を入った右側には、後年、里人によって義経一族の霊を慰めるため造ったとされる「弁慶塚」がある。
源頼朝は、1198年(建久9年)12月27日、武蔵国稲毛(川崎市)を領していた稲毛重成が、亡き妻の冥福を祈るために行った「相模川の橋供養」に参列した。
その帰路、鶴嶺八幡宮にさしかかった所で、弟源義経や叔父源行家らの亡霊に現われて頼朝は落馬。そのことが原因で翌年1月13日に亡くなったのだと伝えられている。
鶴嶺八幡宮の大鳥居を入った右側には、後年、里人によって義経一族の霊を慰めるため造ったとされる「弁慶塚」がある。
旧相模川橋脚の碑
旧相模川橋脚は、大正12(1923)年9月1日の関東大震災と翌年1月の余震によって、水田に橋杭が出現した全国的にもまれな遺跡です。当時の歴史学者沼田頼輔によって、鎌倉時代の建久9(1198)年に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証され、大正15(1926)年に国の史跡に指定されました。
旧相模川橋脚は、大正12(1923)年9月1日の関東大震災と翌年1月の余震によって、水田に橋杭が出現した全国的にもまれな遺跡です。当時の歴史学者沼田頼輔によって、鎌倉時代の建久9(1198)年に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証され、大正15(1926)年に国の史跡に指定されました。
番町皿屋敷お菊塚の伝承
皿屋敷怪談は全国に幾つかあり、有名なのは1758年に講釈師の馬場文耕の『皿屋敷弁疑録』が元となった講談ものの「番町皿屋敷」。他にも1720年に大阪で歌舞伎「播州錦皿九枚館」が上演されており、1741年にも大阪で浄瑠璃「播州皿屋敷」が上演されている。
皿屋敷怪談は全国に幾つかあり、有名なのは1758年に講釈師の馬場文耕の『皿屋敷弁疑録』が元となった講談ものの「番町皿屋敷」。他にも1720年に大阪で歌舞伎「播州錦皿九枚館」が上演されており、1741年にも大阪で浄瑠璃「播州皿屋敷」が上演されている。
感想
朝方は風も強く寒かったが、天候に恵まれ途中よりポカポカ陽気になり、景色を楽しみながらハイキングできた。車では数え切れないくらい通っていた道も、歩くことで新たな発見が沢山あった。
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