記録ID: 7470143
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ハイキング
近畿
熊野街道(熊野古道)を行く 8(湯浅〜紀伊内原駅)
2024年11月10日(日) [日帰り]


体力度
2
日帰りが可能
- GPS
- 06:16
- 距離
- 17.6km
- 登り
- 393m
- 下り
- 396m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 5:48
- 休憩
- 0:29
- 合計
- 6:17
距離 17.6km
登り 393m
下り 396m
6:11
120分
スタート地点
12:28
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年11月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
写真
紀文の碑
「江戸時代の豪商「紀伊国屋文左衛門」の顕彰碑。文左衛門は湯浅町別所地区の生まれという説があり、パナソニック株式会社の創業者 松下幸之助氏により奉納された。(湯浅町HP)
「江戸時代の豪商「紀伊国屋文左衛門」の顕彰碑。文左衛門は湯浅町別所地区の生まれという説があり、パナソニック株式会社の創業者 松下幸之助氏により奉納された。(湯浅町HP)
49 東の馬留王子 明治の合祀令により津木八幡神社に合祀
*鹿瀬の峠道が険しくなるため、乗ってきた馬をここにとめたことが由来といわれます。しかし、古い記録にはなく、室町時代以降の王子とされています。
*鹿瀬の峠道が険しくなるため、乗ってきた馬をここにとめたことが由来といわれます。しかし、古い記録にはなく、室町時代以降の王子とされています。
法華檀
*天暦3年(947)天台宗の僧、円善上人が熊野参詣の途次、この峠で客死
円善上人はかねてから法華経六万部読経の誓願をたてていたが、それを果たすことが出来なかった。そのため、遺骨になってしまってからも、舌だけは生きて法華経の読経を続けた。これを発見したのが久安年間(1145〜51)壱叡上人で、その後円善が果てた場所に塚を築いて供養したのが法華壇の始まりである。(広川町教育委員会)
*天暦3年(947)天台宗の僧、円善上人が熊野参詣の途次、この峠で客死
円善上人はかねてから法華経六万部読経の誓願をたてていたが、それを果たすことが出来なかった。そのため、遺骨になってしまってからも、舌だけは生きて法華経の読経を続けた。これを発見したのが久安年間(1145〜51)壱叡上人で、その後円善が果てた場所に塚を築いて供養したのが法華壇の始まりである。(広川町教育委員会)
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