記録ID: 7534931
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ハイキング
京都・北摂
[道調査] 周山街道高鼻町〜高雄病院前付近の取付 全敗
2024年11月27日(水) [日帰り]

体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 03:45
- 距離
- 4.5km
- 登り
- 253m
- 下り
- 241m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 3:45
- 休憩
- 0:00
- 合計
- 3:45
距離 4.5km
登り 253m
下り 241m
10:37
225分
スタート地点
14:22
ゴール地点
天候 | 曇り |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年11月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
バス
このバスは京都外大前まで四条通を西に進む。 混んでいて四条大宮では座れない。 スタート 高鼻町バス停 ゴール 高雄病院前バス停 復路は高雄病院前から西日本JRバスに乗車。1時間あたり2便程度。 千本通〜大宮通を通って京都駅が終着。 混んでいて多くの停留所を満員通過した。高雄病院前では、たまたま1人降りたので乗せてくれたが、降りる人がなければ満員通過したものと思う。 JRバスと市バスを合わせると20分間隔になっているが、経路が大きく異なる。 わたしは四条大宮で降りて四条河原町まで歩いた。 この時期、高雄方面行のバスは混雑するが、営業係数が197なので増発されない。市バスの営業政策で均一運賃区間を広げた為、長距離の路線は満員でも赤字になる。均一運賃は便利で乗りやすいが不合理だ。区間制運賃は合理的だが不便だ。どうしたら良いのか? |
コース状況/ 危険箇所等 |
参考資料です。この付近からの普通と違うルートを考える方には多少参考になるかも知れませんが、普通に歩けるルートの情報を見たい方には無意味です。 最近、西賀茂の山を歩く様になった。そこから西に歩けば宇多野から北方・高雄・梅ケ畑などに出る。 東から歩くと、まだ見知らぬ地域で夕刻が近付く。それは不安なので、西側からも攻略する事にした。 その第一回目。 見知らぬ地域だから、フツーのルートを歩くべきだけど、わたしはそれでは面白くないので、ヤマレコの地図の踏跡の少ない辺りを狙った。この付近はそういう所にyjinさんの足跡が多い。今日の1つ目の試行がそれだった。 全部途中で引き返してルートは完成していないし、良く知らない所でもあるので、詳しいルート説明は出来ない。気付いた事のみ書く。 試行1. 一番南東の試行。高花町バス停付近から。 写真コメントの様に、作業道のyjinさんが取付いた所はわたしには無理だった。 写真の様にその先まで作業道は続いているがフェンスのゲートで一応閉ざされている。しかし、横から入れる状態で立入禁止の告知看板等はない。地図の破線通りに道があるとして、道の終点から北側の尾根を上る事が出来たらちょうどP321に出る。 その他、yjinさんが取付いた所より手前の谷筋などから取付けるかも知れない。 色々まだする事がありそうな作業道だ。 試行2.中間の試行。高尾病院東側進入路入口右手から。 始めの方に大小のトゲトゲの木や、ブリキや金属片などのごみが多い。その後、北部クリーンセンタ−のフェンス沿いになる。右がフェンスで左が崖の急傾斜の所はフェンスを両手で掴めば歩ける。足元は土嚢で補強されている。苦労して登ったが、羊歯が胸までの高さで茂っている所まで行った。ここで、前方を見ると目途が立たない感じなのでやめた。 試行3.一番北西の試行。高尾病院前バス停付近から。 地図に破線の道があるので行ってみた。谷道部分は元は作業道であったと思われる。落下している丸太を並べた橋は幅がある。倒木は多いが普通に通行可能。 尾根に入る部分は地図にある向って左横(主谷の左岸沿い)から稜線に入るルートの他に、右横(右側の支谷の右岸沿い)から稜線に入るルートもあり、左ルートは稜線に入るまで明瞭。右ルートは谷沿いの間は明瞭。 その後尾根を少し登る辺りまでは、昔の道を辿っている様な気がしたが、明確ではない。標高180m辺りから道が判らないうえに、傾斜も激しくなる。強引に登る事は可能。しかしいつまでもこの状態が続くのなら登りたくない。目途が立たない感じなのでやめたが、上側から試行してもよさそうだ。 ただ、上はずっと藪が続くと書かれているのでどうしたものか。 【2024/11/28/10:40追記】 P321をターゲットに地図検索していたので気付いてませんでしたが、funakoshi_yaさんが谷の林道(作業道)の先(地図にない)をそのまま谷の奥の方へ進み、福ケ谷林道(地図に破線)まで通り抜けて、そこから沢ノ池へ歩いておられます。林道の奥から谷をそのまま進めるとは考えてなかったのは手落ち。これは行ってみたいルートだ。行くべきルートだと思う。 試行3からの下山時に、一番上の方の家にお住いのお姉さん(わたしより年上かも知れないのでお姉さんだが、年上でない可能性もある)が、登山口のちびっこ広場のフェンス付近で洗濯物を取り入れておられて、少し話をした。 数年前の台風で大量の倒木が発生するまでは、ここから登山なさる方が多かった(少なくはないと言う意味だろう)そうだ。他の地域で倒木で鉄砲水が心配されている事例など話したら、この谷は急ではないから鉄砲水は心配していないとおっしゃっていた。谷の橋が落下している事もご存じだったので、登山者についての認識も信頼性が高いと思う。家の位置から、山主さんの家族の可能性もある。 【2024/11/28/10:40追記】現在の道の状態からすると、数年前とは言え、お姉さんのお話の登山者がわたしが試みたルートでP321へ向っていたとは考えにくいので、どこか別のルートへ進んでいたんじゃないかと思っていたが、funakoshi_yaさんのルート(福ケ谷林道へ)だったのだろうと思う。 |
写真
今日はここまで。
まだ登れる範囲内だが傾斜がきつい。いつまでもこの傾斜が続くのなら嫌だ。下からはここまでにして、今度は上から降りてみようか。でも、上は藪が続くと言う事なので、止めにしようか…
まだ登れる範囲内だが傾斜がきつい。いつまでもこの傾斜が続くのなら嫌だ。下からはここまでにして、今度は上から降りてみようか。でも、上は藪が続くと言う事なので、止めにしようか…
駒札をGoogleで文字起こしした:
天道神社
加金の天京皇大神を主社と。八田大神
ばれ、山村の国のらずの所(中在 「日ます。)に気をしっね、越百十三年 『てんのう(地主の東京映御を上る付近)に
320のた当時は、組ををはじめ京
天差二年(一五七口」に、織田信長により現 底の地を拝領し三身したが、予現八年(一七八 人の大人で再びどうし。その後は手建修復。
れて現在に至る。
小意为正は、市中島地市会(加过天》章島社在 はじめ、洛陽二十五社天道天滿名,而天能同神 社、八坂社等を祀る。また、理に天白の皇后取 「まる下除の和胞(胎盤」だがあり、これは…
のとき皇后合下を受けらゃたとかこうする
毎年11月3日(神祭り)に開催されます。
十三日の著者 が行われ、今はな 五月十七日のたに学のを三方
これからはみんな家族の一員です。
京都市
天童神社
この院は、まず天照大御神に捧げられた。
天道神社
ここには三種類の柳が祀られており、主なものは伊勢神宮の御門大神であり、同時に初顔大神と春日大神も天童宮と呼ばれていました。山城の国(現京都府長望京市)
天道神社
加金の天京皇大神を主社と。八田大神
ばれ、山村の国のらずの所(中在 「日ます。)に気をしっね、越百十三年 『てんのう(地主の東京映御を上る付近)に
320のた当時は、組ををはじめ京
天差二年(一五七口」に、織田信長により現 底の地を拝領し三身したが、予現八年(一七八 人の大人で再びどうし。その後は手建修復。
れて現在に至る。
小意为正は、市中島地市会(加过天》章島社在 はじめ、洛陽二十五社天道天滿名,而天能同神 社、八坂社等を祀る。また、理に天白の皇后取 「まる下除の和胞(胎盤」だがあり、これは…
のとき皇后合下を受けらゃたとかこうする
毎年11月3日(神祭り)に開催されます。
十三日の著者 が行われ、今はな 五月十七日のたに学のを三方
これからはみんな家族の一員です。
京都市
天童神社
この院は、まず天照大御神に捧げられた。
天道神社
ここには三種類の柳が祀られており、主なものは伊勢神宮の御門大神であり、同時に初顔大神と春日大神も天童宮と呼ばれていました。山城の国(現京都府長望京市)
Googleによる文字起こし:
菅大臣神社
祭神菅原道真公、尼神、犬己貴命
社地は約一千年前天神様すなわち菅原道真公八置~九〇三)の紅、白梅森というお邸や、菅家廊下 と称する学問所の跡で、また公誕生の地と伝え られ境内には産湯の井戸が保存されている。
仏光寺通を中心に南北二町東西一町が当時の お師で公太宰府へ左透に当り東風吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとてきなわすれそ と詠まれた飛梅の地である。神社は公沒後間 もなく創立されたが度々兵火にかっり鎌倉期 には南北両社に分れ当社を天神御所白梅農社 北社を紅梅農社と呼んでいた。応仁の乱後慶 長十九年に菅家ゆかりの曼殊院宮良超法親王 により再興され今日に至っている。この間天 明の大火元治の兵乱で再度焼失するが現本殿 は、天保六年(八玉造立の三間社流造という下鴨 神社の旧殿を明治二年に移築しその後幣殿之 建立していわゆる心械造をなしている。
菅大臣神社
祭神菅原道真公、尼神、犬己貴命
社地は約一千年前天神様すなわち菅原道真公八置~九〇三)の紅、白梅森というお邸や、菅家廊下 と称する学問所の跡で、また公誕生の地と伝え られ境内には産湯の井戸が保存されている。
仏光寺通を中心に南北二町東西一町が当時の お師で公太宰府へ左透に当り東風吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとてきなわすれそ と詠まれた飛梅の地である。神社は公沒後間 もなく創立されたが度々兵火にかっり鎌倉期 には南北両社に分れ当社を天神御所白梅農社 北社を紅梅農社と呼んでいた。応仁の乱後慶 長十九年に菅家ゆかりの曼殊院宮良超法親王 により再興され今日に至っている。この間天 明の大火元治の兵乱で再度焼失するが現本殿 は、天保六年(八玉造立の三間社流造という下鴨 神社の旧殿を明治二年に移築しその後幣殿之 建立していわゆる心械造をなしている。
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