記録ID: 7631992
全員に公開
無雪期ピークハント/縦走
葛城高原・二上山
葛城二十八宿経塚巡行【復刻版】 當麻寺から第26番二上山、第27番 逢坂、関屋越え
2016年05月14日(土) [日帰り]


- GPS
- --:--
- 距離
- 17.1km
- 登り
- 661m
- 下り
- 717m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 5:31
- 休憩
- 1:59
- 合計
- 7:30
9:35
10:00
15分
9:35 大池公園■朝食休憩、スマホ調整 10:00
12:00
12:18
12分
12:00 急坂□昼食休憩 12:18
12:33
2分
12:33 屈曲点
12:35
18分
12:35 林道合流
14:07
14:17
11分
14:07 逢坂コンビニ休憩■14:17
14:28
9分
14:28 関屋旧道分岐
14:37
5分
14:37 ため池
14:42
5分
14:42 関屋頂上
15:08
9分
15:08 関屋北住宅旧道分岐
15:17
4分
15:17 林道終点
15:26
7分
15:26 峠
15:45
15分
15:45 国分本町住宅
16:00
ゴール地点近鉄国分駅
第二十三番倶尸羅から長躯、當麻寺まで来た(昔の記録を使っての話だが・・・)。當麻寺には役行者像が安置されていて、葛城二十八宿経塚巡行を考える契機になったといえるお寺だ。
その當麻寺から岩屋峠に登り、二上山雄岳の経塚にお参りした。良いお天気尾土曜日、新緑の二上山は健康な老若男女で溢れかえっていて、中将姫伝説や大津皇子にまつわる信仰・鎮魂の山であるとともに、「市民スポーツの山」の趣が強く感じられた。
さて、行者さんはどのルートで明神山に至ったか?そのことを考えながら、二上山を東に下山。逢坂を経て、大坂越えで国分に降り立った。
■コースタイム
8:30 近鉄当麻寺 スマホがおかしい
8:50 當麻寺仁王門
9:00 弘法大師堂
9:15 傘堂
9:30 當麻山口神社
9:35 大池公園■朝食休憩、スマホ調整 10:00
10:15 祐泉寺
10:38 岩屋峠・岩屋■休憩10:55
11:12 雌岳
11:18 馬の背
11:35 雄岳、第26番経塚 11:47
---------下山、逢坂
12:00 急坂□昼食休憩 12:18
12:22 水平道
12:25 二上神社道分岐
12:30 六合目
12:33 屈曲点
12:35 林道合流
12:53 登山口■休憩 13:06
13:10 春日神社
13:30 大坂山口神社(穴虫)13:37
13:41 近鉄大阪線二上駅
13:54 大坂山口神社(逢坂)14:01
--------関屋越え
14:07 逢坂コンビニ休憩■14:17
14:28 関屋旧道分岐
14:37 ため池
14:42 関屋頂上
14:47 近鉄関屋駅■休憩14:52
15:00 関屋北住宅地
15:08 旧道分岐
15:17 林道終点
15:19 地点16尾根道合流
15:21 関屋地蔵 15:25
15:26 峠
15:33 果樹園
15:45 国分本町住宅
16:00 近鉄国分駅
-----------------------------------------------------------------------------------
■対応元記事
https://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-298.html
https://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-299.html
https://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-300.html
その當麻寺から岩屋峠に登り、二上山雄岳の経塚にお参りした。良いお天気尾土曜日、新緑の二上山は健康な老若男女で溢れかえっていて、中将姫伝説や大津皇子にまつわる信仰・鎮魂の山であるとともに、「市民スポーツの山」の趣が強く感じられた。
さて、行者さんはどのルートで明神山に至ったか?そのことを考えながら、二上山を東に下山。逢坂を経て、大坂越えで国分に降り立った。
■コースタイム
8:30 近鉄当麻寺 スマホがおかしい
8:50 當麻寺仁王門
9:00 弘法大師堂
9:15 傘堂
9:30 當麻山口神社
9:35 大池公園■朝食休憩、スマホ調整 10:00
10:15 祐泉寺
10:38 岩屋峠・岩屋■休憩10:55
11:12 雌岳
11:18 馬の背
11:35 雄岳、第26番経塚 11:47
---------下山、逢坂
12:00 急坂□昼食休憩 12:18
12:22 水平道
12:25 二上神社道分岐
12:30 六合目
12:33 屈曲点
12:35 林道合流
12:53 登山口■休憩 13:06
13:10 春日神社
13:30 大坂山口神社(穴虫)13:37
13:41 近鉄大阪線二上駅
13:54 大坂山口神社(逢坂)14:01
--------関屋越え
14:07 逢坂コンビニ休憩■14:17
14:28 関屋旧道分岐
14:37 ため池
14:42 関屋頂上
14:47 近鉄関屋駅■休憩14:52
15:00 関屋北住宅地
15:08 旧道分岐
15:17 林道終点
15:19 地点16尾根道合流
15:21 関屋地蔵 15:25
15:26 峠
15:33 果樹園
15:45 国分本町住宅
16:00 近鉄国分駅
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■対応元記事
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https://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-299.html
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過去天気図(気象庁) | 2016年05月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
写真
とりあえず、本堂にお参りする。本堂は曼荼羅堂で、以前、見学したので中には入らない。中将姫手織り伝説の「當麻曼荼羅」がご本尊であるが、実際は写本の「文亀曼荼羅(重文)」が祀られている。
係の人が大勢出てきて、何か準備をしている。
係の人が大勢出てきて、何か準備をしている。
これはなんじゃ?山門近くの広場から本堂まで、ゆったりとしたスロープの橋が架けられている。
調べてみると、「練供養会式」というらしい。當麻寺春の大祭で、観音菩薩、勢至菩薩ら二十五菩薩が、現世に里帰りした中将姫を迎えて、極楽へ導くという儀式とのこと。橋は来迎橋というらしい。詳しくは、http://www.taimadera.org/news/event12.html
調べてみると、「練供養会式」というらしい。當麻寺春の大祭で、観音菩薩、勢至菩薩ら二十五菩薩が、現世に里帰りした中将姫を迎えて、極楽へ導くという儀式とのこと。橋は来迎橋というらしい。詳しくは、http://www.taimadera.org/news/event12.html
これが金堂。
昔、街道歩きを始めた頃、竹内街道を歩き終えて、その当時、折口信夫の「死者の書」を読み終えたところで、ぜひ當麻寺へ行ってみないと、ということで寄ってみたのだ。本堂の曼荼羅は見たが、暗くてあまりよく分からなかった。ならば、金堂の仏像でも見とくか・・・とて、見に行ったものだ。当時もさして信心深い訳でなく、ましてや仏像の審美眼など持ち合わせていないので、「でも」つきの見学だった。ところが、びっくり!弥勒菩薩(国宝・白鳳時代)と周囲を守護する四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)が手で触れるくらい目の前で(さわっちゃあかんよ)実にリアル。普通この手の仏像は、遠くの方にあり、金網かガラスで囲ってあるので、いかにも展示仏という感じが先に来てリアリティがないのだ。それが、目の前て!
一通りみて、脇にあった小部屋を覗いてまたびっくり!そこには役行者と弘法大師の像が並べてあったのだ。人間の背丈よりかなり大きい、それも1mほどの目の前に。思わずへたり込んだのだった。美術的価値は横の四天王の方が高いと思うが、それ以上の衝撃だった。年を経て、葛城二十八宿経塚巡行などをやっているのも、この経験が大きな契機となっているように思う。
昔、街道歩きを始めた頃、竹内街道を歩き終えて、その当時、折口信夫の「死者の書」を読み終えたところで、ぜひ當麻寺へ行ってみないと、ということで寄ってみたのだ。本堂の曼荼羅は見たが、暗くてあまりよく分からなかった。ならば、金堂の仏像でも見とくか・・・とて、見に行ったものだ。当時もさして信心深い訳でなく、ましてや仏像の審美眼など持ち合わせていないので、「でも」つきの見学だった。ところが、びっくり!弥勒菩薩(国宝・白鳳時代)と周囲を守護する四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)が手で触れるくらい目の前で(さわっちゃあかんよ)実にリアル。普通この手の仏像は、遠くの方にあり、金網かガラスで囲ってあるので、いかにも展示仏という感じが先に来てリアリティがないのだ。それが、目の前て!
一通りみて、脇にあった小部屋を覗いてまたびっくり!そこには役行者と弘法大師の像が並べてあったのだ。人間の背丈よりかなり大きい、それも1mほどの目の前に。思わずへたり込んだのだった。美術的価値は横の四天王の方が高いと思うが、それ以上の衝撃だった。年を経て、葛城二十八宿経塚巡行などをやっているのも、この経験が大きな契機となっているように思う。
弘法大師堂。ここも2回めだ。
さてこれから岩屋に向かう。
9:00、これから登りだ、といっても祐泉寺まではダラダラ登りで急坂はない。ダラダラと登ってゆくが、今日の祭礼のため、ガードマンが多数配置されている。駐車場も一杯になるんだろう。
さてこれから岩屋に向かう。
9:00、これから登りだ、といっても祐泉寺まではダラダラ登りで急坂はない。ダラダラと登ってゆくが、今日の祭礼のため、ガードマンが多数配置されている。駐車場も一杯になるんだろう。
公園にて休憩(9:35−10:00)
ここはトイレあり、東屋あり。ゆったり休憩できる。ここで朝食がてらスマホをいじる。結局、SIMカードを抜き差しして、通信は可能になったが・・・・この先どうなるか?
ここはトイレあり、東屋あり。ゆったり休憩できる。ここで朝食がてらスマホをいじる。結局、SIMカードを抜き差しして、通信は可能になったが・・・・この先どうなるか?
第2の水場(10:30)
この道は、すぐ南にある竹内街道とともに、大和から河内、大坂に至る重要な街道であったらしい。明治期に竹内峠が開削されて、今は広い道になっているが、昔は、竹内道に勝るとも劣らないほどの人通りがあったらしい。快適な登り道だ。
この道は、すぐ南にある竹内街道とともに、大和から河内、大坂に至る重要な街道であったらしい。明治期に竹内峠が開削されて、今は広い道になっているが、昔は、竹内道に勝るとも劣らないほどの人通りがあったらしい。快適な登り道だ。
快適と思っていたか、峠の手前は急坂で息が切れた。ようやく岩屋峠(10:38)
ちょうどベンチで休憩していたおじさんとしゃべりながら、とりあえず休憩。ここまでくると俄然人通りが多くなる。今まで當麻寺からのコースで出合った(大池で休憩中に先に行った)人は4組、10人ほどだっただ、大阪側から登ってくる人、雌岳から降りてくる人、ダイトレを行く人、それも老若男女とりまぜで多彩な人が歩いている。
ちょうどベンチで休憩していたおじさんとしゃべりながら、とりあえず休憩。ここまでくると俄然人通りが多くなる。今まで當麻寺からのコースで出合った(大池で休憩中に先に行った)人は4組、10人ほどだっただ、大阪側から登ってくる人、雌岳から降りてくる人、ダイトレを行く人、それも老若男女とりまぜで多彩な人が歩いている。
岩屋に行ってみた(10:45)。確かに岩屋だ。
三井寺「修験の道」サイトでは、この岩屋も第26番の経塚候補とされていた。
http://www.shiga-miidera.or.jp/blog/katsuragi28.html(リンク切れ、削除?)
三井寺「修験の道」サイトでは、この岩屋も第26番の経塚候補とされていた。
http://www.shiga-miidera.or.jp/blog/katsuragi28.html(リンク切れ、削除?)
10:55に雌岳に登りはじめて、後ろから追い掛けるようにして登ってくるもんだから、葛城山系の写真も撮れなかった。ジグザグに登って、雌岳着(11:12) ところが、山頂はお昼にしている人で一杯。ベンチはカンカン照りの場所しか空いてなかった。やむなく通過。
宮内庁によってきちんと祀られている。
11:47、下山を始める。
どうも、今日は経塚巡行というより、二上山ハイキングの要素が強かった。それに経塚ハンターに寄って行ってる気がしてきた。ちょっと気をつけねば・・・
11:47、下山を始める。
どうも、今日は経塚巡行というより、二上山ハイキングの要素が強かった。それに経塚ハンターに寄って行ってる気がしてきた。ちょっと気をつけねば・・・
二上山の経塚をお参りして、行者さんはどこに降りたというのが問題になってくる。考えられるコースは・・・・
A:ダイトレ準拠で西に降りれば、穴虫峠−どんずる峰ー田尻ー関屋地蔵ー明神山
B:東に降りれば、加守・二上神社でも畑・春日神社でも逢坂の経塚−関屋ー田尻経由で関屋地蔵、または直接、関屋地蔵ー明神山
となるだろう。田尻峠の開削は明治以後だから、逢坂から田尻峠ー田尻というのは昔はなかっただろう。
今回は東に降りて、穴虫と逢坂の大坂山口神社にお参りして、第27番経塚をかすめ、関屋に向かうことにした。
11:47、下山開始。町石だろうか点々と現れる。
A:ダイトレ準拠で西に降りれば、穴虫峠−どんずる峰ー田尻ー関屋地蔵ー明神山
B:東に降りれば、加守・二上神社でも畑・春日神社でも逢坂の経塚−関屋ー田尻経由で関屋地蔵、または直接、関屋地蔵ー明神山
となるだろう。田尻峠の開削は明治以後だから、逢坂から田尻峠ー田尻というのは昔はなかっただろう。
今回は東に降りて、穴虫と逢坂の大坂山口神社にお参りして、第27番経塚をかすめ、関屋に向かうことにした。
11:47、下山開始。町石だろうか点々と現れる。
10分ほどで快適な道も終わって、急坂が始まった。ちょっと登りはきつそうだが、それでも大勢の方が登ってくる。後日、明治期の古い地図を見てみると、破線の二重線の道で、二上山への主参道のように思えた。
ちょうどお昼だし、通行人も少なくなってきたので、急坂途中のちょっとした平坦地で昼食とした。
休憩地にて下り方向写真、結構な坂道だ。
ちょうどお昼だし、通行人も少なくなってきたので、急坂途中のちょっとした平坦地で昼食とした。
休憩地にて下り方向写真、結構な坂道だ。
12:25、道が東隣りの尾根に乗るとすぐに分岐があった。
右は加守の二上神社に降りる。明治の地図を見るかぎり、こちらのほうがメイン道路だ。今回は左にいくが、明治の地図ではこちらのほうは破線路だ。今はどちらでもよいのだが、左のほうが谷におりることと、逢坂に近いのではないかと・・・ただそれだけ。
右は加守の二上神社に降りる。明治の地図を見るかぎり、こちらのほうがメイン道路だ。今回は左にいくが、明治の地図ではこちらのほうは破線路だ。今はどちらでもよいのだが、左のほうが谷におりることと、逢坂に近いのではないかと・・・ただそれだけ。
12:41、林道が左手西側から合わさってきた。雄岳の北の尾根から下ってきた道かと思う。最初はここに降りてくることも考えていた。
相当きれいな道だ。ゴミ一つ落ちていない。大事にされているんだろう。
相当きれいな道だ。ゴミ一つ落ちていない。大事にされているんだろう。
春日神社を過ぎると、そこには(新)(旧)長尾街道があった。ここで新旧がクロスしている。
行者さんが二上山の東に降りた理由は、この(旧)長尾街道に入ってから大坂越えの峠から明神山に登ったのではないかと、いつも参考にさせていただいている「山歩仲間」さんのサイトでは言われている。今回はその説に沿って歩いているのだ。
http://uo-shinji.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_2e10.html
要するに、鎌倉初期の巡行記録、諸山縁起では、大坂の隣下(とうげ)(付近に)経塚があるとされている。そのためには(旧)長尾街道に入った。さらに、幕末の葛嶺雑記では、村中(逢坂のことか?)に経塚があるとされ、そうならばやはり二上山の東の(旧)長尾街道に入ることになる。
そもそも、大和からみて二上山以北の「大坂の峠」「大坂越え」は3つある。大坂越えも河内からみると、大和街道であったり伊勢街道であったりするのだが。
1.穴虫越え:逢坂ー穴虫−穴虫峠ー太子で竹内街道ー飛鳥ー古市
2.田尻峠越:逢坂ー田尻峠ー田尻−田辺・国分(新長尾街道)
3.関屋越え:逢坂−関屋ー関屋越・関屋地蔵ー国分(旧長尾街道、大和街道長谷道)
または関屋で分岐して、田尻ー田辺・国分(新長尾街道に接続、田尻から谷道)
以下のサイトに準拠して、長谷道を赤線で、長尾街道を緑線で示した。
大和街道長谷道(関屋越え):http://www.k3.dion.ne.jp/~kawatino/wark/hase/pages/haseGKasi.htm
(新)長尾街道(田尻峠越え):http://www.k3.dion.ne.jp/~kawatino/wark/nagao/pages/nagaoGKasi.htm
※以上2件リンク切れ、または削除
長谷道に入ると、いかにも街道筋らしい風情がしてきたが、暑いなか大坂山口神社に急いでいたし、歩いている道が長谷道であると知ったのは事後だったので、写真はなし。いい感じの街道だった。
行者さんが二上山の東に降りた理由は、この(旧)長尾街道に入ってから大坂越えの峠から明神山に登ったのではないかと、いつも参考にさせていただいている「山歩仲間」さんのサイトでは言われている。今回はその説に沿って歩いているのだ。
http://uo-shinji.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_2e10.html
要するに、鎌倉初期の巡行記録、諸山縁起では、大坂の隣下(とうげ)(付近に)経塚があるとされている。そのためには(旧)長尾街道に入った。さらに、幕末の葛嶺雑記では、村中(逢坂のことか?)に経塚があるとされ、そうならばやはり二上山の東の(旧)長尾街道に入ることになる。
そもそも、大和からみて二上山以北の「大坂の峠」「大坂越え」は3つある。大坂越えも河内からみると、大和街道であったり伊勢街道であったりするのだが。
1.穴虫越え:逢坂ー穴虫−穴虫峠ー太子で竹内街道ー飛鳥ー古市
2.田尻峠越:逢坂ー田尻峠ー田尻−田辺・国分(新長尾街道)
3.関屋越え:逢坂−関屋ー関屋越・関屋地蔵ー国分(旧長尾街道、大和街道長谷道)
または関屋で分岐して、田尻ー田辺・国分(新長尾街道に接続、田尻から谷道)
以下のサイトに準拠して、長谷道を赤線で、長尾街道を緑線で示した。
大和街道長谷道(関屋越え):http://www.k3.dion.ne.jp/~kawatino/wark/hase/pages/haseGKasi.htm
(新)長尾街道(田尻峠越え):http://www.k3.dion.ne.jp/~kawatino/wark/nagao/pages/nagaoGKasi.htm
※以上2件リンク切れ、または削除
長谷道に入ると、いかにも街道筋らしい風情がしてきたが、暑いなか大坂山口神社に急いでいたし、歩いている道が長谷道であると知ったのは事後だったので、写真はなし。いい感じの街道だった。
裏手にある石碑の一つには、「檀特山」と彫られていた。檀特山とはインド仏教の修行の地であるそうで、檀特山を山号とするお寺もあった。千葉県だったけど。
ここにそういうお寺でもあったのだろうか?はあー、池の横のお堂がお寺なのか!明治期の古い地図ではちょうどここに卍マークがあった。
付近を地図でみてみると、背後はなだらかな丘陵になっていて、低い丘を縫うように小径が走って、峠を越えている。なかなか楽しそうな地形だ。古い地図では「馬場」という在所になっていたが、新しい地図では「穴虫東」だと!なんと事務的な!
ここにそういうお寺でもあったのだろうか?はあー、池の横のお堂がお寺なのか!明治期の古い地図ではちょうどここに卍マークがあった。
付近を地図でみてみると、背後はなだらかな丘陵になっていて、低い丘を縫うように小径が走って、峠を越えている。なかなか楽しそうな地形だ。古い地図では「馬場」という在所になっていたが、新しい地図では「穴虫東」だと!なんと事務的な!
昔から相撲の盛んな土地柄であったらしい。地区ごと、お宮さんごとに、「組」を作って、奉納相撲が行われていたようだ。軍配デザインの馬場組石碑が建っていた。名前は歴代行司の名前だとか。
二上山博物館メールマガジン:http://www.city.kashiba.lg.jp/kurashi/0000001022.html?pc(リンク切れ、削除?)
このメールマガジンを読んでいたら、背後の山は、「穴虫峠越えの字「宮山」と称する丘陵の東端部中腹に鎮座する。」どうもこの一帯の高みが穴虫峠越えという書きぶりである。たしかに、大坂山口神社から馬場の集落を通って、宮山の南へりをまわる小径をとると、穴虫西墓地の池あたりが峠の頂上らしい高みになっている。その道は(新)長尾街道に吸収され、さらにゆるやかに登って二股に至り、田尻峠もしくは国境の穴虫峠に至る。これからすると、国境の穴虫峠だけを考えなくても、馬場からの登りを含めてが穴虫越えと理解すればよいのだろう。ということは、この馬場も「大坂の隣下」、あるいはその登り口としてよいのだろう。
他の参考サイト:大坂越え
http://kashiba-city.net/wiki/wiki.cgi/sekki?page=%286%29%C2%E7%BA%E4%B1%DB%A4%A8%A4%CE%C6%BB リンク切れ、削除?
二上山博物館メールマガジン:http://www.city.kashiba.lg.jp/kurashi/0000001022.html?pc(リンク切れ、削除?)
このメールマガジンを読んでいたら、背後の山は、「穴虫峠越えの字「宮山」と称する丘陵の東端部中腹に鎮座する。」どうもこの一帯の高みが穴虫峠越えという書きぶりである。たしかに、大坂山口神社から馬場の集落を通って、宮山の南へりをまわる小径をとると、穴虫西墓地の池あたりが峠の頂上らしい高みになっている。その道は(新)長尾街道に吸収され、さらにゆるやかに登って二股に至り、田尻峠もしくは国境の穴虫峠に至る。これからすると、国境の穴虫峠だけを考えなくても、馬場からの登りを含めてが穴虫越えと理解すればよいのだろう。ということは、この馬場も「大坂の隣下」、あるいはその登り口としてよいのだろう。
他の参考サイト:大坂越え
http://kashiba-city.net/wiki/wiki.cgi/sekki?page=%286%29%C2%E7%BA%E4%B1%DB%A4%A8%A4%CE%C6%BB リンク切れ、削除?
由緒など
これだけではちょっと捕らえどころがなく、いろいろ調べると・・・、
崇神天皇の頃からあるというので、恐れ入る!
奈良県立橿原考古学研究所友史会のサイトをみると、
http://www.kashikoken-yushikai.org/index.php/blog/reikai0512(リンク切れ、削除?)
・・・「大坂道」は飛鳥時代に拓かれた竹内越より古く、日本書紀の崇神9年3月条に、天皇が(大和の西の守護神として)「大坂神」を祭ったとの記事があります。「大坂神」は「大坂山口神社」(延喜式内社)とされていますが、同名の神社が大字穴虫と逢坂にあり、どちらが「大坂神」にあたるかは決定されておらず・・・
まあ、穴虫も逢坂も距離がさほど離れている訳でないので、逢坂の大坂山口神社も大坂神でもよいだろう。地域の発展で分社したという話もどこかのサイトに載っていのもあるし。
さらに見て行くと、・・・「大坂道は竹田川の谷筋沿いが古道に推定されており、「大坂関」の位置がまだ特定されていない。千田稔説や小泉俊夫説の候補地がある。大西先生は例会報に、竹田川の谷西端の穴虫越と田尻越との分岐点付近が地形から相応しいのではと記されている。」・・・
仮説にせよ、「大坂越え」がだいたい分かってきたのではないか。そうすると、その昔、経塚があったとする大坂の隣下(とうげ)もだいたい分かってきて、経塚は峠の上にあったのか、麓にあったのか分からないものの、この近辺(穴虫か逢坂)にあったということでよいのではないか?従って、昔の行者さんもこの辺りを通っているはずだ。
これだけではちょっと捕らえどころがなく、いろいろ調べると・・・、
崇神天皇の頃からあるというので、恐れ入る!
奈良県立橿原考古学研究所友史会のサイトをみると、
http://www.kashikoken-yushikai.org/index.php/blog/reikai0512(リンク切れ、削除?)
・・・「大坂道」は飛鳥時代に拓かれた竹内越より古く、日本書紀の崇神9年3月条に、天皇が(大和の西の守護神として)「大坂神」を祭ったとの記事があります。「大坂神」は「大坂山口神社」(延喜式内社)とされていますが、同名の神社が大字穴虫と逢坂にあり、どちらが「大坂神」にあたるかは決定されておらず・・・
まあ、穴虫も逢坂も距離がさほど離れている訳でないので、逢坂の大坂山口神社も大坂神でもよいだろう。地域の発展で分社したという話もどこかのサイトに載っていのもあるし。
さらに見て行くと、・・・「大坂道は竹田川の谷筋沿いが古道に推定されており、「大坂関」の位置がまだ特定されていない。千田稔説や小泉俊夫説の候補地がある。大西先生は例会報に、竹田川の谷西端の穴虫越と田尻越との分岐点付近が地形から相応しいのではと記されている。」・・・
仮説にせよ、「大坂越え」がだいたい分かってきたのではないか。そうすると、その昔、経塚があったとする大坂の隣下(とうげ)もだいたい分かってきて、経塚は峠の上にあったのか、麓にあったのか分からないものの、この近辺(穴虫か逢坂)にあったということでよいのではないか?従って、昔の行者さんもこの辺りを通っているはずだ。
経塚代わりに、逢坂の大坂山口神社境内にあった木の根を載せておく。
橿原考古学研究所友史会の記事で、大坂越・大坂道がすっきりして、昔の経塚の位置もどうやらすっきりしてきた。行者さんもとりあえずは穴虫か逢坂を通ったんだろう。それから、新長尾街道に郷r註して田尻峠越えで田尻、明神山へと至った。新長尾街道・田尻峠は明治以後の話だが、それまでも生活道や間道くらいはあっただろう。
それ以前は、穴虫や逢坂から新長尾街道を行かずに旧長尾街道(大和街道・長谷みち)をいったのではないか。これが次のテーマになる。
橿原考古学研究所友史会の記事で、大坂越・大坂道がすっきりして、昔の経塚の位置もどうやらすっきりしてきた。行者さんもとりあえずは穴虫か逢坂を通ったんだろう。それから、新長尾街道に郷r註して田尻峠越えで田尻、明神山へと至った。新長尾街道・田尻峠は明治以後の話だが、それまでも生活道や間道くらいはあっただろう。
それ以前は、穴虫や逢坂から新長尾街道を行かずに旧長尾街道(大和街道・長谷みち)をいったのではないか。これが次のテーマになる。
逢坂から関屋越えで国分に向かう。
ここでは、行者さんは第二十六番二上山からどこを歩いて明神山に登ったのだろうか?というのを問題にしている。一時は、二上山から旧ダイトレ−今の穴虫峠−どんづる峰ー田尻を歩くのかと思っていたら、そう考えなくてもよいように思えてきた。大坂越えは北から関屋越え、田尻峠、穴虫峠が主なルートだが、それらの峠のピンポイントでなく、それ以東南の「高み」も含めての大坂越えという概念があり、古代の大坂関も確定はできていないが、ピンポイント峠よりも東だったらしいという記事もあった。
それに従い、今回は、逢坂から(旧)長尾街道・長谷道に入り、関屋越えをしてみる。結果、関屋越えの峠に前に、立派な坂を登って峠である関屋集落に至るのだった。
お天気なのはいいのだが、樹木がないと暑い!たまらずコンビニで休憩し、再出発(14:17)
河内街道(長谷みち)・旧長尾街道から外れているので、修復する。多分あれが、関屋から別れてきた伊勢街道。これを伝って行くと、関屋の前で長谷みちに合流するはずだ。
ここでは、行者さんは第二十六番二上山からどこを歩いて明神山に登ったのだろうか?というのを問題にしている。一時は、二上山から旧ダイトレ−今の穴虫峠−どんづる峰ー田尻を歩くのかと思っていたら、そう考えなくてもよいように思えてきた。大坂越えは北から関屋越え、田尻峠、穴虫峠が主なルートだが、それらの峠のピンポイントでなく、それ以東南の「高み」も含めての大坂越えという概念があり、古代の大坂関も確定はできていないが、ピンポイント峠よりも東だったらしいという記事もあった。
それに従い、今回は、逢坂から(旧)長尾街道・長谷道に入り、関屋越えをしてみる。結果、関屋越えの峠に前に、立派な坂を登って峠である関屋集落に至るのだった。
お天気なのはいいのだが、樹木がないと暑い!たまらずコンビニで休憩し、再出発(14:17)
河内街道(長谷みち)・旧長尾街道から外れているので、修復する。多分あれが、関屋から別れてきた伊勢街道。これを伝って行くと、関屋の前で長谷みちに合流するはずだ。
ここからは本当の下りになる。集落はまだ続いているが、関屋の中心部は峠の上だった。ここからいったん下って、先にみえる鉄塔の尾根のスソ(多分、左側鉄塔の下あたり)を越えるのが関屋越えだ。
いったん近鉄関屋駅まで下って行って休憩(14:47-14:52)。
関屋越えの峠の手前の小峠に、集落が発達史、「関屋」という地名がついているのが気になるが・・・関所という話は聞かない。
明治十三年に、田尻嶺が開削されて、いまの田尻峠になり、河内−大和の交通、物資運搬は田尻峠越えに集中したというが、それ以前は関屋経由で田尻というルートもかなり使われたのではないか?
いったん近鉄関屋駅まで下って行って休憩(14:47-14:52)。
関屋越えの峠の手前の小峠に、集落が発達史、「関屋」という地名がついているのが気になるが・・・関所という話は聞かない。
明治十三年に、田尻嶺が開削されて、いまの田尻峠になり、河内−大和の交通、物資運搬は田尻峠越えに集中したというが、それ以前は関屋経由で田尻というルートもかなり使われたのではないか?
15:04、団地の外周道路に入って、右手の谷から道が上がってきた。昔の街道の名残かと思われる、団地造成や、畑で位置は変わってはいると思うが、昔の街道筋と良く似たところを走っている。
15:24、関屋地蔵尊。
初瀬の人が交通安全のため奉納したと伝えられていて、お花はちゃんとお供えされているが、幟などはちょっとくたびれてきたかな。
https://www.city.kashiba.lg.jp/kanko/cmsfiles/contents/0000000/801/files009136.pdf(リンク切れ、削除?)
初瀬の人が交通安全のため奉納したと伝えられていて、お花はちゃんとお供えされているが、幟などはちょっとくたびれてきたかな。
https://www.city.kashiba.lg.jp/kanko/cmsfiles/contents/0000000/801/files009136.pdf(リンク切れ、削除?)
お顔はもうつるつる。
葛城二十七宿経塚巡行の道としては、二十七番逢坂から二十八番明神山・亀ノ背への区切りとなる地点だ。行者さんは関や経由でここにきて、明神山に登ったのだろう。もっとも、関屋から田尻まできて、尾根づたいまたは谷伝いに来るとか、関屋を通らずに、穴虫−田尻峠(田尻峠開削前であっても、峠道くらいはあっただろう)−田尻−関屋地蔵も当然あっただろう。
今の穴虫峠も昔の大坂越えの有力な想定地とされているようなので、穴虫峠−どんづる峰−田尻ルートもあったかも知れないが、ボクの中ではずいぶん優先順位が低くなってしまった。穴虫峠を通ったとして、逢坂の二十七番経塚は遠すぎる。移設したとしてもだ。それに、大坂越えや大坂山は、ピンポイントの穴虫峠、田尻峠、関屋峠でなくても、大坂神たる大坂山口神社の北方背後に広がる丘陵地帯も含める、という考えもあるので、その昔、経塚があったとする大坂の隣下(とうげ)とは、やはり大坂山口神社近辺あるいは背後に広がる丘陵地帯と考えてもよいだろうと思えたのだった。
葛城二十七宿経塚巡行の道としては、二十七番逢坂から二十八番明神山・亀ノ背への区切りとなる地点だ。行者さんは関や経由でここにきて、明神山に登ったのだろう。もっとも、関屋から田尻まできて、尾根づたいまたは谷伝いに来るとか、関屋を通らずに、穴虫−田尻峠(田尻峠開削前であっても、峠道くらいはあっただろう)−田尻−関屋地蔵も当然あっただろう。
今の穴虫峠も昔の大坂越えの有力な想定地とされているようなので、穴虫峠−どんづる峰−田尻ルートもあったかも知れないが、ボクの中ではずいぶん優先順位が低くなってしまった。穴虫峠を通ったとして、逢坂の二十七番経塚は遠すぎる。移設したとしてもだ。それに、大坂越えや大坂山は、ピンポイントの穴虫峠、田尻峠、関屋峠でなくても、大坂神たる大坂山口神社の北方背後に広がる丘陵地帯も含める、という考えもあるので、その昔、経塚があったとする大坂の隣下(とうげ)とは、やはり大坂山口神社近辺あるいは背後に広がる丘陵地帯と考えてもよいだろうと思えたのだった。
撮影機器:
感想
今回も有意義な巡行ができた。
逢坂では経塚は見られなかったが、大坂山、大坂越えはピンポイントの穴虫峠、田尻峠、関屋峠でなく、大坂神を祭られたという大坂山口神社に背後に広がる丘陵地帯からも含めての「大坂山、大坂越え」という概念に触れることができた。そうならば、昔の行者さんは二上山から東に降りて、二十七経塚のある「大坂の隣下(とうげ)」であったと思われる穴虫または逢坂に至り、そこから「大坂越え」で関屋地蔵に至ったのだと思うのである。
大坂越え、大阪山について参考文献をあげておこう。
石器のふるさと香芝 「大坂越え道」
橿原考古学研究所 有史会 2005年12月例会 『大坂道・大坂越えを探る』
石器のふるさと香芝 「街道の変遷と鉄道の開通」
※以上3件リンク切れまたは削除
都市文化研究11号、2009年 P131 東アジアと日本古代都城をつなぐ道を探る(研究会)
大坂山についてちょっと興味が出てきたので、もう一度いくかも?
■引用先のリンク切れ、削除多数。個人のものは別にして、公的なもの、準公的なものは再リンク先を明示するとか、間違いがあったら修正するとかしてほしいですね!
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当方が初めて訪問したのも、2016年の5月でした。奇遇ですね。
https://maps.app.goo.gl/LkiEvVQDreCspZ6D6
グーグル・マップに当時の様子をとどめています。この頃すでにのぼり旗は、ボロボロでしたが、今ではその痕跡もありません。
コメントありがとうございます。
同時期でしたか。関屋のお地蔵さん写真みせていただきました。この頃はまだgpsログを取ってなかったので手書きルートで記事を復刻中です。大坂越えに興味を持った頃で、あと1回復刻版を考え中です。ではまた
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