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ハイキング
丹沢
仏果山と三増合戦古戦場巡り
2025年02月06日(木) [日帰り]


- GPS
- --:--
- 距離
- 23.8km
- 登り
- 1,368m
- 下り
- 1,367m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 7:45
- 休憩
- 0:15
- 合計
- 8:00
天候 | 快晴。 出発時の気温零下5度。 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2025年02月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
24時間開放。トイレは隣の運動公園。 |
コース状況/ 危険箇所等 |
4日前に降った雪が高取山北側に残っていましたが、滑り止めは不要でした。 総じて危険個所はありません。 |
写真
感想
火坂雅志さんの遺作「北条五代」を読んで以来、三増合戦場跡を訪れたいと思っていました。天気が良いので仏果山と組み合わせて歩いてみました。
時は、約450年前の1569年10月8日。
川中島の戦いが収束した武田信玄は2万の軍勢を率いて後北条氏三代目の北条氏康の小田原城へ。城を包囲したものの、難攻不落の小田原城を落とせず、甲斐に撤退します。
甲斐への途上、三増(みませ)で武田軍を待ち受けていたのが、甲州街道守備軍の北条氏照、及び秩父方面守備軍の北条氏邦の2万の軍勢。
北条軍が三増の地で陣を張っていることを察知した信玄は、自軍を3つに分けて進軍させます。
合戦の序盤は、北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃により、武田軍左翼の侍大将・浅利信種(箕輪城代)が撃たれるなど、北条軍が有利に展開。
しかし、武田軍の山県昌景率いる5千の遊軍が志田峠方面から奇襲に出ると戦況は一変。
史書「甲陽軍艦」によると、北条方3,269人、武田方900人の戦死者を出し、武田軍は甲斐国へ帰還を果たしました。
戦国時代最大規模の山岳戦として伝えられています。
それにしても、この周辺は産廃サイトが多いですね。
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こんにちは。
4日前の湿り気と、当日の冷え込みで、ぐっと成長していました
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