記録ID: 7754204
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ハイキング
京都・北摂
歩いて覚える ”ちょっと気になる神社”
2025年01月31日(金) [日帰り]


- GPS
- 03:12
- 距離
- 11.9km
- 登り
- 52m
- 下り
- 39m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2025年01月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
写真
なぜ元祇園?
なるほど
「貞観時代、京都に疫病が流行したため、牛頭天王(神仏分離令後はスサノヲノミコト)を、播磨国から祇園八坂の地に勧請、鎮疫祭を行った。この途上、梛の森にて神輿を休め、分霊をこの地に置いた。これがのちの梛神社である。またここから東へ遷御する際に、地元の住民が風流傘(ふりゅうがさ)を立て、鉾を振って楽を囃しながら神輿を八坂へ送ったとされ、これが祇園会の傘鉾の起源であると言われる。梛神社のことを元祇園と呼ぶのは、この経緯に由来する」
なるほど
「貞観時代、京都に疫病が流行したため、牛頭天王(神仏分離令後はスサノヲノミコト)を、播磨国から祇園八坂の地に勧請、鎮疫祭を行った。この途上、梛の森にて神輿を休め、分霊をこの地に置いた。これがのちの梛神社である。またここから東へ遷御する際に、地元の住民が風流傘(ふりゅうがさ)を立て、鉾を振って楽を囃しながら神輿を八坂へ送ったとされ、これが祇園会の傘鉾の起源であると言われる。梛神社のことを元祇園と呼ぶのは、この経緯に由来する」
京都ミュージアムロードのスタンプを押しました
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/dbc6dca87f119015741f320a15cd3b39
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豊国神社
(東山区大和大路通正面茶屋町)
祭神 豊臣秀吉
通称は「ホウコクさん」。
慶長三年(一五九八)に亡くなった秀吉の遺体を東山の阿弥陀ヶ峯に葬り、翌年には広壮な社殿がその山腹に創建された。
朝廷より豊国大明神の神号を賜わり、同九年の秀吉の七回忌には盛大な臨時祭礼が行われた。
その様子は「豊国臨時祭礼図屏風」(狩野内膳筆・重要文化財)に詳細に描かれている。
豊臣氏減亡後は荒廃していたが、明治元年(一八六八)に新日吉神宮(↓73頁)の神楽殿を仮拝殿として再輿され、同十三年に旧方広寺大仏殿境内に社殿を造営した。
唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝える。
(京都検定テキスト)
(東山区大和大路通正面茶屋町)
祭神 豊臣秀吉
通称は「ホウコクさん」。
慶長三年(一五九八)に亡くなった秀吉の遺体を東山の阿弥陀ヶ峯に葬り、翌年には広壮な社殿がその山腹に創建された。
朝廷より豊国大明神の神号を賜わり、同九年の秀吉の七回忌には盛大な臨時祭礼が行われた。
その様子は「豊国臨時祭礼図屏風」(狩野内膳筆・重要文化財)に詳細に描かれている。
豊臣氏減亡後は荒廃していたが、明治元年(一八六八)に新日吉神宮(↓73頁)の神楽殿を仮拝殿として再輿され、同十三年に旧方広寺大仏殿境内に社殿を造営した。
唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝える。
(京都検定テキスト)
方広寺大仏殿跡
(東山区茶屋町)
豊国神社本殿裏に大仏殿跡緑地公園が整備されており、この辺りに豊臣秀吉が造営した方広寺大仏殿があった。
発掘調査によって柱跡や階段跡などが検出されている。
秀吉は東大寺(奈良県奈良市)を凌ぐ規模の金銅製の大仏とそれを覆う壮大な大仏殿を文禄四年(一五九五)に完成させたが、翌年の慶長伏見地震で大仏は倒壊してしまった。
その後、子の秀頼が再建した大仏も寛文二年(一六六二)の地震で倒壊した。次に木造で再建されたが、これは寛政十年(一七九八)に焼失した。
天保年間(一八三〇〜四四)に規模の縮小された大仏が作られたが、これも昭和四十八年(一九七三)に焼失した。
長らく、京都の大仏として親しまれていたため、現在も地名などに「大仏」の名を見ることができる。
また、往時を偲ばせる石垣が残り、一帯は「方広寺石塁および石塔」として国の史跡に指定されている。
現在の方広寺には、大仏こそ存在しないが、大坂冬の陣の発端となった方広寺鐘銘事件ゆかりの「国家安康」の鐘(重要文化財)がある。
(京都検定テキスト)
(東山区茶屋町)
豊国神社本殿裏に大仏殿跡緑地公園が整備されており、この辺りに豊臣秀吉が造営した方広寺大仏殿があった。
発掘調査によって柱跡や階段跡などが検出されている。
秀吉は東大寺(奈良県奈良市)を凌ぐ規模の金銅製の大仏とそれを覆う壮大な大仏殿を文禄四年(一五九五)に完成させたが、翌年の慶長伏見地震で大仏は倒壊してしまった。
その後、子の秀頼が再建した大仏も寛文二年(一六六二)の地震で倒壊した。次に木造で再建されたが、これは寛政十年(一七九八)に焼失した。
天保年間(一八三〇〜四四)に規模の縮小された大仏が作られたが、これも昭和四十八年(一九七三)に焼失した。
長らく、京都の大仏として親しまれていたため、現在も地名などに「大仏」の名を見ることができる。
また、往時を偲ばせる石垣が残り、一帯は「方広寺石塁および石塔」として国の史跡に指定されている。
現在の方広寺には、大仏こそ存在しないが、大坂冬の陣の発端となった方広寺鐘銘事件ゆかりの「国家安康」の鐘(重要文化財)がある。
(京都検定テキスト)
新日吉神宮
(東山区妙法院前側町)
祭神 後白河天皇、日吉山王七神 (相殿には素盞嗚尊、大年神)
永暦元年(一一六〇)に後自河上皇が法住寺殿の鎮守として近江の日吉山王社より勧請したのに始まるとされる。
酒造・医薬・縁結びの神として信仰を集めている。
(京都検定テキスト)
(東山区妙法院前側町)
祭神 後白河天皇、日吉山王七神 (相殿には素盞嗚尊、大年神)
永暦元年(一一六〇)に後自河上皇が法住寺殿の鎮守として近江の日吉山王社より勧請したのに始まるとされる。
酒造・医薬・縁結びの神として信仰を集めている。
(京都検定テキスト)
若宮八幡宮社
(東山区五条橋東五丁目)
祭神 仲哀天皇、応神天皇、神功皇后
天喜元年(一〇五三)に後冷泉天皇の勅願で源頼義が左女牛西洞院に創建した。足利歴代将軍に崇敬され隆盛したが、応仁・文明の乱で荒廃。
その後、慶長十年(一六〇五)に現在地に移転した。
陶器神社は、昭和二十四年(一九四九)に若宮八幡宮社の相殿に陶祖神の椎根津彦命を祀ったもの。
(京都検定テキスト)
(東山区五条橋東五丁目)
祭神 仲哀天皇、応神天皇、神功皇后
天喜元年(一〇五三)に後冷泉天皇の勅願で源頼義が左女牛西洞院に創建した。足利歴代将軍に崇敬され隆盛したが、応仁・文明の乱で荒廃。
その後、慶長十年(一六〇五)に現在地に移転した。
陶器神社は、昭和二十四年(一九四九)に若宮八幡宮社の相殿に陶祖神の椎根津彦命を祀ったもの。
(京都検定テキスト)
安井金比羅宮
(東山区東大路通松原上ル下弁天町)
祭神 大物主神、崇徳天皇、源頼政
社伝によると、保元の乱に敗れて、讃岐で崩御した崇徳上呈の霊を慰めるため、後白河法皇の命で建立された光明院観勝寺が当宮の起こりであるという。
元禄八年(一六九五)に太秦安井にあった安井門跡蓮華光院を現在地に移建した際、讃岐国金毘羅大権現(現金刀比羅宮・香川県琴平町)の祭神である大物主神と源頼政を勧請した。
明治維新のときに蓮華光院が廃されて、安井神社と改称され、のちに安井金比羅宮となった。
絵馬の奉納で知られ、金比羅絵馬館は絵馬堂を改造したもので、画家山口素絢作をはじめ、多くの絵馬を保存・展示している。
境内の縁切り・縁結び碑は、悪縁を絶ち、良縁を結ぶとされている。
また、櫛を供養する久志塚もある。
(京都検定テキスト)
(東山区東大路通松原上ル下弁天町)
祭神 大物主神、崇徳天皇、源頼政
社伝によると、保元の乱に敗れて、讃岐で崩御した崇徳上呈の霊を慰めるため、後白河法皇の命で建立された光明院観勝寺が当宮の起こりであるという。
元禄八年(一六九五)に太秦安井にあった安井門跡蓮華光院を現在地に移建した際、讃岐国金毘羅大権現(現金刀比羅宮・香川県琴平町)の祭神である大物主神と源頼政を勧請した。
明治維新のときに蓮華光院が廃されて、安井神社と改称され、のちに安井金比羅宮となった。
絵馬の奉納で知られ、金比羅絵馬館は絵馬堂を改造したもので、画家山口素絢作をはじめ、多くの絵馬を保存・展示している。
境内の縁切り・縁結び碑は、悪縁を絶ち、良縁を結ぶとされている。
また、櫛を供養する久志塚もある。
(京都検定テキスト)
八坂神社
(東山区祇園町北側)
祭神 素戔嗚尊、櫛稲田姫命、八柱御子神
祇園社・祇園感神院・祇園天神社・牛頭天王社などと呼ばれたが、慶応四年(明治元年・一八六八)に現社名となった。
斉明天皇二年(六五六)に高麗から来朝した伊利之(八坂氏祖)が新羅国牛頭山の素戔嗚尊の神霊を八坂郷に祀ったと伝える。
または、貞観十八年(八七六)に南都興福寺の円如が堂宇を建て、のちに祇園天神堂を建立したともいう。
古くから疫病除けの神として崇敬され、御霊会を行ったとされる。
毎年七月、一ヵ月間にわたって行われる京都三大祭の一つ、祇園祭は当社の祭礼であり、かつては祇園御霊会と呼ばれ、悪疫退散を祈願する祭礼であった。
境内の摂社に疫神社(蘇民将来社)、悪王子社、美御前社などがある。
本殿(重要文化財、★現在は国宝)は別棟であった拝殿と本殿を一つの大屋根で覆ったもので、祇園造と称されている。
(京都検定テキスト)
(東山区祇園町北側)
祭神 素戔嗚尊、櫛稲田姫命、八柱御子神
祇園社・祇園感神院・祇園天神社・牛頭天王社などと呼ばれたが、慶応四年(明治元年・一八六八)に現社名となった。
斉明天皇二年(六五六)に高麗から来朝した伊利之(八坂氏祖)が新羅国牛頭山の素戔嗚尊の神霊を八坂郷に祀ったと伝える。
または、貞観十八年(八七六)に南都興福寺の円如が堂宇を建て、のちに祇園天神堂を建立したともいう。
古くから疫病除けの神として崇敬され、御霊会を行ったとされる。
毎年七月、一ヵ月間にわたって行われる京都三大祭の一つ、祇園祭は当社の祭礼であり、かつては祇園御霊会と呼ばれ、悪疫退散を祈願する祭礼であった。
境内の摂社に疫神社(蘇民将来社)、悪王子社、美御前社などがある。
本殿(重要文化財、★現在は国宝)は別棟であった拝殿と本殿を一つの大屋根で覆ったもので、祇園造と称されている。
(京都検定テキスト)
「課題」
祇園感神院、疫神社(蘇民将来)
八坂神社は明治元年の神仏分離令により八坂神社と改称するまで、感神院または祇園社と称していました。
感神院
八坂神社と改称する明治以前まで、石鳥居に掲げられていた扁額
祇園感神院、疫神社(蘇民将来)
八坂神社は明治元年の神仏分離令により八坂神社と改称するまで、感神院または祇園社と称していました。
感神院
八坂神社と改称する明治以前まで、石鳥居に掲げられていた扁額
祇園小唄
舞妓の舞でお馴染みの流行歌。
昭和5年 (1930) 1月に日本ビクターからレコードが発売されて大ヒットした。作詞は、『祇園夜話』『青春時代』 などの作品で知られた当時のベストセラー 作家長田幹彦。
作曲は佐々紅華。
歌ったのは藤本二三吉。 「月はおぼろに東山・・・・・・」で始まる歌詞の碑が、 洋画家の和田三造のデザインで円山公園に建てられている。
(京都検定テキスト)
舞妓の舞でお馴染みの流行歌。
昭和5年 (1930) 1月に日本ビクターからレコードが発売されて大ヒットした。作詞は、『祇園夜話』『青春時代』 などの作品で知られた当時のベストセラー 作家長田幹彦。
作曲は佐々紅華。
歌ったのは藤本二三吉。 「月はおぼろに東山・・・・・・」で始まる歌詞の碑が、 洋画家の和田三造のデザインで円山公園に建てられている。
(京都検定テキスト)
撮影機器:
感想
テキストを読んでもなかなか頭に入らない(-_-;)
「課題」をもとに歩いて見ることに
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