記録ID: 7824303
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ハイキング
東海
旧大和街道5 山城大河原ー伊賀国境から上野
2025年02月15日(土) [日帰り]


体力度
2
日帰りが可能
- GPS
- 07:49
- 距離
- 19.9km
- 登り
- 432m
- 下り
- 366m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 7:06
- 休憩
- 0:44
- 合計
- 7:50
距離 19.9km
登り 432m
下り 366m
旧大和街道歩きその5として、大河原から伊賀上野まで歩きました。その4はどうした?・・・後日歩きます。
最初加茂から島ヶ原までを考えましたが、R163に吸収された区間が多すぎ、歩道のない区間が多いので、これは避けたい。笠置からとも考えましたが、有市の先がどうにもならん。ま、笠置から大河原までは別途、飛鳥路の勧請縄探訪で歩いていので軌跡は連続しているかと。このルートも明示されている区間はないけれども、新大和街道、新々大和街道(R163)よりもずっと旧大和街道でしょう。なんて楽観的に考えています。
ではGo!
飛鳥路勧請縄:https://yamap.com/activities/29843121
■参考
1.マップ:この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)による。
https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=34.770375&lng=136.006762&zoom=16&dataset=iga&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2
2.村へ行こう!このサイト面白い;https://kyoto-mura.jp/
3.みえの歴史街道
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/map/
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/kaidou/walking/pdf/yamato_all.pdf
最初加茂から島ヶ原までを考えましたが、R163に吸収された区間が多すぎ、歩道のない区間が多いので、これは避けたい。笠置からとも考えましたが、有市の先がどうにもならん。ま、笠置から大河原までは別途、飛鳥路の勧請縄探訪で歩いていので軌跡は連続しているかと。このルートも明示されている区間はないけれども、新大和街道、新々大和街道(R163)よりもずっと旧大和街道でしょう。なんて楽観的に考えています。
ではGo!
飛鳥路勧請縄:https://yamap.com/activities/29843121
■参考
1.マップ:この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)による。
https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=34.770375&lng=136.006762&zoom=16&dataset=iga&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2
2.村へ行こう!このサイト面白い;https://kyoto-mura.jp/
3.みえの歴史街道
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/map/
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/kaidou/walking/pdf/yamato_all.pdf
過去天気図(気象庁) | 2025年02月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
写真
大河原駅から出発。
かなり広い敷地、ホームを持っているが、その昔は何を運んでいたか?
■村へ行こう!では、高尾、田山あたりで亜炭が発見され、戦争末期には大河原駅まで運んだとか。沈下橋もその時(昭和19年)にできた。
https://kyoto-mura.jp/village/history4/
かなり広い敷地、ホームを持っているが、その昔は何を運んでいたか?
■村へ行こう!では、高尾、田山あたりで亜炭が発見され、戦争末期には大河原駅まで運んだとか。沈下橋もその時(昭和19年)にできた。
https://kyoto-mura.jp/village/history4/
まずは恋志谷神社に参拝しとこう。右に「天満宮社」、左に「恋志谷神社」で、もともと天満宮社があっところへ明治に恋志谷神社が移されたという。
鳥居は、江戸時代初期の正保4(1647)年に、柳生宗冬が寄進したもの。
出典はhttps://kyoto-mura.jp/walking/tenmangu-shrine/ このサイトはスグレモノ。
鳥居は、江戸時代初期の正保4(1647)年に、柳生宗冬が寄進したもの。
出典はhttps://kyoto-mura.jp/walking/tenmangu-shrine/ このサイトはスグレモノ。
天満宮社が右、恋志谷神社が左
詳細は、「村へ行こう!」:https://kyoto-mura.jp/walking/koishidani-shrine/
由来は上記を読んでいただきたいが、特筆すべきは美しいこと。社殿はもちろんだが、境内、それも地面!実にきれいに掃き清められている。
詳細は、「村へ行こう!」:https://kyoto-mura.jp/walking/koishidani-shrine/
由来は上記を読んでいただきたいが、特筆すべきは美しいこと。社殿はもちろんだが、境内、それも地面!実にきれいに掃き清められている。
最後のヘアピンを曲がったところにこんなものが。三社託宣碑というらしい。「八幡大菩薩 天照皇太神宮 春日大明神」と銘文がある。詳しくは「村へ行こう!」https://kyoto-mura.jp/walking/stone-of-kami/
実は今の道は昭和36年にできた新道で、旧道は地理院地図の破線路で、この石碑も旧道にあったようだ。しかし、その破線路の位置が少しずれているようで、府道から橋を渡ってすぐのところに脇道があったが、それはその上の方にある民家へのアクセス道だと思ってパスしてしまったのだ。
https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=34.770375&lng=136.006762&zoom=16&dataset=iga&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2
実は今の道は昭和36年にできた新道で、旧道は地理院地図の破線路で、この石碑も旧道にあったようだ。しかし、その破線路の位置が少しずれているようで、府道から橋を渡ってすぐのところに脇道があったが、それはその上の方にある民家へのアクセス道だと思ってパスしてしまったのだ。
https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=34.770375&lng=136.006762&zoom=16&dataset=iga&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2
下り道になって東海自然歩道が合流してすぐに脇道みたいなのがあった。この付近地理院地図の破線路が水流の北で線路を渡るように描かれている。ここが旧道への取り付きかと思って、入ってみたら・・・
月ヶ瀬口に来た。月ヶ瀬口は地名でなく駅名。
地名は今山で、旧今山隧道に行ってみた。これはフランス積みだそう。さらに、津島神社、六所神社にも参拝した。
https://kyoto-mura.jp/walking/tsushima-shrine/
地名は今山で、旧今山隧道に行ってみた。これはフランス積みだそう。さらに、津島神社、六所神社にも参拝した。
https://kyoto-mura.jp/walking/tsushima-shrine/
山城/伊賀国境の二本杭
左は江戸時代末期の木製柱が明治19(1886)年に石柱になったもの。右のは平成15(2003)年に、ここに建てられという。「村を歩こう!」https://kyoto-mura.jp/walking/double-border-post/
GoogleMapクチコミでは、「江戸時代はよほど伊賀藤堂藩と大和柳生藩の間は仲が良くなかったのでしょうね。」という見解もある。
左は江戸時代末期の木製柱が明治19(1886)年に石柱になったもの。右のは平成15(2003)年に、ここに建てられという。「村を歩こう!」https://kyoto-mura.jp/walking/double-border-post/
GoogleMapクチコミでは、「江戸時代はよほど伊賀藤堂藩と大和柳生藩の間は仲が良くなかったのでしょうね。」という見解もある。
【案内板】 二本杭の由来
二本杭とは俗称で、旧大和街道の藤堂藩《伊賀の国》と柳生藩《山城の国》の境として、元禄十二年(一六九九)幕府検使の指示により、それぞれの杭を合わせ設置された箇所と伝承されている。
その後、明治十九年(一八八六)道路改良社開設の新道を三重県に移管の際、三重県と京都府が協議し、その合意に基づき京都府「従是西山城国」は旧道へ、三重県「従是東伊賀国」は新道に、それぞれ石柱を建立されたものであり、行政上確定され文化的、歴史的にも価値の高いものである。
江戸時代にはここに「従是西山城国」「従是東伊賀国」の二本杭が立てられていた。その箇所に平成十五年(二〇〇三)に三重県からの補助金で「従是東伊賀国」を旧大和街道向きに石柱で再現した。
二本杭とは俗称で、旧大和街道の藤堂藩《伊賀の国》と柳生藩《山城の国》の境として、元禄十二年(一六九九)幕府検使の指示により、それぞれの杭を合わせ設置された箇所と伝承されている。
その後、明治十九年(一八八六)道路改良社開設の新道を三重県に移管の際、三重県と京都府が協議し、その合意に基づき京都府「従是西山城国」は旧道へ、三重県「従是東伊賀国」は新道に、それぞれ石柱を建立されたものであり、行政上確定され文化的、歴史的にも価値の高いものである。
江戸時代にはここに「従是西山城国」「従是東伊賀国」の二本杭が立てられていた。その箇所に平成十五年(二〇〇三)に三重県からの補助金で「従是東伊賀国」を旧大和街道向きに石柱で再現した。
すぐに岩谷山役行者石柱が現れた。右 岩谷山・・・とあるのがよくわからない(今の木製看板はコンクリ道下りを指示しているし)。石柱右手に踏み跡みたいなのが見え、1937年の今昔マップを見ると桑畑(東)と針葉樹林(西)の境界で木津川河畔の実線路につながっていた。昔はこの方向で良かったのだろう。今はコンクリ道に従って下っていく。
山手に行者堂
https://www.igaueno.net/?p=425
http://jummy1015.blog91.fc2.com/blog-entry-324.html
どうも三重の案内サイトはマップは優れているが、解説はあっさりめで物足りない。
https://www.igaueno.net/?p=425
http://jummy1015.blog91.fc2.com/blog-entry-324.html
どうも三重の案内サイトはマップは優れているが、解説はあっさりめで物足りない。
島ヶ原宿の街道筋のこの種の建物好きやなあ。元役場かなにかの建物風ですが、街の集会所になっているようだ。この東隣りが旧本陣であるが、現在は個人宅。https://www.igaueno.net/?p=411
左のいにしえの道はこの有様。さながら暗越えの大坂側にようで、それに負けず劣らず。道が細いだけ勝っているか。クルマの離合集散など不可能。
ここの成立ちは下記を参照ください。公式的なサイトの説明より臨場感がある。
https://ameblo.jp/sh-nioh/entry-12096945538.html
『笠置峠か、与右衛門坂か、江戸の箱根はなけりゃよい』
という俚謡があるというので、今回パスした笠置峠はぜひとも越えておかないと・・・
ここの成立ちは下記を参照ください。公式的なサイトの説明より臨場感がある。
https://ameblo.jp/sh-nioh/entry-12096945538.html
『笠置峠か、与右衛門坂か、江戸の箱根はなけりゃよい』
という俚謡があるというので、今回パスした笠置峠はぜひとも越えておかないと・・・
松尾芭蕉句碑「春なれや名もなき山の薄霞/芭蕉」
今日は比較的暖かかったけれど「春霞」までは行かなかった。
三軒屋をすぎるとR163に合流するが、土曜というのに流石にクルマが多い。心配はしていたが歩道のない区間は約200mで南からの街道が合流して歩道ができた。
今日は比較的暖かかったけれど「春霞」までは行かなかった。
三軒屋をすぎるとR163に合流するが、土曜というのに流石にクルマが多い。心配はしていたが歩道のない区間は約200mで南からの街道が合流して歩道ができた。
R163を下る途中に立派な勧請縄。こちらのは長田の勘定縄といい、伊賀の勧請縄9箇所のひとつらしい。典型的な「道切り」型で上野の西からやってくる悪霊、災いを遮断する意味があるという。
■参考:https://digital.asahi.com/articles/ASQ1C6T4KQ19ONFB00G.html?iref=pc_photo_gallery_bottom
■参考:https://digital.asahi.com/articles/ASQ1C6T4KQ19ONFB00G.html?iref=pc_photo_gallery_bottom
反対側にも回ってみたがあまり近づけない。吊るしものは(種々言い方あり)わらで作った農具や生活道具、さらには男女の性器に似せたものもある。実際のナベカマ辺りを吊るすこともある。
悪霊退散の他に、子孫繁栄、豊作を祈念する意味もある。
悪霊退散の他に、子孫繁栄、豊作を祈念する意味もある。
右岸の広場には淀川水系改修記念百年碑がありました。かつて大阪・京都と結ぶ木津川水運が行われ、伊賀から米・茶など、大阪から伊賀へ塩が運ばれていたようです。京都の商人 角倉家により、底が平たく浅い高瀬舟を利用してこの地点まで通船が行われ、19世紀前半まで運行された由。
鍵屋ノ辻の手前まで来てこの道標。
なになに、右 奈良大阪 左 月ヶ瀬みち
月ヶ瀬方面から来たのに・・・あ、違った。月ヶ瀬口は月ヶ瀬ではないんや。たしかにこの南で橋を渡ると、おおむねR25に沿って月ヶ瀬方面にいくなあ。さらに行けば若草山の裏手か天理に行く。
なになに、右 奈良大阪 左 月ヶ瀬みち
月ヶ瀬方面から来たのに・・・あ、違った。月ヶ瀬口は月ヶ瀬ではないんや。たしかにこの南で橋を渡ると、おおむねR25に沿って月ヶ瀬方面にいくなあ。さらに行けば若草山の裏手か天理に行く。
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午後は時間に追われ十分な道草ができませんでした。
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