記録ID: 8016867
全員に公開
ハイキング
京都・北摂
二条城〜堀川〜御所・・・鎌餅の大黒屋本舗/大正マンホール
2025年04月16日(水) [日帰り]


体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 01:51
- 距離
- 6.9km
- 登り
- 24m
- 下り
- 1m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2025年04月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
バス
|
写真
元離宮二条城
(中京区二条通堀川西入二条城町)
北が竹屋町通、南が押小路通、東が堀川通で画され、西側が西ノ京式部町に接する。
その周囲は幅約十~二十二メー トルの堀に囲まれている。
世界遺産(文化遺産)。
徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けるに際し、その居館として築かれたもの。
着工を前にした慶長六年(一六〇一) 五月には、建設予定地の町家の立ち退き が行われたらしく、『義演准后日記」には「町屋四、五千間 (軒) モノクト云々」 との記録が見える。
同年十二月には畿内の諸大名に築城費用の負担が命じられ、翌七年五月、京都所司代板倉勝重に総奉行が命ぜられ、縄張りは築城の名手藤堂高虎があたり、大工頭の中井正常が作事を指揮した。
慶長八年二月、家康は伏見城で征夷大将軍の宣下を受け、同年三月、親王や公家衆らが二条城の家康に参賀した。
以後、二条城は、徳川幕府の京での象徴となった。
大坂冬の陣、夏の陣では軍議の舞台ともなり、また元和六年 (一六二〇)、徳川秀忠の娘和子(後の東福門院)が後水尾天皇の女御として入内する際には、華々しい行列が二条城から禁裏に向かった。
寛永三年(一六二六)には、徳川秀忠の主催により後水尾天皇が二条城へ行幸するなど、同城は脚光を浴びることになったのである。
徳川家光の時代に行われたこの行幸に伴い、二条城では大規模改修が実施された。
現存する二の丸御殿 (国宝)は、この時の作事によってほぼでき上がったものである。
南に正門にあたる唐門(重要文化財)を配置し、御殿は遠侍および車寄、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院からなる。
内部には狩野探幽を始めとする狩野派の描 いた障壁画(一部は重要文化財)があり、絢爛豪華である。
その他、東と北の大 手門や東南・西南の隅櫓、本丸櫓門や 本丸御殿など、重要文化財に指定されている建造物も多い。
中島のある池と築山からなる二の丸庭園は、国の特別名勝 に指定されている。
なお、この拡張工事には尾張徳川家 (義直)をはじめ、親藩・譜代の大名十九家が動員され、小堀政一(遠州)らが 作事奉行を務めた。
さらに寛永十一年 (一六三四)には、徳川家光が三十万人余の大軍勢を率いて上洛、二条城に入った。
それ以降、将軍の上洛は幕末に至るまで行われなかった。
江戸時代初期、徳川秀忠・家光の上洛に際し、二条城には警衛などのために二条城代が置かれた。
二条城代はのちに廃止され、その 職務の一部は二条在番に引き継がれた。
万治三年(一六六〇)には暴風雨、寛文年間(一六六一~七三)には二度に及ぶ大地震、元禄十四年(一七○一)には雷雨による破損が続いた。
寛延三年(七五〇)には雷火によって五層の天守が焼失、以後ついに再建されることはなかった。
また天明八年(一七八八)の大火では、本丸御殿や隅櫓なども類焼の憂き目にあっ ている。
二条城が再び歴史の表舞台に登場するのは、文久三年(一八六三)、第十四代将軍徳川家茂が久方ぶりの上洛を果たしてからのこと。
慶応二年(一八六六)に最後の将軍徳川慶喜が二条城で将軍宣下を受けたが、翌三年十月になると大政奉還の舞台として二条城が歴史に名を留めることになった。
奇しくも二 条城は、徳川幕府の始まりと終焉の舞 台となったのである。
明治元年(一八六八)、二条城は明治新政府によって接収され、同四年から京都府庁が置かれた。
その後、宮内省に移管され二條離宮となる。
現在の本丸 御殿(重要文化財)は桂宮家より主要な建物が明治二十六~二十七年(一八九三 ~九四)に移築されたもの。
昭和十四年 (一九三九)には京都市に下賜された。
敷 地一帯は「旧二條離宮(二条城)」とし て、国の史跡に指定されている。
→世界遺産47頁、国宝建築203頁、二の丸御殿(宮殿・邸宅の建築)209頁、特別名勝庭園 216頁、二の丸庭園(武家の庭園と書院造庭園・露地と回遊式庭園)223.225.226頁
(新京都検定テキスト)
*旧版と比べて内容が変更されている
(中京区二条通堀川西入二条城町)
北が竹屋町通、南が押小路通、東が堀川通で画され、西側が西ノ京式部町に接する。
その周囲は幅約十~二十二メー トルの堀に囲まれている。
世界遺産(文化遺産)。
徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けるに際し、その居館として築かれたもの。
着工を前にした慶長六年(一六〇一) 五月には、建設予定地の町家の立ち退き が行われたらしく、『義演准后日記」には「町屋四、五千間 (軒) モノクト云々」 との記録が見える。
同年十二月には畿内の諸大名に築城費用の負担が命じられ、翌七年五月、京都所司代板倉勝重に総奉行が命ぜられ、縄張りは築城の名手藤堂高虎があたり、大工頭の中井正常が作事を指揮した。
慶長八年二月、家康は伏見城で征夷大将軍の宣下を受け、同年三月、親王や公家衆らが二条城の家康に参賀した。
以後、二条城は、徳川幕府の京での象徴となった。
大坂冬の陣、夏の陣では軍議の舞台ともなり、また元和六年 (一六二〇)、徳川秀忠の娘和子(後の東福門院)が後水尾天皇の女御として入内する際には、華々しい行列が二条城から禁裏に向かった。
寛永三年(一六二六)には、徳川秀忠の主催により後水尾天皇が二条城へ行幸するなど、同城は脚光を浴びることになったのである。
徳川家光の時代に行われたこの行幸に伴い、二条城では大規模改修が実施された。
現存する二の丸御殿 (国宝)は、この時の作事によってほぼでき上がったものである。
南に正門にあたる唐門(重要文化財)を配置し、御殿は遠侍および車寄、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院からなる。
内部には狩野探幽を始めとする狩野派の描 いた障壁画(一部は重要文化財)があり、絢爛豪華である。
その他、東と北の大 手門や東南・西南の隅櫓、本丸櫓門や 本丸御殿など、重要文化財に指定されている建造物も多い。
中島のある池と築山からなる二の丸庭園は、国の特別名勝 に指定されている。
なお、この拡張工事には尾張徳川家 (義直)をはじめ、親藩・譜代の大名十九家が動員され、小堀政一(遠州)らが 作事奉行を務めた。
さらに寛永十一年 (一六三四)には、徳川家光が三十万人余の大軍勢を率いて上洛、二条城に入った。
それ以降、将軍の上洛は幕末に至るまで行われなかった。
江戸時代初期、徳川秀忠・家光の上洛に際し、二条城には警衛などのために二条城代が置かれた。
二条城代はのちに廃止され、その 職務の一部は二条在番に引き継がれた。
万治三年(一六六〇)には暴風雨、寛文年間(一六六一~七三)には二度に及ぶ大地震、元禄十四年(一七○一)には雷雨による破損が続いた。
寛延三年(七五〇)には雷火によって五層の天守が焼失、以後ついに再建されることはなかった。
また天明八年(一七八八)の大火では、本丸御殿や隅櫓なども類焼の憂き目にあっ ている。
二条城が再び歴史の表舞台に登場するのは、文久三年(一八六三)、第十四代将軍徳川家茂が久方ぶりの上洛を果たしてからのこと。
慶応二年(一八六六)に最後の将軍徳川慶喜が二条城で将軍宣下を受けたが、翌三年十月になると大政奉還の舞台として二条城が歴史に名を留めることになった。
奇しくも二 条城は、徳川幕府の始まりと終焉の舞 台となったのである。
明治元年(一八六八)、二条城は明治新政府によって接収され、同四年から京都府庁が置かれた。
その後、宮内省に移管され二條離宮となる。
現在の本丸 御殿(重要文化財)は桂宮家より主要な建物が明治二十六~二十七年(一八九三 ~九四)に移築されたもの。
昭和十四年 (一九三九)には京都市に下賜された。
敷 地一帯は「旧二條離宮(二条城)」とし て、国の史跡に指定されている。
→世界遺産47頁、国宝建築203頁、二の丸御殿(宮殿・邸宅の建築)209頁、特別名勝庭園 216頁、二の丸庭園(武家の庭園と書院造庭園・露地と回遊式庭園)223.225.226頁
(新京都検定テキスト)
*旧版と比べて内容が変更されている
お嫁入りの時、戻橋を渡らない
一条戻橋は、堀川一条にある。
平安時代、文章博士三善清行が没したことを聞いた子の浄蔵貴所が、この橋の上で父の葬列に出くわし、棺にすがって泣き崩れると、父が一時よみがえったことから、「戻り橋」と呼ぶようになった。
「戻り」にこだわり、嫁いだ先から戻ってこないようにと、婚礼時には橋を渡らないように遠回りをする。
(京都検定テキスト)
一条戻橋は、堀川一条にある。
平安時代、文章博士三善清行が没したことを聞いた子の浄蔵貴所が、この橋の上で父の葬列に出くわし、棺にすがって泣き崩れると、父が一時よみがえったことから、「戻り橋」と呼ぶようになった。
「戻り」にこだわり、嫁いだ先から戻ってこないようにと、婚礼時には橋を渡らないように遠回りをする。
(京都検定テキスト)
阿弥陀寺
(上京区寺町通今出川上ル鶴山町)
*本尊 阿弥陀如来
山号は蓮台山。正式には捴見院阿弥陀寺、通称は寺町阿弥陀寺。
織田信長の法名「捴見院」を冠す。
大正六年(一九一七)に勅使が来訪、信長に正一位の位階が追陞され、「織田信長公本廟所」と公認された。
開山の清玉上人は織田家ゆかりの僧で、阿弥陀寺は京都における織田家菩提寺として信長の帰依を受け整備された。
天正十年(一五八二)の本能寺の変の際、清玉は僧侶二十余名と本能寺に駆け付けるが、すでに信長は自害しており、森蘭丸ら近習の武士より遺骸を託され阿弥陀寺に運び、同日、 討死した百余名の供養を明智光秀に申し出て許可され、同様に遺骸を寺に運び供養埋葬したと伝わり、墓地には信長はじめ討死衆の墓がある。
通常非公開の本堂に信長・信忠木像、討死衆合 祀位牌などを祀り、六月二日の「信長忌」に一般公開されている。
(新京都検定テキスト)
*旧版と内容が違っている
(上京区寺町通今出川上ル鶴山町)
*本尊 阿弥陀如来
山号は蓮台山。正式には捴見院阿弥陀寺、通称は寺町阿弥陀寺。
織田信長の法名「捴見院」を冠す。
大正六年(一九一七)に勅使が来訪、信長に正一位の位階が追陞され、「織田信長公本廟所」と公認された。
開山の清玉上人は織田家ゆかりの僧で、阿弥陀寺は京都における織田家菩提寺として信長の帰依を受け整備された。
天正十年(一五八二)の本能寺の変の際、清玉は僧侶二十余名と本能寺に駆け付けるが、すでに信長は自害しており、森蘭丸ら近習の武士より遺骸を託され阿弥陀寺に運び、同日、 討死した百余名の供養を明智光秀に申し出て許可され、同様に遺骸を寺に運び供養埋葬したと伝わり、墓地には信長はじめ討死衆の墓がある。
通常非公開の本堂に信長・信忠木像、討死衆合 祀位牌などを祀り、六月二日の「信長忌」に一般公開されている。
(新京都検定テキスト)
*旧版と内容が違っている
鎌餅
昔、洛中と街道を結ぶ出入口のことを七口と呼んだ。
その出入口の一つ、鞍馬口の茶店で売られたのが鎌餅の由来。
江戸時代、評判の名物菓子だったという。
鎌に似た形状から命名され、豊作を祈るための菓子でもある。
大黒屋鎌餅本舗(上京区寺町今出川上ル四丁目西入阿弥陀寺前町)で販売されている。
(京都検定テキスト)
昔、洛中と街道を結ぶ出入口のことを七口と呼んだ。
その出入口の一つ、鞍馬口の茶店で売られたのが鎌餅の由来。
江戸時代、評判の名物菓子だったという。
鎌に似た形状から命名され、豊作を祈るための菓子でもある。
大黒屋鎌餅本舗(上京区寺町今出川上ル四丁目西入阿弥陀寺前町)で販売されている。
(京都検定テキスト)
撮影機器:
感想
今日も目的を決めないで歩き始める
取り敢えず堀川を歩こう
御所を歩いてみよう
先日食べた鎌餅のお店を確認しておこう
大正マンホールを見たい
相国寺の七重の塔があったところを確認しよう
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訪問者数:121人
コメント
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大正マンホール、大黒屋鎌餅本舗など好奇心満たされましたね。
近藤正臣氏、最近TVで拝見しました、ホっとする映像でした。
京都や滋賀は交通費が嵩んで中々行けないですが、貯金して月一くらい行くようにしたいです。
京都の街中ウォーキングにお付き合いありがとうございます。
困りましたね、突然のgooサービス停止(-_-;)
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