記録ID: 8067792
全員に公開
ハイキング
京都・北摂
蹴上のつつじ 一般公開〜大文字山やっと(017)・・・文博ギャラリートーク
2025年04月27日(日) [日帰り]

過去天気図(気象庁) | 2025年04月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
写真
蹴上のつつじ 一般公開
お友達から今日までだと情報が・・・。
地下鉄で
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/f2aaccb6e3a959f00cced902631eb9df
お友達から今日までだと情報が・・・。
地下鉄で
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/f2aaccb6e3a959f00cced902631eb9df
【南禅寺塔頭】
金地院
本尊 地蔵菩薩
南禅寺の塔頭。
応永年間(一三九四〜一四二八)に足利義持の帰依を受けて大業徳基が洛北の鷹峯に創立したという。
慶長十年(一六〇五)頃に南禅寺の中興開山、以心崇伝(本光国師)が現在地に
移して再興した。
寛永年間(一六ニ四〜四四)には大造営が行われ、本堂(方丈・重要文化財)は伏見城の旧殿とも、大坂城の御殿拝領によるものともいう。
同五年頃には東照宮(重要文化財)も建立された。また小堀遠州を起用して茶室八窓席(重要文化財)や庭園が完成した。
庭園は方丈南に展開し、「鶴亀の庭」と称される。
遠州作庭の詳細な記録を持つことからも貴重。
国の特別名勝に指定されている。
崇伝の行った外交に関した『異国日記』二冊(重要文化財)など多数の寺宝を所蔵している。
↓特別名勝庭園216頁、庭園(武家の庭園と書院造庭園・露地と回遊式庭園)222・225・226頁
(京都検定テキスト)
金地院
本尊 地蔵菩薩
南禅寺の塔頭。
応永年間(一三九四〜一四二八)に足利義持の帰依を受けて大業徳基が洛北の鷹峯に創立したという。
慶長十年(一六〇五)頃に南禅寺の中興開山、以心崇伝(本光国師)が現在地に
移して再興した。
寛永年間(一六ニ四〜四四)には大造営が行われ、本堂(方丈・重要文化財)は伏見城の旧殿とも、大坂城の御殿拝領によるものともいう。
同五年頃には東照宮(重要文化財)も建立された。また小堀遠州を起用して茶室八窓席(重要文化財)や庭園が完成した。
庭園は方丈南に展開し、「鶴亀の庭」と称される。
遠州作庭の詳細な記録を持つことからも貴重。
国の特別名勝に指定されている。
崇伝の行った外交に関した『異国日記』二冊(重要文化財)など多数の寺宝を所蔵している。
↓特別名勝庭園216頁、庭園(武家の庭園と書院造庭園・露地と回遊式庭園)222・225・226頁
(京都検定テキスト)
【南禅寺塔頭】
天授庵
本尊 釈迦如来
南禅寺三門の南に位置する塔頭。
南禅寺第十五世住持の虎関師錬が、暦応二年(一三三九)に光厳上皇から勅許を得て、翌年に南禅寺開山無関普門(大明国師)の塔所として建立した。
のちに衰退したが慶長七年(一六〇二)に細川幽斎が再興、細川家の菩提所となった。
方丈の障壁画三十二面は長谷川等伯の手になり、禅宗祖師図、商山四皓図、松鶴図で構成され、また画像の聖一国師(円爾)像、細川幽斎像・同夫人像、木像の大明国師像も残され、以上は重要文化財に指定されている。
枯山水庭園・ 淵黙庭は方形と菱形を組み合わせた石畳など幾何学的な構成を特徴とし、一 方、書院南庭は天授庵創建の頃の作になる、自然美に優れた池泉回遊式庭園となっている。
(京都検定テキスト)
新しいテキストに掲載されました。
天授庵
本尊 釈迦如来
南禅寺三門の南に位置する塔頭。
南禅寺第十五世住持の虎関師錬が、暦応二年(一三三九)に光厳上皇から勅許を得て、翌年に南禅寺開山無関普門(大明国師)の塔所として建立した。
のちに衰退したが慶長七年(一六〇二)に細川幽斎が再興、細川家の菩提所となった。
方丈の障壁画三十二面は長谷川等伯の手になり、禅宗祖師図、商山四皓図、松鶴図で構成され、また画像の聖一国師(円爾)像、細川幽斎像・同夫人像、木像の大明国師像も残され、以上は重要文化財に指定されている。
枯山水庭園・ 淵黙庭は方形と菱形を組み合わせた石畳など幾何学的な構成を特徴とし、一 方、書院南庭は天授庵創建の頃の作になる、自然美に優れた池泉回遊式庭園となっている。
(京都検定テキスト)
新しいテキストに掲載されました。
南禅寺(左京区南禅寺福地町)
本尊 釈迦牟尼仏
臨済宗南禅寺派の大本山。
山号は瑞龍山。
正式には太平與国南禅禅寺。
前身は亀山天皇が文永元年(一二六四)に大宮院(亀山天皇の母)の御所として造営した離宮禅林寺殿。
開山は無関普門(大明国師)。
正応五年(一二九二)に伽藍の整備が本格化し、永仁元年(一二九三)の仏殿(金剛王宝殿)の落成から最後の法堂の完成まで、約十五年を費やした。
建武元年(一三三四)に京都五山の第一位となり、その後、足利義満によって五山の上とされ隆盛し、武家から篤い信仰を受けた。
方丈(国宝)は、天正年間(一五七三〜九二)の建立。
大方丈と小方丈からなる。
大方丈は慶長十六年(一六一一)に御所の建物が下賜・移建されたもので、旧正親町院御所の震殿ともいう。
小方丈は伏見城の遺構とも伝えるが定かでない。
勅使門(重要文化財)は慶長年間(一五九六−一六一五)造営の内裏の日御門が寛永十八年(一六四一)に下賜・移建されたもの。
三門(重要文化財)は、同五年に藤堂高虎の寄進により再建された。
楼上からは京都市街が一望でき、歌舞伎『楼門五三桐』における石川五右衛門の「絶景かな絶景かな」で知られる。
また、方丈庭園は国の名勝に指定されている。
大方丈御昼の間の金碧障壁画である「琴棋群仙図」、「二十四孝図(陸績図)」(ともに重要文化財)は狩野永徳の関与が想定されている。
小方丈虎の間の金碧障壁画「群虎図」(重要文化財)は狩野探幽の代表作で、中でも「水呑みの虎」は名高い。
寺宝も数多く、亀山法皇震翰「禅林禅寺御起願文案」(国宝)は、永仁七年(一二九九)に書かれ、これに従って歴代住持の選任の規定を定めたとされる。
境内は国の史跡に指定。
↓琵琶湖疏水58頁、京都五山147頁、国宝建築203頁、鎌倉彫牡丹模様香盒(京都の工芸)245頁
(京都検定テキスト)
本尊 釈迦牟尼仏
臨済宗南禅寺派の大本山。
山号は瑞龍山。
正式には太平與国南禅禅寺。
前身は亀山天皇が文永元年(一二六四)に大宮院(亀山天皇の母)の御所として造営した離宮禅林寺殿。
開山は無関普門(大明国師)。
正応五年(一二九二)に伽藍の整備が本格化し、永仁元年(一二九三)の仏殿(金剛王宝殿)の落成から最後の法堂の完成まで、約十五年を費やした。
建武元年(一三三四)に京都五山の第一位となり、その後、足利義満によって五山の上とされ隆盛し、武家から篤い信仰を受けた。
方丈(国宝)は、天正年間(一五七三〜九二)の建立。
大方丈と小方丈からなる。
大方丈は慶長十六年(一六一一)に御所の建物が下賜・移建されたもので、旧正親町院御所の震殿ともいう。
小方丈は伏見城の遺構とも伝えるが定かでない。
勅使門(重要文化財)は慶長年間(一五九六−一六一五)造営の内裏の日御門が寛永十八年(一六四一)に下賜・移建されたもの。
三門(重要文化財)は、同五年に藤堂高虎の寄進により再建された。
楼上からは京都市街が一望でき、歌舞伎『楼門五三桐』における石川五右衛門の「絶景かな絶景かな」で知られる。
また、方丈庭園は国の名勝に指定されている。
大方丈御昼の間の金碧障壁画である「琴棋群仙図」、「二十四孝図(陸績図)」(ともに重要文化財)は狩野永徳の関与が想定されている。
小方丈虎の間の金碧障壁画「群虎図」(重要文化財)は狩野探幽の代表作で、中でも「水呑みの虎」は名高い。
寺宝も数多く、亀山法皇震翰「禅林禅寺御起願文案」(国宝)は、永仁七年(一二九九)に書かれ、これに従って歴代住持の選任の規定を定めたとされる。
境内は国の史跡に指定。
↓琵琶湖疏水58頁、京都五山147頁、国宝建築203頁、鎌倉彫牡丹模様香盒(京都の工芸)245頁
(京都検定テキスト)
少し遅れて入館
今日は三組に分かれてのギャラリートークでした
30分の予定が1時間半も・・・。
やっぱり聞いてみないと
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/9911b43aaad71298c0c16c964ab371a6
今日は三組に分かれてのギャラリートークでした
30分の予定が1時間半も・・・。
やっぱり聞いてみないと
https://blog.goo.ne.jp/corpus2247/e/9911b43aaad71298c0c16c964ab371a6
撮影機器:
感想
風邪をひいてもう一ヶ月近く
寝込むほどのことではないのだが・・・。
お友達に誘われた山行き
ふたつもお断りしてしまった(-_-;)
この花の時期に・・・。
お友達から蹴上のつつじ、今日までとのこと
つつじを見て大文字山に登って
蕨を少しいただき
そのまま文博のギャラリートークへ
ちょっと過密スケジュール
体調は回復傾向↗
勝手にゴーサイン♫
10分遅れで到着でした
良いお天気で
山では暑さは感じなかった
登山者メッチャ多かった
お気に入りした人
人
拍手で応援
拍手した人
拍手
訪問者数:102人
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する