記録ID: 8166695
全員に公開
ハイキング
京都・北摂
妙法院 五月会・・・新日吉神社、智積院
2025年05月14日(水) [日帰り]


体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 02:17
- 距離
- 2.5km
- 登り
- 7m
- 下り
- 2m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2025年05月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
写真
妙法院
(東山区妙法院前側町)
※本尊 普賢菩薩
山号は南叡山。
永暦元年(1160)に後白河上皇が新熊野神社(→78頁)を勧請する時に西塔本覚院の昌雲が別当となって開創。
鎌倉時代初期に尊性法親王(後高倉院の皇子)が入寺して以来、三千院(→99頁)や青蓮院(→105頁)とともに天台宗三門跡の一つに数えられた。
その後の兵火で焼失したが、豊臣秀吉が方広寺を建立する時に当寺を経堂とし、その寄進を受けて復興。
庫裏(国宝)は桃山時代の造営で、大棟上の他、左側屋根上にも小棟を出して煙出しを設けるなど、変化に富んだ外観を持つ。
近世の庫裏が居住機能を併せ持つのに対し、庫裏本来の調来喫飯の場のみに限定されている。
他に江戸時代初期の建造物で大書院、大玄関(ともに重要文化財)がある。
本尊の普賢菩薩騎象像(重要文化財)をはじめ、桃山時代の障壁画(重要文化財)、ポルトガル領インド副王が豊臣秀吉宛に書いた「ポルトガル国印度副王信書」(国宝)など数多くの寺宝がある。
→天台宗五箇室門跡102頁、国宝建築203頁
(京都検定テキスト)
(東山区妙法院前側町)
※本尊 普賢菩薩
山号は南叡山。
永暦元年(1160)に後白河上皇が新熊野神社(→78頁)を勧請する時に西塔本覚院の昌雲が別当となって開創。
鎌倉時代初期に尊性法親王(後高倉院の皇子)が入寺して以来、三千院(→99頁)や青蓮院(→105頁)とともに天台宗三門跡の一つに数えられた。
その後の兵火で焼失したが、豊臣秀吉が方広寺を建立する時に当寺を経堂とし、その寄進を受けて復興。
庫裏(国宝)は桃山時代の造営で、大棟上の他、左側屋根上にも小棟を出して煙出しを設けるなど、変化に富んだ外観を持つ。
近世の庫裏が居住機能を併せ持つのに対し、庫裏本来の調来喫飯の場のみに限定されている。
他に江戸時代初期の建造物で大書院、大玄関(ともに重要文化財)がある。
本尊の普賢菩薩騎象像(重要文化財)をはじめ、桃山時代の障壁画(重要文化財)、ポルトガル領インド副王が豊臣秀吉宛に書いた「ポルトガル国印度副王信書」(国宝)など数多くの寺宝がある。
→天台宗五箇室門跡102頁、国宝建築203頁
(京都検定テキスト)
新日吉神宮
(東山区妙法院前側町)
※祭神 後白河天皇、日吉山王七神
永暦元年(1160)に後白河上皇が住まいである法住寺殿の守り神として日吉大社(滋賀県大津市)の神を祀ったことに始まるとされる。日吉大神の使いである「白い真猿人形」を各家の鬼門玄関に飾り「鬼門災難厄除け」「家内安全」とする習慣がある。
(京都検定テキスト)
(東山区妙法院前側町)
※祭神 後白河天皇、日吉山王七神
永暦元年(1160)に後白河上皇が住まいである法住寺殿の守り神として日吉大社(滋賀県大津市)の神を祀ったことに始まるとされる。日吉大神の使いである「白い真猿人形」を各家の鬼門玄関に飾り「鬼門災難厄除け」「家内安全」とする習慣がある。
(京都検定テキスト)
智積院
(東山区東大路通七条下ル東瓦町)
※本尊 大日如来
真言宗智山派の総本山。
山号は五百佛山。
慶長6年(1601)、徳川家康が紀州根来寺(和歌山県岩出市)の智積院玄宥僧正に根来寺再興の許可を与え、その正式名にちなんで五百佛山根来寺智積院という坊舎講堂を建立したことに始まる。
その地は豊国社の坊舎の一部と、豊臣秀吉が長男の棄丸(鶴松)を供養するために建てた祥雲寺であった。
同18年には幕府から智積院法度が下され、豊臣氏滅亡後の元和元年(1615)には祥雲寺の建物・障壁画、豊国社の堂舎・梵鐘を受け継いだ。
のちに末寺の学生僧の数学専門学寮として繁栄したが、数度の火災にあい、幕末には学寮が土佐藩屯所になるなどして講学も一時衰えた。
書院前の庭園は国の名勝に指定されており、延宝2年(1674)、祥雲寺時代の庭を修築したもので、中国の蘆山をかたどったと伝えられる。
また、「桜楓図」(国宝)(→234頁)は、長谷川等伯筆の楓図と、長男の久蔵が描いたとされる桜図で、祥雲寺客殿に描かれていた障壁画。
智積院に引き継がれ、往時の荘厳を見ることができる。
(京都検定テキスト)
(東山区東大路通七条下ル東瓦町)
※本尊 大日如来
真言宗智山派の総本山。
山号は五百佛山。
慶長6年(1601)、徳川家康が紀州根来寺(和歌山県岩出市)の智積院玄宥僧正に根来寺再興の許可を与え、その正式名にちなんで五百佛山根来寺智積院という坊舎講堂を建立したことに始まる。
その地は豊国社の坊舎の一部と、豊臣秀吉が長男の棄丸(鶴松)を供養するために建てた祥雲寺であった。
同18年には幕府から智積院法度が下され、豊臣氏滅亡後の元和元年(1615)には祥雲寺の建物・障壁画、豊国社の堂舎・梵鐘を受け継いだ。
のちに末寺の学生僧の数学専門学寮として繁栄したが、数度の火災にあい、幕末には学寮が土佐藩屯所になるなどして講学も一時衰えた。
書院前の庭園は国の名勝に指定されており、延宝2年(1674)、祥雲寺時代の庭を修築したもので、中国の蘆山をかたどったと伝えられる。
また、「桜楓図」(国宝)(→234頁)は、長谷川等伯筆の楓図と、長男の久蔵が描いたとされる桜図で、祥雲寺客殿に描かれていた障壁画。
智積院に引き継がれ、往時の荘厳を見ることができる。
(京都検定テキスト)
撮影機器:
感想
すっかり忘れていましたが
新聞記事で今年も行くことができました
最初のころに比べると人が多い
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