記録ID: 8228210
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ハイキング
京都・北摂
久々の大文字山(021)北斜面のシライトソウに満足♫
2025年05月31日(土) [日帰り]



体力度
2
日帰りが可能
- GPS
- 05:49
- 距離
- 10.5km
- 登り
- 551m
- 下り
- 563m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 5:02
- 休憩
- 0:48
- 合計
- 5:50
距離 10.5km
登り 551m
下り 563m
15:35
ゴール地点
過去天気図(気象庁) | 2025年05月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
写真
南禅寺
(左京区南禅寺福地町)
※本尊 釈迦牟尼仏
臨済宗南禅寺派の大本山。
山号は瑞龍山。
正式には太平興国南禅禅寺。
前身は亀山天皇が文永元年(1264)に大宮院(亀山天皇の母)の御所として造営した離宮禅林寺殿。
開山は無関普門(大明国師)。
正応5年(1292)に伽藍の整備が本格化し、永仁元年(1293)の仏殿(金剛王宝殿)の落成から最後の法堂の完成まで、約15年を費やした。
建武元年(1334)に京都五山の第1位となり、その後、足利義満によって五山の上とされ隆盛し、武家から篤い信仰を受けた。
方丈(国宝)は、天正年間(1573〜92)の建立。
大方丈と小方丈からなる。
大方丈は慶長16年(1611)に御所の建物が下賜・移建されたもので、旧正親町院御所の宸殿ともいう。
小方丈は伏見城の遺構とも伝えるが定かでない。
勅使門(重要文化財)は慶長年間(1596〜1615)造営の内裏の日御門が寛永18年(1641)に下賜・移建されたもの。
三門(重要文化財)は、同5年に藤堂高虎の寄進により再建された。
楼上からは京都市街が一望でき、歌舞伎『楼門五三桐』における石川五右衛門の「絶景かな絶景かな」で知られる。
また、方丈庭園は国の名勝に指定されている。
大方丈御昼の間の金碧障壁画である「琴棋群仙図」、「二十四孝図(陸績図)」(ともに重要文化財)は狩野永徳の関与が想定されている。
小方丈虎の間の金碧障壁画「群虎図」(重要文化財)は狩野探幽の代表作で、中でも「水呑みの虎」は名高い。寺宝も数多く、亀山法皇宸翰「禅林禅寺御起願文案」(国宝)は、永仁7年(1299)に書かれ、これに従って歴代住持の選任の規定を定めたとされる。
境内は国の史跡に指定。
→琵琶湖疎水58頁、
京都五山147頁、
国宝建築203頁、
鎌倉彫牡丹模様香盒(京都の工芸)245頁
(京都検定テキスト)
(左京区南禅寺福地町)
※本尊 釈迦牟尼仏
臨済宗南禅寺派の大本山。
山号は瑞龍山。
正式には太平興国南禅禅寺。
前身は亀山天皇が文永元年(1264)に大宮院(亀山天皇の母)の御所として造営した離宮禅林寺殿。
開山は無関普門(大明国師)。
正応5年(1292)に伽藍の整備が本格化し、永仁元年(1293)の仏殿(金剛王宝殿)の落成から最後の法堂の完成まで、約15年を費やした。
建武元年(1334)に京都五山の第1位となり、その後、足利義満によって五山の上とされ隆盛し、武家から篤い信仰を受けた。
方丈(国宝)は、天正年間(1573〜92)の建立。
大方丈と小方丈からなる。
大方丈は慶長16年(1611)に御所の建物が下賜・移建されたもので、旧正親町院御所の宸殿ともいう。
小方丈は伏見城の遺構とも伝えるが定かでない。
勅使門(重要文化財)は慶長年間(1596〜1615)造営の内裏の日御門が寛永18年(1641)に下賜・移建されたもの。
三門(重要文化財)は、同5年に藤堂高虎の寄進により再建された。
楼上からは京都市街が一望でき、歌舞伎『楼門五三桐』における石川五右衛門の「絶景かな絶景かな」で知られる。
また、方丈庭園は国の名勝に指定されている。
大方丈御昼の間の金碧障壁画である「琴棋群仙図」、「二十四孝図(陸績図)」(ともに重要文化財)は狩野永徳の関与が想定されている。
小方丈虎の間の金碧障壁画「群虎図」(重要文化財)は狩野探幽の代表作で、中でも「水呑みの虎」は名高い。寺宝も数多く、亀山法皇宸翰「禅林禅寺御起願文案」(国宝)は、永仁7年(1299)に書かれ、これに従って歴代住持の選任の規定を定めたとされる。
境内は国の史跡に指定。
→琵琶湖疎水58頁、
京都五山147頁、
国宝建築203頁、
鎌倉彫牡丹模様香盒(京都の工芸)245頁
(京都検定テキスト)
天授庵 (南禅寺塔頭)
※本尊 釈迦如来
南禅寺三門の南に位置する塔頭。
南禅寺第15世住持の虎関師錬が、暦応2年(1339)に光厳天皇から勅許を得て、翌年に南禅寺開山無関普門(大明国師)の塔所として建立した。
のちに衰退したが慶長7年(1602)に細川幽斎が再興、細川家の菩提所となった。
方丈の障壁画32面は長谷川等伯の手になり、禅宗祖師図、商山四晧図、松鶴図で構成され、また画像の聖一国師(円爾)像、細川幽斎像・同夫人像、木像の大明国師像も残され、以上は重要文化財に指定されている。
枯山水庭園・淵黙庭は方形と菱形を組み合わせた石畳など幾何学的な構成を特徴とし、一方、書院南庭は天授庵創建の頃の作になる。
自然美に優れた池泉回遊式庭園となっている。
(京都検定テキスト)
※本尊 釈迦如来
南禅寺三門の南に位置する塔頭。
南禅寺第15世住持の虎関師錬が、暦応2年(1339)に光厳天皇から勅許を得て、翌年に南禅寺開山無関普門(大明国師)の塔所として建立した。
のちに衰退したが慶長7年(1602)に細川幽斎が再興、細川家の菩提所となった。
方丈の障壁画32面は長谷川等伯の手になり、禅宗祖師図、商山四晧図、松鶴図で構成され、また画像の聖一国師(円爾)像、細川幽斎像・同夫人像、木像の大明国師像も残され、以上は重要文化財に指定されている。
枯山水庭園・淵黙庭は方形と菱形を組み合わせた石畳など幾何学的な構成を特徴とし、一方、書院南庭は天授庵創建の頃の作になる。
自然美に優れた池泉回遊式庭園となっている。
(京都検定テキスト)
金地院 (南禅寺塔頭)
※本尊 地蔵菩薩
南禅寺の塔頭。
応永年間(1394〜1428)に足利義持の帰依を受けて大業(だいごう)徳基(とくき)が洛北の鷹峯に創立したという。
慶長10年(1605)頃に南禅寺の中興の開山、以心崇伝(本光国師)が現在地に移して再興した。
寛永年間(1624〜44)には大造営が行われ、本堂(方丈・重要文化財)は伏見城の旧殿とも、大阪城の御殿拝領によるものともいう。
同5年頃には東照宮(重要文化財)も建立された。
また小堀遠州を起用して茶室八窓席(重要文化財)や庭園が完成した。
庭園は方丈南に展開し、「鶴亀の庭」と称される。
遠州作庭の詳細な記録を持つことからも貴重。
国の特別名勝に指定されている。
崇伝の行った外交に関した『異国日記』2冊(重要文化財)など多数の寺宝を所蔵している。
→特別名勝庭園216頁、
庭園(武家の庭園と書院造庭園・露地と回遊式庭園)222・225・226頁
(京都検定テキスト)
※本尊 地蔵菩薩
南禅寺の塔頭。
応永年間(1394〜1428)に足利義持の帰依を受けて大業(だいごう)徳基(とくき)が洛北の鷹峯に創立したという。
慶長10年(1605)頃に南禅寺の中興の開山、以心崇伝(本光国師)が現在地に移して再興した。
寛永年間(1624〜44)には大造営が行われ、本堂(方丈・重要文化財)は伏見城の旧殿とも、大阪城の御殿拝領によるものともいう。
同5年頃には東照宮(重要文化財)も建立された。
また小堀遠州を起用して茶室八窓席(重要文化財)や庭園が完成した。
庭園は方丈南に展開し、「鶴亀の庭」と称される。
遠州作庭の詳細な記録を持つことからも貴重。
国の特別名勝に指定されている。
崇伝の行った外交に関した『異国日記』2冊(重要文化財)など多数の寺宝を所蔵している。
→特別名勝庭園216頁、
庭園(武家の庭園と書院造庭園・露地と回遊式庭園)222・225・226頁
(京都検定テキスト)
撮影機器:
感想
久しぶりの大文字山
シライトソウ・・・。
全滅のところもありましたが
まだ健在
楽しむことができました♫
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訪問者数:82人
南禅寺は三門に上がられていただいただけでした、ほんと絶景かな、でした。
シライトソウに会えてよかったですね。
良かったですね。
ところで1枚目の写真の白い花はウツギではないかと思います。
花の形と花の集合体の形が、36枚目、37枚目のエゴノキと違っています。
私は6月1日にいきましたが、大文字四つ辻付近のエゴノキの「落花の雪」は見事でした。
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