記録ID: 8535186
全員に公開
ハイキング
近畿
若狭街道針畑越(1)遠敷谷ー根来里
2015年04月26日(日) 〜
2015年04月28日(火)


- GPS
- --:--
- 距離
- 59.1km
- 登り
- 1,839m
- 下り
- 1,616m
コースタイム
1日目
- 山行
- 0:262
- 休憩
- 0:75
- 合計
- 0:00
9:23
7分
スタート地点東小浜
9:30
9:37
22分
若狭姫神社
9:59
10:19
38分
若狭彦神社・森林の水PR館
10:57
11:00
24分
鵜ノ瀬
12:50
13:35
20分
上根来廃校(昼食)
15:00
コンター370付近
■鯖だけではなかった鯖の道
※過去ログ整理です。元報は下記別ブログにありますが、地図が使い物にならなくなったので、地理院地図を使って軌跡を表しときたいための投稿です。
・手書きGoogleMapからの再編集なので、S、Gの位置が逆になったりおかしいのがあります。
・記事登録日かなにかでヤマレコで自動的に付される記事年月日は実際と違います。後日訂正します。
・引用サイトが閉鎖などでリンク切れになっているのが多いです。関連ワードで再検索をお願いします。
--------------------------------------
2015年4月26〜28日
「京は遠ても十八里」
若狭・小浜商人の余裕さえ感じられる言葉だが、一介のウォーカーにとっては「72kmは遠いわ!」小浜から京まで、一塩した鯖を背たろうて、一昼夜で(仮眠はするにしても)駆け抜けるのだからあきれてしまう。
久しぶりの街道歩きであるが、こちらはそんなことは考えずに2〜3日で歩こうと思う。コースは数ある鯖の道のなかで、小浜−遠敷―針畑越(根来越)―針畑谷−桑原―丹波越−三国岳−久多―オグロ坂−八丁平−尾越−大見−大見尾根−花背峠−鞍馬−出町の最も?正統的なコースである。
ただし、
1)小浜−遠敷はちょっと省略、
2)丹波越からクラ谷下りは道が不明なので、三国岳に迂回する、
3)鞍馬−出町は通しでなく別途あるく。
こんなヤワな条件つきとする。
10年近く前から温めてきた企画であるが、延ばし延ばしで今になった。最近、『百年前の山を旅する』(東京新聞)服部文祥著 を読んで、やっぱり歩いてみないと・・・と思った次第なのだ。
さらに・・・・
1)根来峠は行ったことはあるが小浜側からの峠越えはしていないので通しで歩く、
2)八丁平、峰床山は行ったがオグロ坂は登っていないので登ってみる(踏破後調べると、登っていた!、おまけに三国岳も登っていた!)、
3)道中、生杉、久多、尾越など懐かしい名前が出てくるので、各地の今を体感したい、ということを目的とした。
計画の過程でいろいろ調べていると「丹波越」というのがどうもよくわからない。峠までは道があるが、久多側に降りる道が判然とせず、「中腹に広い水平道が現われるが、ある地点で忽然と消えてしまう」ので、皆さん古道探しにやっきになっている。これはおもしろい。さらに、丹波越を越えてもやっぱりそこは愛宕(おたぎ)郡で山城ではないのか?愛宕郡は丹波なの?。丹波越えの尾根を越えたところが丹波だとしたら、その北にある三国岳とはなんの三国境?疑問点満載であり、そこを歩くのがおもしろいのだ。
実を言うと、心配事がある。数日前から右足のつけ根が何かの表示にキクッとして力が入らないことがある。昨年、足がつって(しびれて)小辺路を初日でリタイアしたという前科がある。これが再発したら厳しい峠越えは無理だ。その場合は、丹波越え、三国岳は省略して、遠敷―針畑越(根来越)―針畑谷−桑原−久多下の町―オグロ坂−八丁平−尾越−大見−大見尾根−花背峠−鞍馬とし、途中でのエスケープも考える。
こういうことでいざ出発
まずは2015/4/26の記録から(下記、1.2.の記事から)
その前に参考文献(WEBも含む)をあげておく。
1)『百年前の山を旅する』(東京新聞)服部文祥著
2)京都北部の山々、金久昌業 著、創元社 昭和48年3月10日発行 初版
3)近江の峠、伏木貞三 著、白河書院 昭和47年4月10日発行 初版
4)大文字を食べる;http://blogs.yahoo.co.jp/yasudaimonji/folder/1205420.html?m=l
■7回シリーズ
2015/4/26
1.遠敷谷:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-192.html
2.根来里:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-193.html
2015/4/27
3.針畑越:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-194.html
4.針畑越下り:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-195.html
5.針畑谷:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-196.html
2015/4/28
6:オグロ坂越:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-197.html
7.大見尾根:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-198.html
※過去ログ整理です。元報は下記別ブログにありますが、地図が使い物にならなくなったので、地理院地図を使って軌跡を表しときたいための投稿です。
・手書きGoogleMapからの再編集なので、S、Gの位置が逆になったりおかしいのがあります。
・記事登録日かなにかでヤマレコで自動的に付される記事年月日は実際と違います。後日訂正します。
・引用サイトが閉鎖などでリンク切れになっているのが多いです。関連ワードで再検索をお願いします。
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2015年4月26〜28日
「京は遠ても十八里」
若狭・小浜商人の余裕さえ感じられる言葉だが、一介のウォーカーにとっては「72kmは遠いわ!」小浜から京まで、一塩した鯖を背たろうて、一昼夜で(仮眠はするにしても)駆け抜けるのだからあきれてしまう。
久しぶりの街道歩きであるが、こちらはそんなことは考えずに2〜3日で歩こうと思う。コースは数ある鯖の道のなかで、小浜−遠敷―針畑越(根来越)―針畑谷−桑原―丹波越−三国岳−久多―オグロ坂−八丁平−尾越−大見−大見尾根−花背峠−鞍馬−出町の最も?正統的なコースである。
ただし、
1)小浜−遠敷はちょっと省略、
2)丹波越からクラ谷下りは道が不明なので、三国岳に迂回する、
3)鞍馬−出町は通しでなく別途あるく。
こんなヤワな条件つきとする。
10年近く前から温めてきた企画であるが、延ばし延ばしで今になった。最近、『百年前の山を旅する』(東京新聞)服部文祥著 を読んで、やっぱり歩いてみないと・・・と思った次第なのだ。
さらに・・・・
1)根来峠は行ったことはあるが小浜側からの峠越えはしていないので通しで歩く、
2)八丁平、峰床山は行ったがオグロ坂は登っていないので登ってみる(踏破後調べると、登っていた!、おまけに三国岳も登っていた!)、
3)道中、生杉、久多、尾越など懐かしい名前が出てくるので、各地の今を体感したい、ということを目的とした。
計画の過程でいろいろ調べていると「丹波越」というのがどうもよくわからない。峠までは道があるが、久多側に降りる道が判然とせず、「中腹に広い水平道が現われるが、ある地点で忽然と消えてしまう」ので、皆さん古道探しにやっきになっている。これはおもしろい。さらに、丹波越を越えてもやっぱりそこは愛宕(おたぎ)郡で山城ではないのか?愛宕郡は丹波なの?。丹波越えの尾根を越えたところが丹波だとしたら、その北にある三国岳とはなんの三国境?疑問点満載であり、そこを歩くのがおもしろいのだ。
実を言うと、心配事がある。数日前から右足のつけ根が何かの表示にキクッとして力が入らないことがある。昨年、足がつって(しびれて)小辺路を初日でリタイアしたという前科がある。これが再発したら厳しい峠越えは無理だ。その場合は、丹波越え、三国岳は省略して、遠敷―針畑越(根来越)―針畑谷−桑原−久多下の町―オグロ坂−八丁平−尾越−大見−大見尾根−花背峠−鞍馬とし、途中でのエスケープも考える。
こういうことでいざ出発
まずは2015/4/26の記録から(下記、1.2.の記事から)
その前に参考文献(WEBも含む)をあげておく。
1)『百年前の山を旅する』(東京新聞)服部文祥著
2)京都北部の山々、金久昌業 著、創元社 昭和48年3月10日発行 初版
3)近江の峠、伏木貞三 著、白河書院 昭和47年4月10日発行 初版
4)大文字を食べる;http://blogs.yahoo.co.jp/yasudaimonji/folder/1205420.html?m=l
■7回シリーズ
2015/4/26
1.遠敷谷:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-192.html
2.根来里:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-193.html
2015/4/27
3.針畑越:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-194.html
4.針畑越下り:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-195.html
5.針畑谷:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-196.html
2015/4/28
6:オグロ坂越:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-197.html
7.大見尾根:http://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-198.html
過去天気図(気象庁) | 2015年04月の天気図 |
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アクセス |
写真
自宅を5:30に出て、湖西線・近江今津経由、JRバスで遠敷着、9:06。早いといえば早いが、疲れた。今日は、できれば根来峠を越えて、焼尾地蔵堂まで、遅くても峠までは行きたい。さてどうなりますか?
■遠敷交差点(9:23)
遠敷のコンビニで水、食料調達。近くには大きなスーパーマーケットもあるので、食料調達にはもってこいだ。時間が時間なら食事もできる。3kg近く増えたので、多分15kgにはなったか。それなりにずしりとくるが苦痛なほどではない。
■遠敷交差点(9:23)
遠敷のコンビニで水、食料調達。近くには大きなスーパーマーケットもあるので、食料調達にはもってこいだ。時間が時間なら食事もできる。3kg近く増えたので、多分15kgにはなったか。それなりにずしりとくるが苦痛なほどではない。
遠敷交差点を南に入ると、遠敷昔絵図が掲示してあった。
国道27号は丹後街道なのか。ここから南に入って行く街道が「鯖街道」(の主要ルート、針畑越)。昔の名を小浜街道という。
鯖街道については、いろいろな人がコメントしているように、近年の「造語」であるそうな。
http://blogs.yahoo.co.jp/yasudaimonji/36098438.html?type=folderlist
ボクが京都北山界隈を歩いていたのは昭和42〜43年の短い期間だが、その折にも「鯖街道」というのは聞かなかった。ただし、京都人にとって祭の折りのさば寿司がなくてはならないものであるのはよく知っている。母親が京都人だからね。ことあるごとに、さば寿司は食べていた。
上記の金久氏のガイドブック、伏木氏の本でも、針畑越、根来越、根来坂の項を呼んでも、若狭に越える峠の項をみても、「鯖」の「さ」も出て来ない。
伏木氏の「近江の峠」を見ていると、針畑川流域の人々は、近江の町にでるより小浜へ出た方がよっぽど楽だった、と書いてある。小入谷から根来越えで、炭、杉皮などを運び出し、帰りに塩、干魚、日用品や買って帰る。また、冠婚葬祭用の物品全てが小浜から来たそうだ。さらに、婚姻関係も小浜との関係が深かったらしい。盆暮や、慶弔には峠を越えて、相互に親戚を訪問したのではないか。
魚売りは牛にいろんな荷を乗せて峠を越えてきたらしい。針畑谷に最後に魚売りがきたのは昭和35年だったということだ。長く続いた一つの時代が終った。それ以後、果たして良い時代になったのかどうか?
こういう話を聞くと、今言われている鯖の道は鯖だけではなかったと思わざるをえない。そういう気持で歩いて行こう。
それはともかく、絵図をみていると、おもしろい。昭和30年で、まだ魚屋の行商が現役の頃だ。生活に必要な一通りのものがそろう。薪屋、馬喰、鍛冶屋は時代を表わしている。棒屋ってのは何?まんじゅう屋が結構多い。小浜らしいのは、めのう屋。山の人たちはここまで来て薪や炭を売り、いろんな買い物をしたはずだ。
国道27号は丹後街道なのか。ここから南に入って行く街道が「鯖街道」(の主要ルート、針畑越)。昔の名を小浜街道という。
鯖街道については、いろいろな人がコメントしているように、近年の「造語」であるそうな。
http://blogs.yahoo.co.jp/yasudaimonji/36098438.html?type=folderlist
ボクが京都北山界隈を歩いていたのは昭和42〜43年の短い期間だが、その折にも「鯖街道」というのは聞かなかった。ただし、京都人にとって祭の折りのさば寿司がなくてはならないものであるのはよく知っている。母親が京都人だからね。ことあるごとに、さば寿司は食べていた。
上記の金久氏のガイドブック、伏木氏の本でも、針畑越、根来越、根来坂の項を呼んでも、若狭に越える峠の項をみても、「鯖」の「さ」も出て来ない。
伏木氏の「近江の峠」を見ていると、針畑川流域の人々は、近江の町にでるより小浜へ出た方がよっぽど楽だった、と書いてある。小入谷から根来越えで、炭、杉皮などを運び出し、帰りに塩、干魚、日用品や買って帰る。また、冠婚葬祭用の物品全てが小浜から来たそうだ。さらに、婚姻関係も小浜との関係が深かったらしい。盆暮や、慶弔には峠を越えて、相互に親戚を訪問したのではないか。
魚売りは牛にいろんな荷を乗せて峠を越えてきたらしい。針畑谷に最後に魚売りがきたのは昭和35年だったということだ。長く続いた一つの時代が終った。それ以後、果たして良い時代になったのかどうか?
こういう話を聞くと、今言われている鯖の道は鯖だけではなかったと思わざるをえない。そういう気持で歩いて行こう。
それはともかく、絵図をみていると、おもしろい。昭和30年で、まだ魚屋の行商が現役の頃だ。生活に必要な一通りのものがそろう。薪屋、馬喰、鍛冶屋は時代を表わしている。棒屋ってのは何?まんじゅう屋が結構多い。小浜らしいのは、めのう屋。山の人たちはここまで来て薪や炭を売り、いろんな買い物をしたはずだ。
若狭姫神社は、由緒によると、ご祭神は若狭姫大神で、龍宮伝説で名高い豊玉姫命を若狭姫大神とたたえて奉祀する、とある。神話では、豊玉姫命は火遠理命(ホオリノミコト、山幸彦・日子穂穂手見命)と結ばれ、海辺の渚に鵜の羽を茅葺きの材料として産屋を作り、ウガヤフキアエズを出産する。 火遠理命がこっそりのぞき見ると、豊玉毘売命の姿は八尋和迩(ワニ)となっていたという。まさしく海人の神様だ。
まず目につくのは巨大な御神木、千年杉。水の豊かさを表わしているのだろう。
まず目につくのは巨大な御神木、千年杉。水の豊かさを表わしているのだろう。
子種石。陰陽石とのことだが、ちょっと厳しいか?
ご祭神が若狭姫大神=豊玉姫命ということから、安産の神様となっている。いきなり安産という現世利益に結びつけられて若干の面食らいがあるが、女性の参拝者(それも親娘)が多かった。
ご祭神が若狭姫大神=豊玉姫命ということから、安産の神様となっている。いきなり安産という現世利益に結びつけられて若干の面食らいがあるが、女性の参拝者(それも親娘)が多かった。
■水の遠敷みち
街道をあるいていくと、地蔵祠がある。それもそう古くはない立派な覆屋を備えている。 このスタイルはこの街道沿いにいくつも見かけることになる。実は、若狭姫神社の横にもちょっと小ぶりの地蔵祠があったが、写真を撮り漏らした。おそらく、旅人の緊急避難時の休憩や宿泊もできるようにしてあるのだと予想するのだが・・・
街道をあるいていくと、地蔵祠がある。それもそう古くはない立派な覆屋を備えている。 このスタイルはこの街道沿いにいくつも見かけることになる。実は、若狭姫神社の横にもちょっと小ぶりの地蔵祠があったが、写真を撮り漏らした。おそらく、旅人の緊急避難時の休憩や宿泊もできるようにしてあるのだと予想するのだが・・・
小浜は「御食国(みけつくに)」で海産物がメインと思われがちだが、コメもうまいのでは。なにしろ水の国といってもよいはずなので・・・遠敷谷には豊かな田園が広がっている。
正面遠くに見えるのは百里ヶ岳か。ここから百里はないけれど、3里はある。あの山脈を越えねばならないのだ。
正面遠くに見えるのは百里ヶ岳か。ここから百里はないけれど、3里はある。あの山脈を越えねばならないのだ。
■若狭彦神社(10:07)
若狭彦神社に寄ってみよう。
下社の若狭姫神社とペアの神社。こちらが若狭彦神社上社。ご祭神は若狭彦大神(彦火火出見尊)。
この若狭彦神社は、和銅7年(714)に遠敷郡下根来村白石に創建され、元正天皇の霊亀元年(714)に現在地へ遷座したとある。元々は下根来の神社だったのだ。創建の地である下根来村白石は遠敷川のさらに上流、鵜ノ瀬の傍だ。見てきた人もいるようで、若狭彦大神は、白石の上に始めて垂迹し、その姿は唐人のようであったという。眷属が八人。なにやら、渡来人がこの神様をもたらし、住みつき始めたことを表わしているようだ。
なお、下社の若狭姫神社は、元正天皇・養老5年(721)に上社より分祀したとのことだ。
若狭彦神社に寄ってみよう。
下社の若狭姫神社とペアの神社。こちらが若狭彦神社上社。ご祭神は若狭彦大神(彦火火出見尊)。
この若狭彦神社は、和銅7年(714)に遠敷郡下根来村白石に創建され、元正天皇の霊亀元年(714)に現在地へ遷座したとある。元々は下根来の神社だったのだ。創建の地である下根来村白石は遠敷川のさらに上流、鵜ノ瀬の傍だ。見てきた人もいるようで、若狭彦大神は、白石の上に始めて垂迹し、その姿は唐人のようであったという。眷属が八人。なにやら、渡来人がこの神様をもたらし、住みつき始めたことを表わしているようだ。
なお、下社の若狭姫神社は、元正天皇・養老5年(721)に上社より分祀したとのことだ。
こちらの上社のほうも、結構な参拝者があった。上下あわせて、若狭一宮だからね。
案内によると・・・
「御神徳
御両社の創建は奈良時代にして、「海幸・山 幸」の神々の御神徳は悠久の時を重ねて広大 無辺なるも、就中、農林商業、漁業、縁結 び、安産育児、学問、厄除け、交通安全等の 信仰が深く、また、畳、敷物業の守護神とし て、特に近畿地方で名高く、今も遥々と参詣 される人々があとを絶たない。更に、昨今の 生活様式の多様化に伴い、インテリア装飾の 関係者も事業の発展を祈られる。」と。
タタミ、敷物業の守護神とはどういう経緯なのだろう?
案内によると・・・
「御神徳
御両社の創建は奈良時代にして、「海幸・山 幸」の神々の御神徳は悠久の時を重ねて広大 無辺なるも、就中、農林商業、漁業、縁結 び、安産育児、学問、厄除け、交通安全等の 信仰が深く、また、畳、敷物業の守護神とし て、特に近畿地方で名高く、今も遥々と参詣 される人々があとを絶たない。更に、昨今の 生活様式の多様化に伴い、インテリア装飾の 関係者も事業の発展を祈られる。」と。
タタミ、敷物業の守護神とはどういう経緯なのだろう?
■森林の水PR館(10:09)http://mori-pr.com/
神社のすぐそばに森林の水PR館があったので、寄ってみた。遠敷の水、お水送りの展示、イベント開催、土地の物産品の展示販売をしている。喫茶エリアがあり、軽食やコーヒーも飲める。コーヒーをいただいた。土地の人らしい数人がいて、だべっていた。この手の施設によくありがちな閉鎖的な感じもなく、気持のよいところだった。お客の一人と少しおしゃべり。小浜の人は人懐っこい気がする。山の帰りならもっとゆっくりするのだが、「これから登って鞍馬まで」というので、10分ほどで、ウエイトレスに見送られながら出発。
神社のすぐそばに森林の水PR館があったので、寄ってみた。遠敷の水、お水送りの展示、イベント開催、土地の物産品の展示販売をしている。喫茶エリアがあり、軽食やコーヒーも飲める。コーヒーをいただいた。土地の人らしい数人がいて、だべっていた。この手の施設によくありがちな閉鎖的な感じもなく、気持のよいところだった。お客の一人と少しおしゃべり。小浜の人は人懐っこい気がする。山の帰りならもっとゆっくりするのだが、「これから登って鞍馬まで」というので、10分ほどで、ウエイトレスに見送られながら出発。
仁王門は、神宮寺北の玄関口である。前庭には古めかしい訪印塔の残骸。門は室町建築の先駆らしい。両端に木造金剛力士像が安置されているが、片方の写真がボケていたので省略させていただいた。至徳2年(1385)の作という。
若狭神宮寺は天台宗の寺院。若狭一の宮の神願寺として成立、元正天皇の勅命により和銅7年(714)に創建したといわれる。中世には隆盛を誇ったが、豊臣時代に寺領を没収され、さらに明治初期の廃仏毀釈で衰退した。支配のためには都合が悪かったのだろうが、基本的に、こういうことをする輩はきらいだ。
若狭神宮寺の由来を調べると、
「この地方は若狭の中心で、白鳳以前からひらけており、谷は上陸した大陸や半島の文化が大和へ はこばれる最も近い道であった。この地方を拓き国造りをした祖先が遠敷明神(若狭彦命)で、発祥地が根来の白石で あった。遠敷明神の直系孫和朝臣赤麿が、8世紀初め山岳信仰で銅鐸をもった先住のナガ族の王を金鈴に表し、地主の 長尾明神として山上に祀り、その下に神願寺を創建した。根来白石に祀られていた遠敷明神を神願寺に迎え神仏両道の 道場にした。これが若狭神願寺の起源である。鎌倉時代には若狭彦神社の別当寺となって神宮寺と改称した。
根来白石の神童が長じて東大寺開山堂の良弁僧正になった繋がりから、奈良二月堂のお水取り行法の水は若狭井(東大寺)の水が 使われており、この水は神宮寺の閼伽井戸(あかいど)の水を3月2日に遠敷川の鵜之瀬へ流すこと(水送り)で 3月12日に到達するといわれている。(神宮寺 leaflet より) 」
なるほど、先住民たるナガ族を敬い、長尾明神として山上に祀ったところから始まるのか。これは重要な指摘である。
奈良東大寺二月堂のお水取りの水は、毎年3月2日にこの神宮寺から送った香水が使われるのだ。我々は「お水取りが終れば春」というのを実感しているが、こちらでは「お水送り」終わると春なのだ。
若狭神宮寺は天台宗の寺院。若狭一の宮の神願寺として成立、元正天皇の勅命により和銅7年(714)に創建したといわれる。中世には隆盛を誇ったが、豊臣時代に寺領を没収され、さらに明治初期の廃仏毀釈で衰退した。支配のためには都合が悪かったのだろうが、基本的に、こういうことをする輩はきらいだ。
若狭神宮寺の由来を調べると、
「この地方は若狭の中心で、白鳳以前からひらけており、谷は上陸した大陸や半島の文化が大和へ はこばれる最も近い道であった。この地方を拓き国造りをした祖先が遠敷明神(若狭彦命)で、発祥地が根来の白石で あった。遠敷明神の直系孫和朝臣赤麿が、8世紀初め山岳信仰で銅鐸をもった先住のナガ族の王を金鈴に表し、地主の 長尾明神として山上に祀り、その下に神願寺を創建した。根来白石に祀られていた遠敷明神を神願寺に迎え神仏両道の 道場にした。これが若狭神願寺の起源である。鎌倉時代には若狭彦神社の別当寺となって神宮寺と改称した。
根来白石の神童が長じて東大寺開山堂の良弁僧正になった繋がりから、奈良二月堂のお水取り行法の水は若狭井(東大寺)の水が 使われており、この水は神宮寺の閼伽井戸(あかいど)の水を3月2日に遠敷川の鵜之瀬へ流すこと(水送り)で 3月12日に到達するといわれている。(神宮寺 leaflet より) 」
なるほど、先住民たるナガ族を敬い、長尾明神として山上に祀ったところから始まるのか。これは重要な指摘である。
奈良東大寺二月堂のお水取りの水は、毎年3月2日にこの神宮寺から送った香水が使われるのだ。我々は「お水取りが終れば春」というのを実感しているが、こちらでは「お水送り」終わると春なのだ。
さらに上流に進む。あそこの川べりの森が鵜ノ瀬のようだ。 ちょうどクルマで乗りつけた家族?がたくさんの荷物をおろしていた。キャンプでもできるのかどうか?ここを少し降りれば給水所があるらしいが、行かなかった。
「鵜の瀬」由緒記」
天平の昔 若狭の神願寺(神宮寺)から奈良の東大寺にゆかれた印度僧 実忠和尚が大仏開眼供養を指導の后、天平勝宝四年(七五三)に二月堂を創建し修二会を始められ、その二月初日に全国の神々を招待され、すべての神々が参列されたのに 若狭の遠敷明神(彦姫神)のみは見えず、ようやく二月十二日(旧暦)夜中一時過ぎに参列された。
それは川漁に時を忘れて遅参されたので、そのお詫びもかねて若狭より二月堂の本尊へお香水の閼伽水を送る約束をされ、そのとき二月堂の下の地中から白と黒の鵜がとび出てその穴から泉が湧き出たのを若狭井と名付けその水を汲む行事が始まり、それが有名な「お水取り」である。
その若狭井の水源がこの鵜の瀬の水中洞穴で、その穴から鵜が奈良までもぐっていったと伝える。この伝説信仰から地元では毎年三月二日夜この淵の根来八幡へ神人と神宮寺僧が神仏混淆の「お水送り」行事を行う習いがある。
小浜市(若干段落整理)
----------------------------------------------------------------------
神宮寺の水をここに流すと、二月堂まで繋がっていて、そこで「お水取り」が行われるのだ。元はといえば、魚取りに夢中になって遅刻した遠敷明神のおかげで、ユーモラスな伝統行事が続いているのだ。
天平の昔 若狭の神願寺(神宮寺)から奈良の東大寺にゆかれた印度僧 実忠和尚が大仏開眼供養を指導の后、天平勝宝四年(七五三)に二月堂を創建し修二会を始められ、その二月初日に全国の神々を招待され、すべての神々が参列されたのに 若狭の遠敷明神(彦姫神)のみは見えず、ようやく二月十二日(旧暦)夜中一時過ぎに参列された。
それは川漁に時を忘れて遅参されたので、そのお詫びもかねて若狭より二月堂の本尊へお香水の閼伽水を送る約束をされ、そのとき二月堂の下の地中から白と黒の鵜がとび出てその穴から泉が湧き出たのを若狭井と名付けその水を汲む行事が始まり、それが有名な「お水取り」である。
その若狭井の水源がこの鵜の瀬の水中洞穴で、その穴から鵜が奈良までもぐっていったと伝える。この伝説信仰から地元では毎年三月二日夜この淵の根来八幡へ神人と神宮寺僧が神仏混淆の「お水送り」行事を行う習いがある。
小浜市(若干段落整理)
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神宮寺の水をここに流すと、二月堂まで繋がっていて、そこで「お水取り」が行われるのだ。元はといえば、魚取りに夢中になって遅刻した遠敷明神のおかげで、ユーモラスな伝統行事が続いているのだ。
八幡神社を過ぎて、林道が分岐するところで水休憩。森林の水PR館のコーヒー以来、休憩なしで1時間15分ほど歩いたので、水を補給する。今日は結構暑いので水を飲まないと・・・
ここで下根来の集落はおしまい。バス停と、転回所があった。「下根来唯一の転回所なので駐車しないように」との看板がある。
ここで下根来の集落はおしまい。バス停と、転回所があった。「下根来唯一の転回所なので駐車しないように」との看板がある。
この急坂をみてへたり込んでしまった(12:30)ちょっと水休憩。
ここでトレランの2人が追い抜いて行った。5月にある鯖街道マラニックの予行演習だろうか?
立ち上がろとした瞬間、足がつった。普通、足がつった場合、足の親指を手前に引っ張ってふくらはぎを延ばせば直るのだが、今回はそれでは効かない。かなり重症のようだ。まだ3時間しか歩いていないが、汗はかなりかいたので、おそらくはミネラルバランスの問題か、それとも持病ぎみになっている椎間板の圧迫で神経を刺激しているものか?これは今日中に峠越えは無理かもしれない。
症状も治まったので、とりあえず上根来、峠の取りつきまでは行くことにする。ここで1台のクルマ(軽)が追い抜いて行った。
ここでトレランの2人が追い抜いて行った。5月にある鯖街道マラニックの予行演習だろうか?
立ち上がろとした瞬間、足がつった。普通、足がつった場合、足の親指を手前に引っ張ってふくらはぎを延ばせば直るのだが、今回はそれでは効かない。かなり重症のようだ。まだ3時間しか歩いていないが、汗はかなりかいたので、おそらくはミネラルバランスの問題か、それとも持病ぎみになっている椎間板の圧迫で神経を刺激しているものか?これは今日中に峠越えは無理かもしれない。
症状も治まったので、とりあえず上根来、峠の取りつきまでは行くことにする。ここで1台のクルマ(軽)が追い抜いて行った。
学校の坂道を登る途中、またつった。とりあえずここでへたり込み様子を見る(12:52)。
一人の青年がカメラを持ってうろついていた。さっき追い抜いて行った軽の青年だった。なんでも、ちょうど連休前に休みが取れ、若狭自動車道もできたので、岐阜からきたとのことだった。どうもいわゆる「廃墟」ファンのようで、古い廃校の写真を撮りに来たらしい。10分ほどしゃべって、彼は舞鶴のほうまで行くと言って帰って行った。
とりあえず昼食としながら行く末を考える。
一人の青年がカメラを持ってうろついていた。さっき追い抜いて行った軽の青年だった。なんでも、ちょうど連休前に休みが取れ、若狭自動車道もできたので、岐阜からきたとのことだった。どうもいわゆる「廃墟」ファンのようで、古い廃校の写真を撮りに来たらしい。10分ほどしゃべって、彼は舞鶴のほうまで行くと言って帰って行った。
とりあえず昼食としながら行く末を考える。
昼食後、足馴らしも兼ねて、教室の中を覗いてみたり、水を確認したり。
ガラス越しにみると炊事場のようだった。はり紙があって、「鋳物製の風呂釜にヒビが入っているので、お湯はヒビにかからないように下のほうまで・・・」というような意味のことが書かれていた。
ガラス越しにみると炊事場のようだった。はり紙があって、「鋳物製の風呂釜にヒビが入っているので、お湯はヒビにかからないように下のほうまで・・・」というような意味のことが書かれていた。
廃墟ファン?の青年も言っていたが、「これだけの施設が朽ちるに任せるのはもったいないな、何かに使えないかな」 地元の山の会などがボランティアで最低限のお世話をしてくれているようだが、あまり利用されてないみたいだ。使わないと朽ちて行くばかりだが、小浜の人はともかく、鯖街道のそばにこんなにすばらしい施設があるということを、大阪や京都の人は知らない。鯖街道のPRの一部でも割いて、もう少し宣伝して行けば使い手も現われると思うのだが・・・・登山者に一部でもよいから解放してくれればありがたい。
足の調子は少し戻ってきたので、もう少し上根来に登ってみることにする。
足の調子は少し戻ってきたので、もう少し上根来に登ってみることにする。
さらに登って行くと、上根来の最高点あたりに出た。左の民家前には道標があり、ここから木地山峠に登れるようだ。木地山峠は昔、峠越えを企画して実現できなかった峠だ。ぜひ越えてみたい峠だ。左手の丘の上には何か開墾しているようだった。確認はしていないけど・・・
谷を渡ったところで、再び足がつった(14:00)。この時点で峠の登り口付近でビバーグ決定。自動的に丹波越、三国岳も中止して、針畑川沿いに久多下まで下ることにする。休憩していると、登山者3人が下山して行った。
■さかじり
「さかじり」とは先程の案内看板にあった地名である。さかは山へんに反、じは止、りは里とかく。坂尻のことだろう。ここには廃牛舎がある。金久氏の「京都北部の山々」には三軒家とある場所だ。
明日は目の前の尾根を登り、平坦な尾根上を歩いて、真中にポッコリ突き出たピークを巻いて根来峠に至るみたいだ。ポッコリ山を巻く林道がよく見える。典型的な尾根筋を通る峠である。
「さかじり」とは先程の案内看板にあった地名である。さかは山へんに反、じは止、りは里とかく。坂尻のことだろう。ここには廃牛舎がある。金久氏の「京都北部の山々」には三軒家とある場所だ。
明日は目の前の尾根を登り、平坦な尾根上を歩いて、真中にポッコリ突き出たピークを巻いて根来峠に至るみたいだ。ポッコリ山を巻く林道がよく見える。典型的な尾根筋を通る峠である。
牛舎から道路を隔てたちょっとした広場に、またもや地蔵祠があった。真新しいものだ。最後の最後まで地蔵様が祀ってある。ちょっと見落としたが、ここには古い地蔵祠も残っているようだ。なんという地蔵信仰の深い土地なのだ。この峠道を大事にしてきた、そして今も大事にしている小浜、根来の人々の心が伝わってくる。
横にあるのは先の大戦の戦没兵士の慰霊碑だ。今まで写真には撮らなかったが、それこそ在所ごとに1つは建っていた。結果的に、村の代表という形で出征し、帰還することができなかった。厳しい山村の生活を離れればさらに過酷な運命が待っていた。さぞ無念であったろう。戦争を始めた人間に何か言いたい気もするが、ここは黙って合掌しておこう。
横にあるのは先の大戦の戦没兵士の慰霊碑だ。今まで写真には撮らなかったが、それこそ在所ごとに1つは建っていた。結果的に、村の代表という形で出征し、帰還することができなかった。厳しい山村の生活を離れればさらに過酷な運命が待っていた。さぞ無念であったろう。戦争を始めた人間に何か言いたい気もするが、ここは黙って合掌しておこう。
■テント場探し
次セクションのurlの一部もこのセクションに含めることとした。
https://stellabyhydra.blog.fc2.com/blog-entry-194.html
足の様子を見るので、早々とビバーグとする。
ここが最終の水場なので、沢に降りて水を2L汲む(14:27)。コンビニで買った水より若干濁っていたが、まあ飲めるでしょう。コンビニ水の手持ちが2L近くあるので、1泊には十分だ。この看板の裏にもテントは張れるが、かんかん照りなのでやめた。
次セクションのurlの一部もこのセクションに含めることとした。
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足の様子を見るので、早々とビバーグとする。
ここが最終の水場なので、沢に降りて水を2L汲む(14:27)。コンビニで買った水より若干濁っていたが、まあ飲めるでしょう。コンビニ水の手持ちが2L近くあるので、1泊には十分だ。この看板の裏にもテントは張れるが、かんかん照りなのでやめた。
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