倉岳山 〜錦秋の山で団塊世代の大学生同期会〜
- GPS
- 05:51
- 距離
- 9.6km
- 登り
- 873m
- 下り
- 913m
コースタイム
天候 | 快晴 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2021年11月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
北西尾根の720m(クヌギ平からのVRとの合流点)より下のルート部分は、山梨県東部の山登山詳細図(東編)にも記載のないバリエーションルートです。ここまで、急登部は落ち葉の堆積した黒土で、登るのに難渋した。下りに使うのは、やめたほうがよいと思われます。 |
写真
感想
倉岳山山頂で高畑山からの単独行の女性にあったのみで紅葉の時期にも関わらず静かな山行を楽しめた。
団塊の世代は小中高さらには大学と最も人口が多い世代であったが、今回確認するとそれそろ団塊ジュニアに取って代わられる状況であることを確認した。さすがに団塊ジュニアより時間的に余裕があるのであろう、山で会う人は年配者が多いような気がする
https://dashboard.e-stat.go.jp/pyramidGraph?screenCode=00570®ionCode=00000&pyramidAreaType=2
昨年春からほとんど単独行でたVRを登っていたため、大学の友人たちよりペースが速すぎた。次は、北ルートから登ってみたい。
半世紀前の大学生仲間と山登りをして久闊を叙す。
kichichanとはコロナ感染のこともあり、2年半ぶり。あの時は、同じく鳥沢から大桑山・高畑山を巡った。
T君とは、実に2007年の高野山町石道以来である。
せっかく上るのだからと、バリエーションルートの北西尾根で山頂へ。この尾根は、左右とも針葉樹の植林帯がなく、期待通りの黄葉が楽しめた。しかし、3度ほど現れた急登個所は、落ち葉の積もった黒土で足を取られやすく、ストックを使ってフウフウ言いながら登る。テープと境界柱をたどれば道を間違うことはないので、この山域に習熟した人なら、登りには使えるだろう。
山頂は風もない好天、富士を眺めながら、ベンチに座ってゆっくり昼ご飯を食べる。古い仲間と70歳を超えて元気に山登りできるのは、幸せなことである。
さて、この季節になると、もうつるべ落としの秋の日差しである。寄り道をしないで立野峠から快適な下り道を梁川駅へと急いだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/恩賜林
一方そこで記載されているように、江戸時代において山林は入会権を有する村落により管理されていたことを実感していた。
以下によれば法人格を有する共有地になったことを理解した。明治時代を通して国の財政基盤などを形成していったことが理解できた。
明治三十二年(1899)には国有土地森林原野下戻法を制定して、旧来「所有の事実」の明らかなものは申請によって、その土地の下戻をした。こうして一且官地になったものも、元の村や部落の所有地に戻ったのであるが、この時の村は江戸時代の村とは性格がちがい、法律的に定められた法人となっていたから昔の入会地は村の財産となって、村民全体の財産ではなくなった。又部落は法人格をもたないからそれ自身で財産をもつことが出来ず、代表者数人の共有地の名儀になったものが多い。
http://www.ranhaku.com/web06/01chishi/10_086.html
いろいろ触発されて理解することが多い
お疲れ様。
恩賜林については、山梨県が江戸の享保9年(1724年)以降、幕府直轄領であったことがその素地にあると思っています。でなければ、山梨県全体の約3分の1にも及ぶ山林が下賜されることは考えにくいのではないでしょうか。
ところで、入会権という言葉がありますが、「村落共同体等が、主として山林原野において土地を総有などし、伐木・採草・キノコ狩りなどの共同利用を行う慣習的な権利」で、団塊世代の大学生が習った知識では、明治の民法典の制定の際に所有権、地上権といった物権の一つに位置付けられたものです。ただ、その権利内容は、地域の慣習によって異なってくるのが実情です。
また、コメントの中にある「国有土地森林原野下戻法」に関連して思い出したのが、森蘭丸が城主を務めた美濃金山城跡に登った時のこと。山中に広がるスケールの大きな城郭遺構を巡っていくと、「古城山払下げ記念碑」に出会いました。この山は、藩政時代尾張藩の留山で、明治以降は皇室の御料林。それが戦後国有林になり、昭和28年にようやく地元に払い下げられたのだそうです。記念碑は、その翌年に建てたもののようで、いかにも地元の人たちの長年の宿願だったことが理解できるものでした。
ただ、このケースでは、長く払い下げが行われなかったことが、かえって貴重な城郭遺構が残った要因であったと思われました。
「中仙道 〜播隆碑・美濃金山城を巡りて〜」2019年12月09日
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-2138599.html
http://fukuoka-enplan.com/blog/2017/09/15/歴史を紐解く(廃藩置県)- 山梨県編/
山梨県は、江戸時代の一時期、僅か70年余しか藩が存在しておらず、ほぼ江戸時代を通じて天領だったと言って良いでしょう。しかも明治政府により3つの代官所に県を設置したものの僅か数ヶ月で甲斐府に統合され、その後、明治4年(1871年)の廃藩置県で甲府県となり、明治9年(1876年)には、山梨県となっています。
過去の知識で天領と考えましたが、【近年は幕府の直轄地の呼称は「天領」から「幕領」と呼ぶ傾向になっている。全国の歴史教科書なども「幕領」への表記の変更が進められている】ことを初めて知りました。
山梨県地域は膨大ですね
https://gakusyu.shizuoka-c.ed.jp/shakai/eidojidai/06_1edo_tyokkaturyou.htm
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