奈良葛城3:横大路・竹ノ内街道から二上山・橿考研経由五條を目指すも風の森峠付近でダウン
- GPS
- 12:42
- 距離
- 68.9km
- 登り
- 828m
- 下り
- 801m
コースタイム
- 山行
- 11:47
- 休憩
- 0:55
- 合計
- 12:42
天候 | 曇りのち雨 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2015年08月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
写真
感想
4時半に起床、支度をして5時前に出発、桜井駅の南、横大路がどこだか、道標などないのではっきりわからないーー散歩する人、ガススタンドの人などに確認するが、不明のまま、ここと事前にチェックした地点からとりあえず進む。道はまっすぐ進み、家並みも蔵があったり。古っぽい街並みが続くので、多分間違いないだろうとは思うが、確信を持つ証拠が見当たらないーー。ただ道がまっすぐなこと、家並みが立派なことが古くからの道であることを確信させる――そのうち出発から25分くらいで、三輪神社前に出る。鳥居のわきに「横大路」の幟を見る――やったね、これで横大路を走った確信が持てるーーさらに12分ほど進み、八木札の辻に出る。ここは横大路と下ツ道の交差点だった。撮影を終えて大和八木駅に向かい、不要な荷物をロッカーにデポ、ここで少し道に迷うが、横大路に復帰する。途中、大和高田市の大中公園の緑の道標を通過、その後、当麻駅に向かってしまうことに気づき、再び横大路~竹内街道をひたすらすすもうとするが、次第に葛城の地に近づくにつれて上り坂になる。試行錯誤の末、165号線に出て、石光寺から鳥谷口古墳に向かう道に入る。165号線からは当麻寺の二つの塔が見え、強い印象を受ける。この先結構道に迷う。紆余曲折の結果、なんとか古墳に出て、その先の駐車スペースでチャリを置く。まだ日差しは強くなく登りは少ないので、チャリ用ボトルを置いていく。
駐輪場から20分弱で祐泉寺、こじんまりした山寺だ。紅葉の時に訪問してみたい場所。先が長いのであまり無理せずゆっくり上る。25分位登って、馬ノ背に出る。
馬ノ背で荷物を置いて雄岳に向かう。結構標高差や距離があり、20分以上かヵって雄岳に出る。途中少し分岐で間違った道に入ったりした。雄岳の出てから、大津皇子の墓の石碑を見て、馬ノ背経由で雌岳山頂に行き、再び馬ノ背に戻って、登山口に下山する。祐泉寺から二時間15分で往復したが、予定より全体的に1時間遅れている。出発が少し遅れたのと、全体的に初めてのコースで、確信が持てなかったので何度もナビを見直したり、道を聞いたりしたためだろうか?時間が無くなって、結局当麻寺に行けなかったので、当麻寺の開門時間より早いとしても、最初から当麻寺を通って鳥谷口古墳に至る道を追求すべきだった。10時過ぎに香芝の二上山博物館に出る。この博物館はこの地域では珍しい石と石器を中心とする博物館で、古墳時代では凝灰岩を使った石棺などが見られるが、二上山周辺の石材は旧石器時代から現代まで様々な形で利用され続けたという。「サヌカイト」「金剛砂」「凝灰岩」の三つの石を中心に太古の昔から古代、現代と続く人の営みを石を通して考えるための良い資料を提供してくれている。明治時代にドイツの地質学者が讃岐地方で発見し、命名した「サヌカイト」は硬く緻密な岩石で輝石安山岩が主体の火山岩、佐賀県から四国、二上山などで産出し、旧石器時代から打製石器、磨製石器として多用された。本州中部地方を中心に使われた下呂石はこれと似るがよりガラス質が強いらしい。北海道や中部地方では黒曜石が多用され、石材利用には地方色があるものの、便利な石材は旧石器時代から全国規模で広範囲に遠距離を移動、利用されてきた。
「金剛砂」は「ザクロ石=ガーネット」のことで非常に硬いため、古くから研磨材として、知られてきた。続日本紀には玉の研磨の功績をたたえられた工人の話しが出ており、現代ではサンドペーパーの原料として多用されている。
「凝灰岩」は火山灰が固まってできたもので、柔らかく加工しやすいのが特徴、ふるくから石造物に加工されてきた。とりわけ古墳時代には石棺として使われ、二上山周辺で切り出されたほか、全国各地から船で運ばれたようだ。
サヌカイトのような石器の材料になった石はともすれば「石器時代」にしか使われなかったと思われがちだが、少なくとも弥生時代までは石庖丁、石斧その他として、まだ金属が貴重品で生産量が少なかった時代はむしろ石が多用された。鉄や銅などは、最先端の武器や仏像、貨幣、馬具など最先端の道具類に使われ、人々の暮らしの中では石器が使われる時代が長かったようだ。大和盆地も突然政権の中心として出現したのでなく、長い長い歴史があったことを感じさせてくれる博物館だった。ゆっくり見学したいところだが、今日は五条までいかねばならない。また荷物を置いてきた大和八木駅まで荷物を取りに戻り、ついでに橿原考古学研究所(博物館)でこれから訪問する南郷遺跡群など葛城氏関連の遺跡に関して、情報収取をしなければならない。
二上山博物館を出ると、ザーザー降りの雨、少し走ってみたが雨が激しいし、時間も11時を回ったので、昼食休憩をとることにした。中々店が見つからず、ランチをやっているすし屋を見つけ、そこで温かいにゅうめんと寿司のランチ定食を注文、雨で体が冷えてしまったからだ。今回は雨具を持ってきたものの、雨具は群れて暑い上にすでに大量の汗でサイクル用シャツもサイクルパンツもビショビショなので、雨具を着る気がしない。雨が止めば、走っているうちにあらかた体温と日差しで乾いてしまうのが夏のサイクリングだ。しかし体は一時的に冷えるので、体力消耗は避けられない。エネルギーと熱を補給して、12時前に大和八木、橿考研を目指す。今度は横大路とは打って変わって、「中和幹線」という大きな国道を使う。距離的には大和八木まで10?強で大したことないが、いくつも鉄道や川を越えるたびに大きな陸橋を越えたり、時には自転車禁止で、大回りしたり、線路に阻まれてそれを越える道を探したり−−(たいていの場合、地下に直進の道があった)ーーママチャリでは予想外に時間がかかった。1時前に大和八木駅で荷物を回収し、橿考研に到着、事前にFAXや電話で質問を送り、連絡を取っていた情報コーナーの垣内さんのところに行って、友史会の地図や遺跡見学会の資料などを閲覧し、必要な箇所をコピーする。垣内さんは私の送った質問に関して丁寧に調べてくださり、不明なところを学芸員らに問い合わせて下さった。ただし、各学芸員さんは来客その他でとても忙しく、結局3時近くまでかかってしまった。ホケノ山の遺物のC14年代に関する問題は、橿考研の研究者の論文は探していただいたが、その著者の方は忙しくて捕まらなかった。桜井茶臼山や、室大墓、佐味田宝塚などの古墳の遺物の展示に関しては、今回はじっくり見る時間が無くなってしまった。室大墓の家形埴輪は昨年の記録をチェックすると見ていたようだがーー。
今日は当麻寺には行けず、橿原市歴史博物館も割愛して、今日の最終ポイントの五条を目指す。橿原市から飛鳥を抜けて中街道から吉野口、和歌山に向かう120号線を通り、北宇智を経て五条に至るのだがーー。吉野口を過ぎて、おそらく葛駅付近で、疲労感が漂い、唯一見かけた店でソフトクリームを食べて休憩、体力回復を図る。今日は二上山も登り、60?近い長いチャリ漕ぎと五条に向かう長い登り、雨に打たれての体力消耗が激しく、北宇智付近まで登って体力が尽きた。体力だけでなく、朝からナビを使っていたスマホも電源が切れた。もうこれ以上ママチャリで漕ぎたくない――と思ったら、道を間違えて工業団地の方に出てしまう。道でであった福祉施設の女性職員の方と話をして、このあたりは交番もないし駅に行ってもタクシーもない。五条の旅館にも連絡を取っていただいたが、迎えに来ることはできないということで、近所にあるタクシー会社に自転車を預けて、タクシーで五条の旅館に向かうことにした――。チャリダーとしては、お恥ずかしい限りだ。本来の予定では橿原市から別の施設を経由して下街道から風の森峠を経て五条まで走るつもりだったために、この北宇智あたりの地図、地形、道を余り頭に入れておらず、工業団地がどのあたりにあるのかわからなかったために、余計に五条まで行く自信がなくなった。ただし結果から見て、これは体力を温存する良い選択だったかもしれない。
自転車をタクシー会社の事務所脇に置き、五條に向かう。タクシーの中で気づいたのは下街道に出るとすでに風の森峠を越えた地点なので、後は下りだった。これじゃ、少し休憩すればチャリでも行けたな――、とは思ったが、体力は温存できる。これは大きかった。5時半には旅館に到着して疲労の回復に努めた。工業団地で出会った親切な女性に感謝。
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