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わし 広島じゃけえ、どうしても「原爆」がらみが切り離せん。
じいちゃんは明治43(1910)年5月20日生まれ。 生きとったら115歳になるが、平成14(2002)年6月17日に広島日赤病院にて死去(享年92歳)。白血病じゃった。
今、(広島の)とある小学校で 教師が「8月6日」は何の日ですか?と聞いたら、ある生徒が「ハム(86)の日と思います。」と答え、他の生徒も「原爆の日」と答えられんかったとNHK広島で放送されてた。
わしも原爆から四半世紀後に生まれたが、小学1年生で同じ質問を受けた時、条件反射的に「原爆の日」と答えてたし、7月〜8月6日は千羽鶴を折って平和公園に持って行くのが恒例行事のため、衝撃的なシーンじゃった・・・。
時の流れと共に記憶って薄れるもんじゃの。。
昭和20(1945)年8月6日は月曜日じゃったらしい🔎 当時、戦局悪化もあり土日なんて概念すら無かったろう🤔 いわゆる「月月火水木金金」。正確には「2回目の月曜日」ってコトかの。
8時15分に「ピカッ ド〜ン」と広島市内から直線で25km離れた西条の我が家にも鮮烈な光と轟音が響いたらしい(;゚Д゚)
じいちゃんが慌てて外へ出ると、しばらく後に 見たことも無い馬鹿デカい「きのこ雲」が上がったそうじゃ。「こりゃぁ、 広島はヒドいコトになっとるのう・・・・・」
じいちゃんは被爆者手帳を所持しとった。8月10日頃、日本軍の命令により広島市内の片付けに動員される。歩いて国道2号線伝いに行けば35kmはある。8月猛暑の中、重労働だったろう。
遡って7月1日に呉が大空襲を受け、安浦経由で呉市内に動員され帰ったばかり(-_-メ)
当時、25歳のじいちゃんは焼け野原の呉市内:空襲被害を受けた とある商店で黒焦げの缶詰ハッケン⭐ 空腹に耐え兼ね軍人の目を盗み、罪悪感にかられながらも食したそうじゃ。「あのタコの缶詰は旨かった〜」と何度か聞いた。
呉ではそんなコトもあったが、広島の片付けのコトは多くを語らんかった。「母親が子供を抱いて黒焦げになっとってのう・・・・・」 話し好きのじいちゃんが言葉に詰まったのは あの惨事だけ。。そういう事じゃろうの。
じいちゃんは「赤紙」招集されてもおかしくない年代じゃったが、(162cm低身長のわしより)背が低く、甲乙丙の「乙」兵のレッテルを貼られたコトを恥ずかし気に言っとった。戦時中は「恥」と感じる空気が流れとったんじゃろう。
もし、じいちゃんが「甲」兵の評価を受けてたら戦地に駆り出され、中国か南方とかで「戦死」しとったかも知れん。 安芸津のじいちゃんの兄は「日中戦争で貫通銃創を受け戦死」と墓に刻まれとる。
西条のじいちゃんの長男が わしの(故)親父。昭和18年生まれ(戦時中)じゃが、じいちゃんが甲兵として招集され、早々と戦死しとったら 親父もわしも、戦後生まれの叔父さん・叔母さんらも この世に居らんかったというコトよの。。
あの世のじいちゃん、胸を張ってくれ👍
背が低くとも負けん気魂で一生懸命 家族を守ってくれたの。感謝あるのみ🙏
わしらも頑張らんとイケんの〜('ω')ノ