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私も今年の4月にここを登ったとき( https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-3047193.html )にこの石標を見かけたのですが、どうして分岐点でもないこの位置に設置されたのか、設置主体は誰なのかといったことがわからないまま、不鮮明な彫り跡の残る裏面の写真を撮ってから尊仏岩跡へと先を急ぎました。ところが、帰宅してしばらくたってからこの裏面の写真を拡大して見てみたところ、そこには「昭和四十四」「鈴木正信君」「同好会」らしき文字が彫られていることがわかりました。
個人名がこれだけ大きく彫られているということは遭難碑に違いない...そう思ってこの名前や「遭難」というキーワードをもとに検索をかけたもののヒットせず、一度は探索を諦めかけたのですが、その後、別の目的で入手した文章を読んだところ、その中にこの石標が登場していました。
「思いがけず『鈴木正信君』の遭難碑があった。誤ってこの道を下り沢に出る辺りで道がないものでもどる途中の疲労死とか。冥福を祈りつつ茶をわかして一休」(奥野幸道「丹沢の古道をたずねて」『足柄乃文化』第22号(山北町地方史研究会 1995年3月)p.12-22)
氏は明治時代に武田久吉氏が初めて塔ノ岳に登ったときのルートを追体験しようとこの尾根を登っているときに、この石標を見つけたようです。
もし「昭和四十四」が正しいなら、当時の新聞を探せば事故の記事を見つけられるかも知れませんが、それはまた別の機会に。ともあれ、これでこの立派な石標が中途半端な場所に、しかも尊仏岩詣でなど関係ない時期にわざわざ建てられた理由がわかり、すっきりしました。
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