「辷る」が読めません。
奇しくも昭和初期と平成、100年近くを隔てた2人の「単独」登山家の本をたて続けに読むことになった。
一冊は加藤文太郎「単独行」。大正〜昭和初期、登山はガイドを雇ってパーティで、どちらかというと裕福な層の遊びだったという時代、休暇の度に単独で山を登り、次々と功績をのこした彼は異端だったという。先日読んだ「山岳遭難の傷跡」に登場し、いろいろないきさつはあったものの、東大パーティのメンバーから「案内を雇う金が惜しいなら山に登らないほうがいい〜」と言われたエピソードが引っかかり、当時の登山界について何も知らなかった私は、時代背景を知りたくなりこの本を手に取ることになった。
兎に角、とりつかれたように山に登る彼の、山行の記録、山への想いや考え方などが書かれている。「〜せり。〜なり。」の文体で、標高は「〜尺」、山頂では万歳三唱だったのが、ドイツ語の山用語が混じりだし、メートル表記になり、山頂ではベルグハイル三唱に変わっていくのも面白い。色々なエピソードからの私なりの文太郎像は、スキーや登攀技術は少し苦手だが体力は無尽蔵、真面目で気ぃ遣い、ちょっと無茶しい、そして甘納豆好き。
彼自身が、単独行者について考察した文章を引用する。
《生来自然に親しみ、自然を対象とするスポーツへ入るように生れたのであろうが、なお一層臆病で、利己的に生れたに違いない。彼の臆病な心は先輩や案内に迷惑をかけることを恐れ、彼の利己心は足手まといの後輩を喜ばず、ついに心のおもむくがまま独りの山旅へと進んで行ったのではなかろうか。》
人の所為で結果が左右されることを嫌い、ピンスポーツをやってきた私にとってはわりと理解できる。
山一筋だった彼も、家庭を持ち娘さん産まれた。奥さんのためにスキーを買い揃え、家族での旅行を楽しみにしていたという。そして最期の山行は「単独」ではなかった。信頼できるパートナーである吉田富久と2人で冬の槍ヶ岳に挑み、帰らぬ人となった。
奥様の手記の手記にはこんなことが記されていた。
《出発の前の晩、子供を相手にしてコタツに当たりながら「こうして暖かいコタツに当たっていると、山へ行くのが大儀な様な気もする」と、ふっと、ひとり言の様に申しました。(中略)私は「おやめになったら」と申しましたが、「友達が僕の行くのを待っている」と申しました。死がまっていたのです。》
これは、運命なのか?因果なのか?人生なのか?山の女神の嫉妬なのか?
「山に迷う」という章で、父親の病気がだんだん悪くなる中で、彼は見舞いにかこつけて地元の山を登って夜中に家に着いたり、葛藤しつつも北アルプスまで出かけてみたりと「利己的」なところを発揮している。結婚や子供が産まれて育っていく過程は幸せなものではあるが、時間が自分だけのものでなくなるという事でもある。もし北鎌尾根からいつも通りに帰宅していたら、ゆくゆくは海外の山々を制覇したいと夢見ていたという彼が、新たな葛藤にさいなまれはしなかったか?と同じく「利己的」な私は心配してしまうが、穿ち過ぎだろうか…ツカレテルネ。
彼の生まれ故郷、浜坂には「加藤文太郎記念図書館」があるという。ぜひ一度訪れてみたいと思っている。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する