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高瀬城は、尼子十旗のひとり米原氏の居城で、出雲の穀倉地帯である斐川平野を一望する高瀬山にあった山城です。この地は宍道湖の西端に位置し尼子氏の中海宍道湖水運の要所でもありました。
永禄5年(1562)の毛利元就による第二次月山富田城の戦いの時、城主の米原綱寛は毛利方に下り、永禄9年(1566)の月山富田城の開城に際しては、毛利方の使者として尼子義久と会見。開城に導いたとされています。
永禄11年(1568)の尼子勝久による尼子復興戦では、毛利の武将として九州転戦中の米原綱寛は毛利輝元により高瀬城の守備を命ぜられますが、なんと尼子氏に帰参、堅城の高瀬城で尼子勢として善戦しますが、元亀2年(1572)に高瀬城は毛利氏の攻勢の前に落城し、米原綱寛は尼子勝久の籠もる真山城に移動します。更に同年真山城も落城すると尼子氏を離脱、京へ出家し余生を過ごしたとされています。
PS 米原綱寛さんは早い時期に尼子義久さんに見切りを付けて毛利氏に付いたのに、わざわざ尼子氏に何故帰参したのか?私はこの方に興味津々です。 確かに尼子勝久さんには織田勢が後見していましたが、まだ毛利氏が圧倒的劣勢の情勢では無かった(織田信長さんによる石山本願寺の戦いが始まったのが元亀元年で、毛利氏の支援する本願寺側がまだ優勢だった頃です。)と自分は認識しているので不思議です! 勝久さんが悲劇の新宮党のご後胤なのと関係があるのか? どなたかご教示頂けると幸いです。
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