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日記

カテゴリー「未分類」の日記リスト 全体に公開

2024年 05月 11日 19:22未分類

泣く子と天気には勝てません!!

ゴールデンウイーク中は、行楽日和の中、残念ながらビジネスモードのため、楽しそうな、みなさんの「山行記録」を読みながら今週こそはと、指折り数えて迎える明日ですが、当地では、まさかまさかの「雨予報」。 今日があまりにも晴天なので気象庁さんが信じられません!(笑) ホント トホホのブルーな気分です!(笑
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2023年 06月 24日 18:25未分類

みなさんの山行を読む事で癒されています!

 仕事の多忙とアキレス腱痛で山歩きから2ヶ月以上のご無沙汰となっています。 「やりたい事が出来ない」事と、仕事の多忙さからくるストレスが重なり、幾分、心が疲れて、少しばかり悲鳴を上げていました。  でも、地元のアクティブな方々の「山行記録」を拝見する事で、「あ もうこの花が咲いているんだ」とか「
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2023年 03月 21日 20:33未分類

城としての大平山

(城としての大平山城   独り言)    この城は、案内板(写真)にあるように誰が誰のために備えた城なのかはっきりしていません。北側に大きな曲輪、西側に200m規模の土塁があります。南側には堀切があり、東側にはこれと言った防御施設がありません。  この事実から北と西側に対する備えが厚い城と言う事にな
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2023年 02月 27日 12:34未分類

城としての高瀬山 高瀬城

(城としての高瀬城  独り言)  高瀬城は、尼子十旗のひとり米原氏の居城で、出雲の穀倉地帯である斐川平野を一望する高瀬山にあった山城です。この地は宍道湖の西端に位置し尼子氏の中海宍道湖水運の要所でもありました。  永禄5年(1562)の毛利元就による第二次月山富田城の戦いの時、城主の米原綱寛は毛利方
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2022年 08月 24日 15:38未分類

城としての真山城(新山城)

(城としての真山城  独り言)  真山城(新山城)は尼子氏の重臣で、宍道湖中海の水運を担う松田氏の居城の白鹿城の後背地に位置し白鹿城より高いため、戦略的に重要な砦であったと思われます。  永禄6年(1563)の毛利氏による白鹿城攻城戦では、吉川元春がここを占領、拠点とし白鹿城攻略に当たりますが、
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2022年 08月 21日 20:07未分類

この景色をみるために真剣に遊んでみます!

(この景色を見るために真剣に遊んで見ます 山歩き) 若い頃「何で山になんか行くんだろ!」と思っていました。でも今は自然相手に真剣に取り組む事が面白くてしょうがありません! 自然は草木を伸ばして道を隠します。雨をふらして足をすくいます。「お前に登れるか」と急登を用意してます。そんな事をひとつひとつク
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2022年 06月 30日 16:08未分類

城としての安田要害山城

 (城としての安田要害山城 独り言)    この山城は出雲と伯耆の国に股がり、安田要害山は出雲国側の呼称で伯耆国側では新山要害山と呼ばれています。  戦国期において手間要害山とともに、出雲国(月山富田城)〜伯耆国(尾高城)の交通の要所として、尼子氏の伯耆統治の重要拠点でした。また尼子十砦(あまごじっ
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2022年 04月 04日 16:50未分類

城としての和久羅山(羽倉城)

(城としての和久羅山  独り言)  永禄5年(1562)毛利元就による出雲侵攻当初、多くの出雲国人衆とともに宍道湖水運を手中にしている白鹿城の松田氏も毛利方に付きました。  先に毛利氏についていた石見銀山を所領にもつ石見国人の本城常光を毛利氏が銀山の利権の独占を目当てに討った事で、出雲国
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2022年 03月 14日 11:38未分類

城じゃないけど城としての京羅木山

(城じゃないけど城としての京羅木山 独り言)  大内氏や毛利氏の月山富田城の戦いで攻城側本陣が置かれたのが京羅木山です。頂上から月山富田城は手にとるようにみえました。富田城の補給路となった安来港(十神山城)や飯梨川、広瀬の城下町が予想以上に一望できる事を実際に登って思いました。また、大軍を布陣させ
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2022年 03月 08日 17:46未分類

城として手間要害山

(城としての手間要害山 独り言)  鳥取県南部町の手間要害山城は、従来、西伯耆に勢力を有した行松氏の影響下にありましたが、尼子経久の時代に、尼子氏の伯耆侵攻により尼子方の日野氏の勢力下となりました。  月山富田城に近いために兵站の補給路として重要な意味を持ちました。経久の後を継いだ晴久の急逝にともな
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2022年 02月 22日 19:26未分類

城としての月山富田城その2 第二次月山富田城の戦い

(ついにこの時が月山富田城開城 独り言)  永禄8年(1565)になると、尼子義久に与した出雲、伯耆の支城はほぼ投降し、残すは富田城と熊野城のみとなり、月山富田城に対する補給路は完全に絶たれました。毛利方は何度か城攻めを行いますが、尼子方の士気の高さと堅固な城の前に多数の損失を出し、力攻めを諦め兵
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2022年 02月 21日 21:49未分類

城としての月山富田城 第一次月山富田城の戦い

(見事撃退! 第1次月山富田城の戦い 独り言)  天文7年(1538)祖父の経久から家督を継いだ翌年の晴久(この時は詮久)は、大内氏の石見銀山を攻略し、大内氏との関係が悪化しました。  天文8年(1539)には、因幡平定に続き播磨に侵攻しその勢いさながら天文9年(1540)祖父で隠居の経久の
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2022年 02月 21日 06:41未分類

馬着山 戦国時代の美保関港

 (馬着山から見える美保関港の戦国時代 独り言)  尼子氏の時代の美保関港は、山陰道随一の港として栄えました。大内氏による1542年の第1次月山富田城の戦い時、大内氏、尼子氏両陣営で鉄砲使用の記載があります。1543年の種子島鉄砲伝来より1年前です。この時尼子方の鉄砲入手経路は明国〜朝鮮半島〜美保
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2022年 02月 18日 21:57未分類

城としての熊野要害山(熊野城)

(尼子氏で落城しなかった唯一の熊野城 独り言) 永禄5年(1562)毛利氏の出雲侵攻(第2次月山富田城の戦い)に出雲の国人は動揺し、三刀屋氏、松田氏などは毛利氏に投降します。しかし先に投降した石見の本城氏に対する毛利氏の処遇を見た松田氏など一部の出雲の国人は尼子氏に復帰しました。翌永禄6年(156
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