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永禄5年(1562)毛利元就による出雲侵攻当初、多くの出雲国人衆とともに宍道湖水運を手中にしている白鹿城の松田氏も毛利方に付きました。
先に毛利氏についていた石見銀山を所領にもつ石見国人の本城常光を毛利氏が銀山の利権の独占を目当てに討った事で、出雲国人衆は動揺、熊野氏、松田氏などが尼子氏に帰参し、宍道湖中海の制海権は尼子氏に戻り、熊野城や白鹿城に籠り頑強な抵抗を行い、毛利氏の前線の補給に難が出始めます。
やはり、大量の物資の輸送が可能となる宍道湖の制海権は両陣営とも確保したいところです。毛利氏は吉川元春を白鹿城の向かいの真山城を築かせ、ここを拠点に白鹿城攻略を試みますが思いのほか苦戦します。
毛利元就はその書状で和久羅山と大根島の戦略的重要性を説いています。そしてこの和久羅山城(羽倉城)を攻略し白鹿城と富田城との連携を絶ちます。麓で交通の要衝の朝酌地区とともに激戦の争奪戦となったはずですが史料があまりありません。
翌永禄6年(1563)激戦の白鹿城が陥落し毛利氏は下関〜出雲〜宍道湖の水運による補給路を確保。逆に尼子氏は斐川平野の米を失い、美保関〜安来(十神山城)〜富田城と伯耆からの補給路に依存することとなります。
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