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永禄8年(1565)になると、尼子義久に与した出雲、伯耆の支城はほぼ投降し、残すは富田城と熊野城のみとなり、月山富田城に対する補給路は完全に絶たれました。毛利方は何度か城攻めを行いますが、尼子方の士気の高さと堅固な城の前に多数の損失を出し、力攻めを諦め兵糧攻めに変更しました。翌永禄9年(1566)兵糧に窮した籠城軍は徐々に投降するものが増え始めました。私財を投じて兵糧を秘密裏に城内に運び込んでいた忠臣の宇山久兼が讒言を信じた義久に誅されると一気に士気も低下しました。いよいよ万策尽きた義久は、同年11月毛利元就に投降、開城しました。この時月山富田城の城兵は約300ほどだと言われてます。(陰徳記では籠城兵1万とされいますが多分)約6000の兵が前半の攻城戦での損失が少ないにも関わらず兵300に減った事は、兵糧攻めの厳しさが投降に次ぐ投降と言う事態に陥った事が容易に想像できます。最後まで兵300で3万の攻城軍に対峙した尼子氏への忠義は後に、新宮党の尼子国久の子勝久を擁して尼子復興戦を起こす原動力となります。投降した義久は、毛利氏の食客として余生を過ごしました。(山中鹿之介の復興軍への出馬要請を断ったとされています。)
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