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鳥取県南部町の手間要害山城は、従来、西伯耆に勢力を有した行松氏の影響下にありましたが、尼子経久の時代に、尼子氏の伯耆侵攻により尼子方の日野氏の勢力下となりました。
月山富田城に近いために兵站の補給路として重要な意味を持ちました。経久の後を継いだ晴久の急逝にともない後継者義久の雲芸和議など弱腰な尼子氏の行く末に不安を覚えた出雲の国人達とともに日野氏も毛利氏に降りましたが(この時この城の重要性を理解した毛利方の杉原盛重によって整備されています)
毛利氏の出雲国人に対する処遇を見て日野氏は尼子方に復帰しました。第2次月山富田城の戦では奮戦するも毛利氏の前に永禄7年(1964)降りました。
尼子氏の滅亡後も関ヶ原の戦いまで、毛利氏の城として存在しました。
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