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天文7年(1538)祖父の経久から家督を継いだ翌年の晴久(この時は詮久)は、大内氏の石見銀山を攻略し、大内氏との関係が悪化しました。
天文8年(1539)には、因幡平定に続き播磨に侵攻しその勢いさながら天文9年(1540)祖父で隠居の経久の反対を押し切り安芸の毛利元就を吉田郡山城に包囲しましたが、毛利氏の援軍に駆けつけた大内軍に大敗した。(吉田郡山城の戦い)翌年の天文10年(1541)隠居後も領地に睨みを効かさていた経久の死により、石見、出雲の国人が大内方に相次いで寝返りました。
翌天文11年(1542)大内義隆は自ら大軍を率いて月山富田城へ侵攻しました。大内軍は月山に向かい合う京羅木山に本陣を敷き、晴久は籠城策を取った。堅城として知られる月山富田城に大内軍は苦戦。
周辺の尼子の支城を攻略せずに月山富田城を直接包囲したため、尼子支城軍は京羅木山に対する兵站を狙ったゲリラ戦を展開、包囲している大内軍のほうが、兵糧の補給に苦労しだすと、一度は大内氏に寝返った出雲、石見の国人たちが尼子氏に復帰し、大内氏の兵站が完全に崩壊、形成が逆転。
大内軍は敗走にいたり討たれる任せる退却戦となった。毛利元就も九死に一生を得る形で吉田郡山城へ撤退。尼子晴久は見事失地を回復しました。この一戦で、政事への興味を失った大内義隆は実権を陶隆房に譲り、その陶隆房も厳島の戦いで毛利元就に敗れ、山陽道の覇権は大内氏から陶氏さらに毛利氏へと移譲されていきます。
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