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尼子氏の時代の美保関港は、山陰道随一の港として栄えました。大内氏による1542年の第1次月山富田城の戦い時、大内氏、尼子氏両陣営で鉄砲使用の記載があります。1543年の種子島鉄砲伝来より1年前です。この時尼子方の鉄砲入手経路は明国〜朝鮮半島〜美保関ルートと言われています。(この頃、明国にはすでに鉄砲及び大筒は伝来しています。日明貿易は大内氏が独占しており、敵対する大内氏から入手は困難だと思われるため尼子氏の独自ルートの存在が想定されます。)
この事からも、当時の美保関港の重要性が分かります。尼子氏の領地でとれる良質の出雲鉄と呼ばれる鋼は、奥出雲から川船で安来港(十神山城)へ運ばれ、更に中海を内航船で美保関港へここから全国へ積み出されました。美保関港の施政権は松田氏が室町幕府から任命されていましたが、その後、尼子氏が任命されその代官として松田氏が実権を握るかたちになりました。松田氏は松江白鹿城も守り、宍道湖の水運も握り、尼子氏の重臣として宍道湖、中海の水運を一手に担いました。
第2次月山富田城の戦いの時、尼子氏は三刀屋氏など出雲国人の投降により陸送の出雲ルートの補給が絶たれましたが、宍道湖、中海の水運ルートがあったため、毛利氏の兵糧攻めに十分対抗できました。毛利元就は、その書状で中海水運の要衝である和久羅山と大根島の戦略的重要性を説いています。これも積出し港の美保関港の重要性からであり、当然、美保関も尼子氏、毛利氏による争奪戦が行わています。毛利氏は先ず伯耆国の尾高城を攻略。ここを足場に美保関攻略戦を実施し一時的に美保関を占領しますが、尼子氏にすぐ奪回されます。その後白鹿城攻略により宍道湖の水運権を毛利氏が奪取。尾高城を拠点に江美城などを攻略し尼子氏の伯耆ルートによる補給を分断します。さらに安来十神山城攻略により、中海ルートも補給が絶たれ月山富田城は完全に孤立し尼子義久の投降に繋がりました。
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