山に来ているのに、全然別のことを考えている時がある。
この間の山行では、もう知り合ってから10年以上になる、よくプロジェクトで一緒に働いた人のことを考えていた。
その人は明るくて元気がよくて、プロジェクトが終わったときは夜遅くまで飲んだ。
「〇〇さんのおっしゃる通り」が口癖で、私は自分の意見が認めてもらえたようで嬉しかったものだ。
声がよく通って、その人が話すと、みんなが集中して聞いた。
変だと思うこと、おかしいと思うことは必ず言葉にした。そういうことができない私にはうらやましかった。
「最近、どこの山に行った?」とよく聞いてくれた。私が山で大怪我をした時、その人だけ「勇ましいなー」とほめて(?)くれた。
夏に会った時は、別々のプロジェクトでお互いに忙しくてあまり話さなかった。また一緒に仕事ができるものだと思っていた。
共通の知人からの連絡は12月になってからだった。9月に脳腫瘍で手術をして、今は自宅療養中だ、と。
メールを送っても、返事は本人からではなく御家族からだった。また一緒に働くのは難しいと思わせる文を、最後まで読めなかった。
あの時もっと話せばよかった。
苦い後悔が胸に広がる。
いつもそうだ。どうして神様は、この人に会うのはこれが最後になると私に言ってくれないのだろう。この機会、この時を、大事にしろ、と言ってくれないのだろう。
私は何度苦い後悔を味わったことか。
いや、そうじゃない。あの人だったら、どんなに辛くても、どんなに時間がかかっても、きっと回復する。私に会ったら「山の話をして」と言うだろう。
「こんにちは」という小さい声で、我に返る。私は難しい顔をして歩いていたようだ。すれ違う人が、こわごわ挨拶をしてくれた。