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土浦城址(つちうらじょうし) / 亀城公園

都道府県 茨城県
最終更新:Gloydius
基本情報
場所 北緯36度05分05秒, 東経140度11分52秒
カシミール3D

山の解説 - [出典:Wikipedia]

土浦城(つちうらじょう)は、茨城県土浦市(常陸国新治郡)にあった日本の城。室町時代に築かれ、江戸時代に段階的に増改築されて形を整えた。幅の広い二重の堀で守る平城である。天守は作られなかった。太鼓櫓門が現存し、東西二か所の櫓が復元されている。土浦は度々水害に遭っているが、その際にも水没することがなく、水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたことから亀城(きじょう)の異名を持つ。茨城県指定史跡第1号。
平安時代、天慶年間(938年から947年)に平将門が砦を築いたという伝説があるが、文献上確かなのは室町時代の永享年間(1429年から1441年)に常陸守護であった八田知家の後裔で豪族の小田氏に属する若泉(今泉)三郎が築城したのが最初である。戦国時代に入り、永正13年(1516年)、若泉五郎左衛門が城主の時に小田氏の部将・菅谷勝貞によって城は奪われ、一時は信太範貞が城主を務め、後に菅谷勝貞の居城となる。しかし、小田氏は上杉・佐竹勢に徐々に圧迫され、小田氏治は小田城を逃れて土浦城に入った。その後、度々小田城を奪回するが、永禄12年(1569年)の手這坂の戦いで真壁軍に大敗して勢力を失い、元亀元年(1570年)以降は佐竹氏の攻撃を直接受けるようになり、菅谷政貞・範政親子も主君小田氏を補佐したが、天正13年(1583年)に小田氏治は佐竹氏の軍門に降る。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に菅谷範政は後北条氏と結んだため佐竹氏や徳川家康の軍勢に攻められ、主君小田氏とともに滅亡した。
関東に入った徳川家康は、土浦を次男で結城氏に養子入りした結城秀康に与え、土浦城を領内の支城とする。秀康が越前国北ノ庄に移ると、藤井松平家の松平信一が3万5千石で入封した。その後、松平信吉の代に5千石の加増を受ける。元和3年(1617年)、信吉が上野国高崎に転封となって西尾忠永が2万石で入封した。以後、城主は西尾家・朽木家と代わり、寛文9年(1669年)には土屋数直が4万5千石で入封した。土屋家は、天和2年(1682年)に政直のときにに駿河国田中に移ったが、代わって城主となった大河内松平家の松平信興が5年後の貞享4年(1687年)に大坂城代に転ずると、土屋政直が再び6万5千石で入封した。その後、3度の加増を受けて9万5千石となり、常陸国では水戸藩に次いで大きな領地を支配し、以後土屋家が11代(約200年間)にわたって世襲して明治維新に至った。

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