生坂村・京が倉〜大城山〜眠り峠縦走



- GPS
- --:--
- 距離
- 8.2km
- 登り
- 626m
- 下り
- 731m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2007年04月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
感想
里山楽会『境界線(旧)』例会登山
万平からこや城跡へ〜山行記録・京ヶ倉登山
生坂村下生坂・雲根地区の林道付近の神社の空き地に下山用の車を廻し、登山口の万平(まんだいら)に戻る。
京ヶ倉は生坂村の東に位置し、R19に並行して南北に伸びる細長いやせ尾根(生坂山脈)の主峰で標高990m。登山口の万平は京ヶ倉の南に位置する剣刷山から派生する急峻な尾根の下部にある小さな集落で、登山路は万平から『こや城』と言う山城に登る参道の入り口から始まる。
いきなり急登となり10分で城跡に着くが、説明版が立っているだけで往時を偲ばせるものは何も無く、一瞥して通り過ぎると俄かに道が下り始める。
落ち葉の積もった滑りやすい道を下りきるとしばらく平坦が続き、国道のトンネルの真上辺りから一気に急登となる。コースの前半は、稜線に出るまでこの急勾配が続く。急登に沿ってヒカゲツツジの群落が現れ、花は稜線に至るまで続いた。
ヒカゲツツジ
トンネルの真上を通過して15分で展望のいい大岩の上に出る。標識に『おおこば見晴台』とあり、生坂村の全体を見下ろす絶好のポイントなので10分の休憩を取る。見下ろす犀川のダムに突き出ている向こう岸の地形は身をくねらして歩くハンザキ(オオサンショウウオ)を思わせる
広がる山なみ
展望台から2〜3分の辺りで道が二分するが、右側の道は『⇒×』,左の道は『⇒京ヶ倉』となっている。支尾根のピークである剣刷山をトラバースして稜線に至るコースを辿るようにとの指導である。
左前方に京ヶ倉のピークを見ながら急斜面につけられた細い道を辿ること20分で主稜線に出て小さな前ピークで後続を待つ。10後合流。
稜線に立つと東側の筑北村・麻績村・大岡村(旧)方面の景観が開けて、遠くは旧四賀村の入山(けつだし山),四阿屋山,姨捨山,聖高原等の山々が、また眼前には岩殿山が望まれるようになる。
やせ尾根
眼下に広がる松山は名だたるマツタケの産地で、しかも止め山でないので誰もが自由に入ることの出来る稀有の場所らしい。が、かなりの頻度で死者の出る極めて危険な山で、昨シーズンも死亡事故があったと言う。
事故を起こすのはキノコ採りの名人と言われるようなベテランの人が多く、崖っぷちの危なっかしい場所に生えているマツタケを無理して採ろうとして転落するケースが大半だと言う。ロープ必携の命がけのキノコ採りの場なのだそうだ。
痩せた稜線を北進すると岩場にロープが貼りつけてある場所に出た。岩稜の中央に1本のロープが縦に張られ、その末端を左右に引っ張るようにして岩場に貼りつけてある。このようなロープの張り方は見たことが無く理解に苦しむ張り方だが、左右どちらも崖なので、足がすくんで動けない人は真ん中のロープを持って這うようにして進めと言うことなのかもしれない・・。
その先には京ヶ倉への最後の登りが待っているが、それも結構厳しい岩場のようだ。
登頂
10:00から最後の岩場を登り始め、同07登頂。6時頃朝食を食べて来た者ばかりなので、早いが軽く食べようと言うことになり30分の休憩を取る。
標高990m。山頂からは生坂村はじめ、明科町,安曇,筑北村方面の山がよく見える。この山も戦国の昔,風雲急を告げる時には出兵の見張り場であり、狼煙台でもあったそうな。
大城山〜物見岩・・・稜線漫歩
30分休んで出発。京ヶ倉からは随所にロープの張られた崖のような道を下って、同じような道を北隣の大城(おおじょう)山に登り返す。
大城山も山城で、山頂は痩せてはいるが細長く、そこに3つの郭があった等とされる説明板があった。
村指定文化財『大城跡』
1,丸山氏の本城,標高980m。仁科氏第一の要害城。
1,本郭の広さ,15m×13m。北側の下に郭が3ヶ所ある。
1,水の手が東側の下にある。井戸跡もあった。
1,物見台が、南方の京ヶ倉と北方下の物見岩にある。
1,居住跡は西方尾根下の源三屋敷にある。
1,水野藩の信府続記には『城主丸山肥後・兵庫・丹波などが相続し、武田氏と戦って没落した』とあるが、史実は無い。
1,天正十年(1582年)秋,小笠原氏に攻められて上杉方へ逃げた。
平成4年9月 生坂村教育委員会
京ヶ倉のタムシバ
大城山からさらに北へ10分歩くと西に張り出した岩場があり、そこを物見岩と勘違いして生坂村から大峯高原方面を覗き込んだ拍子に南方を振り返ると、大城山北斜面のタムシバの花が印象的だった。
そこから先には大きなピークがなく、徐々に下り始めるとともに歩きやすい快適な道となる。
シカ,イノシシの生活痕
大城山の山頂付近にはイノシシの仕業と思われる激しく掘り荒らした跡が無数に見られ、また登山道には大量の糞の山が少なくとも5ヶ所以上あった。
また,この山に多いリョウブの木の幹には、鹿に皮を剥ぎ取られた痕跡が見られ、どの場合も申し合わせたように、傷跡の下の方に齧り始めた時の歯の跡があり、上の方は皮を引っ張って剥いだために最後のところが細くなって切れていて、鹿達が皮を引き剥がして食べる様子を容易に想像することができた
そして人為
一方,稜線上にはアカマツとともにヒメコマツが散見され、標高が下がるにつれてその数は次第に増えてきたが、それとともに、ヒメコマツの樹皮が10cmあまりの幅にぐるりと切り取られて、そこから樹液が垂れ落ちて白く乾いているのが見られるようになった。
それは樹脂を取るための行為のようにも見えるが、樹脂を受け止めるための容器は無く、樹皮の切り方にも統一性を欠き、中にはただ乱暴に縦に傷をつけただけのものもあって、そこからも樹脂が滴り落ちた跡は残っていて醜く、ひょっとすると樹皮を傷つけて枯らせることが目的ではないかとさえ思えるような所業であった。
誰が何のためにやったものか、なぜヒメコマツだけが対象なのか理解し難い。
物見岩から萩の尾峠へ
大城山のすぐ下の岩場は物見岩ではなく、本来の物見岩はさらに10分余り下った所にあった。『見晴らし岩』ではなく『物見岩』と呼ばれること自体が合戦の名残りであろうか・・。
さらに5分ほど下がった小ピークには三等三角点があった。三角点はトラバースした剣刷山にもあったのだそうで、小さな一つの山域の,しかも最高峰の京ヶ倉で無くそれを挟む南北の2地点に三角点があるのと言うのもあまり例が無いように思うが、どんな意味があるのだろうか・・,企画者のjun1さんがいればその辺のことが聞けたと思うが、残念ながら鬼の霍乱とかで本日不参加。
萩の尾峠
この山塊の京ヶ倉以北の稜線は実は生坂村と坂北村(現筑北村)との境界ではなく、尾根を挟んだ東側にも集落が存在する。
参加者の1人で、かつて生坂村の中学校で教鞭をとっていたKosiさんの話しでは、その地区の子ども達はこの萩の尾峠を越えて生坂の学校に通ったそうだ。尾根の東側の集落から急峻な坂を登って峠を越え、逆さ落としのような谷を下り、国道まで下がってさらに数kmを毎日歩いて通った。春ともなれば、生坂中学の子ども達はこの萩の尾峠を通って大城山まで遠足に来たとも言う。
かつて萩の尾峠は生活の道であり、子ども達の通学路だったのだ。
眠り峠へ
萩の尾峠からは下生坂に下る道があり、それはかつての生活の道であり、通学路であったのだが、稜線の道はさらに北に伸びて眠り峠に至る。
案内標識によると、パノラマコースと名づけられたそのコースを下れば下生坂まで5kmである。
パノラマとは名ばかりの展望の無い山道を30分ほど歩いてそろそろ腹も減ってきたので、適当な所で昼食にしようか〜等と言っていると前方に鉄骨で出来た丸いアンテナような塔が見え、あそこまで行けば見晴らしもいいだろうからと、ちょっと無理して先を急ぐと、すぐに開けた場所に出てそこに『眠峠』の標識があった。
そこは林道の終点でもあった。『下生坂まで5km』と妙にはっきり距離が出ていた訳はこれで、その先は延々と林道を歩かされる羽目になるのだ。
さらに5分歩いて42号鉄塔と言う送電線鉄塔の下で昼食となる。
キブシ,ダンコウバイ,木々の芽吹き
鉄塔42号の下に陣取って昼食。昨夕から安曇野地方は風が強く、今日も一日吹き荒れて山頂付近はかなりの風だったが、ここだけは嘘のように静かだ。有明山の山頂から上は雲の中で、午後は若干雲が上がったものの、アルプスは遂に姿を見せずじまいだったが、暑くもなく寒くもないハイキング日和だった。
前半の激しい登高は満開間近のヒカゲツツジに励まされ、稜線からは大峰高原や筑北方面の展望を楽しみ、後半は山の生き物や山で暮らす人々の話しに花を咲かせながら歩いた。
下山口までの長い林道も、次々現れるキブシの花穂やダンコウバイの花を見ながら賑やかに下る。14:15下山。
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