岡山市北区 龍王山〜最上稲荷 史跡&巨岩&紅葉&野鳥



- GPS
- 04:38
- 距離
- 8.6km
- 登り
- 530m
- 下り
- 521m
コースタイム
- 山行
- 3:28
- 休憩
- 1:05
- 合計
- 4:33
歩行距離8.5km、歩行時間3時間30分、歩行数16,400歩、消費カロリー1,400Kcal
天候 | 晴れ時々曇り |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2018年12月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
大半は石段や土道の参道、アスファルト道で雨天でも大丈夫です。サルノコシカケの仲間の幼菌<写真48>撮影地点を経て県道241号線に向かう道は、標高230m辺りから落ち葉でかなり滑りやすくなっていますが、途中からトラロープが設置され下りやすくなります。 題目岩&鬼子母神<写真25〜28>から龍王池方面は通行止めの掲示があります。 龍王山陣跡<写真43>から北上する地形図の破線の道は、入口周辺に重機が入り一部囲って立ち入り禁止になっていました。十三重層塔<写真46>から地形図の破線の道に合流するまでは道ではありませんが、ヤブコギではありません。 龍王山陣跡<写真43>から北上する地形図の破線の道は、入口周辺に重機が入り一部囲って立ち入り禁止になっていました。そのため、いったん引き返し荒行堂に向かいました。側の十三重層塔<写真46>から斜面に取り付き、地形図の破線の道を目指しました。崩れやすい斜面ですが、なんとなくジグザグに踏み跡らしきものがありました。 破線の道に合流すると、低いササの間の細道で、西側に鉄条網がありました。破線がなくなるとササもなくなり、崩れやすい落ち葉斜面を登りました。 標高160mのトラバースは踏み固めてあり歩きやすいのですが、上りはまた崩れやすく、標高170mからは木の間の細道でたまに赤いビニールテープがありました。龍王山国民休養地の東屋<写真47>から西へ延びる道は広くきれいでした。 |
その他周辺情報 | ★吉備路の山全山縦走大会が2019年3月17日(日)に開催されます。 全山縦走コース(35キロ) ( JR服部駅⇒吉備津神社) 足守18キロコース (JR服部駅⇒足守小学校) 稲荷24キロコース (JR服部駅⇒高松稲荷グラウンド) 吉備津彦32キロコース (JR服部駅⇒吉備津彦神社) 足守からコース(17キロ) (足守小学校⇒吉備津神社) |
写真
豊臣秀吉の備中高松城水攻めに関する遺跡で、岡山県の史跡に指定されています。長野川の水をせき止めて城へと流し込む作戦でしたが、工事半ばで開城となりました。目的は果たせたのでよかったと思うのですが、工事が間に合わなかった責任を取り奉行は切腹したといわれています。南に水奉行の墓があり、やはり岡山県指定史跡になっていますが、浄水場の敷地内のようなので立ち寄りませんでした。
石伝いに歩いて川を渡りました。ところどころに転がっている大きな岩は、長野川のせき止め工事によるものでしょう。川幅は1mもなく、傾斜がほとんどないわりには、流れに勢いがありました。石垣は当時のものかどうかわかりません。
題目石
石段を上り切りアスファルト道に出たところから歩きながら動画を撮り、いったん鳥居をくぐってライオンにしか見えない狛犬まで下ったところから引き返しました。最上稲荷の正式名称は「最上稲荷山妙教寺」といい、明治時代初頭に発布された神仏分離令においても、岡山県で唯一、神仏習合の形態が許されました。日蓮宗の寺なので、題目石が林立しています。
奥ノ院駅跡
1929年に開通したケーブルカーの遺構です。当時は中国地方唯一のもので、最上稲荷旧本殿である霊応殿<写真31>とこことに駅がありました。1944年に廃線となりました。
備前四十八カ寺を開基したという報恩大師のもとに孝謙天皇の病気平癒の勅命が下り、大師は八畳岩の岩窟にこもって祈願を行ったとされています。八畳岩とはこの天井部分のひさしのように突き出た平たい岩のことでしょう。祠のあるてっぺんの岩<写真23>が左端に少しだけ見えています。岩窟の中は人が一人入れるほどの大きさで、前回(2018年05月14日)と同様、空っぽでした。
最上稲荷の元宮といわれているそうです。鳥居をくぐって石段を上り、突き当たりが題目岩<写真26>、すぐ手前(右隣)に鬼子母神(きしもじん)の磨崖仏<写真27>があります。動画も撮りました。
鬼子母神(きしもじん)は法華経の守護神です。足元に「鬼子母神」の札がある岩ではなく、題目岩<写真26>の右(東)隣の岩の少し上の方にあります。題目とともに19世紀半ばに最上稲荷山妙教寺15世日方聖人により彫られたものです。手前の岩から動画を撮りました。
白瀧天王の詳細は不明ですが、八大龍王<写真45>をお祀りしてあるところがあるので、水神様でしょう。上の方に鬼子母神(きしもじん)<写真27>が見えています。以前はこの辺りに最上稲荷の本殿があったのかもしれません。
西方向をズームしてみました。若木の樹皮は緑色の縦筋模様が入り、ウリの皮に似ているというのが名前の由来です。条件がよければ、葉はさらに赤くなります。よく似たホソエカエデのほうは兵庫県以東に分布しているそうです。
本殿(霊光殿)前では、ちょうどお火たき大祭が行われていました。一年間お祀りされたお札を感謝を込めておたきあげする、最上稲荷の三大祭典の一つで、12月第ニ日曜日とその前日に行われます。この炎に体や手をかざせば一年間無病息災で過ごせるそうです。動画も撮りました。
石段の上からズームしてみました。昭和33年(1958年)に完成したインドの殿堂様式の石造仁王門です。2009年に登録有形文化財に指定されました。左右にお稲荷様<写真40>が見えています。ちなみに、参道側には仁王像があり、某有名企業の名前がありました。
仁王門の境内側に左右一体ずつあります。照明スイッチがあり、押すとライトアップされます。なかなか現代的でした(*_*;仁王門の外に出て引き返し、「秀吉本陣」<写真43>方面に進みました。
(秀吉本陣一の丸)
備中高松城を攻めるにあたり、秀吉が最初に構えた陣跡です。ベンチもあり、少し開けているのでゆっくり休憩できます。土塁や堀切があるそうですが、周辺には祠や重機が入って立ち入り禁止の所があり、地形が変わってしまっている可能性があります。
家運永昌祈願のもののようです。龍王山陣跡<写真43>から地形図の破線の道の入口が立ち入り禁止だったため、ここまで引き返してきたのですが、すぐに合流できそうだったので、ここから斜面に取り付きました。崩れやすい土でしたが、無事に道に入れました。
たまに崩れやすくなる斜面登りがありましたが、途中から古い遊歩道らしき細道になり、不意にここに出てきました。この東屋は二十人近く使えそうな広さで、周辺もベンチだらけでした。ここからはきれいな広い道になり、すぐに往路で通った所に合流しました。
の幼菌
県道241号線に向かう道の入口にはトタン板の囲いが見えていたので行き止まりかと思いましたが、脇に細道がありました。切られて転がった丸太に生えていた白いキノコのカサの直径は5cm程でした。おそらく、これからもっと大きくなるでしょう。
ついばむエナガ
ジュ、ジュと独特の鳴き声に見上げると、メジロと一緒にたくさん群れていました。すばしっこいので写真はあきらめ、動画に撮り後からカットして写真にしました。口が小さいので、つついて食べようとしていましたが、かたそうな茶色い外皮がなかなか取れません。イラッときて口いっぱいほおばったところです。
食べたいエナガ
冬は大好物のアブラムシがなかなか見つからないので、こうした木の実も食べるようです。この個体は食べるのに必死で、こちらには目もくれませんでした。連れは、一番手前でご馳走そっちのけでこちらをのぞきこんでいる個体をずっと見ていたそうです。そろそろうちの庭にも来る頃です(^^♪
装備
個人装備 |
長袖シャツ
ズボン
靴下(厚手)
防寒具
軍手
雨具
日よけ帽子とフード
雨用帽子
登山靴(防水加工)
靴ひも予備
サブザック
ザックカバー
地形図
コンパス
マップケース
筆記用具
携帯
時計(防水)
タオル
カメラ
飲料水(スポドリ&茶)
水筒(保温)
非常食(栄養補助食品)
スマホ(山使用可能)
eTrex30(GPSナビゲーター)
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感想
◆◇天下取りのきっかけを作った秀吉の史跡を訪ねて◇◆
この辺りは、天正10(1582)年に織田信長から中国計略の命を受けた羽柴秀吉と毛利方の清水宗治との合戦の最前線となり、激しい攻防が繰り広げられたところです。
最初に訪問したのは、「鳴谷川(なるたにがわ)遺跡」<写真04,05>です。吉備平野の湿地帯にある備中高松城を攻めあぐねていた秀吉軍は、名参謀の黒田官兵衛の助言により、水抜きではなく、逆に水攻めにしようとします。
足守(あしもり)川の水だけでは足りないと考えた秀吉は、龍王山の北側にある鳴谷川をせき止め、その水を城に流しこうもうとしました。結局、この工事が完成する前に備中高松城は開城しました。
そして、最上(さいじょう)稲荷参道コースを経て辿り着いたのは、秀吉軍が最初に本陣を構えた「龍王山陣跡(一の丸)」<写真43>です。現在は公園になっている備中高松城跡やその周辺一帯が一望できます。
水攻めが本格的に進むにつれ、本陣を備中高松城の東近くの石井山に移しました。水攻めにより敵将の清水宗治が自刃したことで、秀吉軍は「中国大返し(おおがえし)」と言われる日本史上屈指の強行軍にて引き返し、「山崎の戦い」にて明智光秀に勝利し天下を取ります。
もし、備中高松城の戦いが水攻めにより早期に終わっていなければ、秀吉が天下を取ることはなかったかもしれませんし、その後の歴史の展開も大きく変わっていたかもしれません。
慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で秀吉の息子である豊臣秀頼は、徳川軍に大阪城を守っていた堀を埋められて陥落させられるという皮肉な結果を招きました。まさに、ここ吉備平野で起きたことは歴史のターニングポイントになったのでしょう。
◆◇岡山最強のパワースポット!龍王山〜最上(さいじょう)稲荷コース◇◆
今回は龍王山(最上稲荷奥之院)を北<写真08>からアプローチしました。旧参道らしく古い石段が頂上まで続いているので、歩きやすいです。龍王山頂上全体は最上稲荷奥之院一乗寺の境内となっています。
ここから、南の最上稲荷本殿(霊光殿)までが岡山最強のパワースポットといわれています。天平勝宝4年(752年)、孝謙天皇が病におかされている折、報恩大師が龍王山の中腹にある八畳岩<写真22〜24>で祈願していると、白狐に乗った最上位経王大菩薩が出現しました。大師がその尊影を刻んで祈願すると、天皇は病から回復しました。その後、大師は桓武天皇の病も治したことから、現在の地に龍王山神宮寺が建立されました。これが最上稲荷の起源といわれています。
現在では伏見稲荷・豊川稲荷とともに日本三大稲荷として多くの人々から崇敬されています。
最上稲荷の正式名称は「最上稲荷山妙教寺」です。つまり、最上稲荷はお寺なのです。 明治時代初頭に発布された神仏分離令においても、岡山県で唯一、神仏習合の形態が許されました。
写真や動画でも紹介していますが、多数の磐座(いわくら)、題目石、お稲荷様、鳥居、末社などに満ちています。きわめつけはインドの殿堂様式の仁王門です。ここまで来ると、それぞれのパワーがありすぎて相殺されるのでは?(+o+)
◆◇サプライズな自然との出会い◇◆
12月中旬近くなので動植物は特に期待していませんでしたが、意外とたくさん観察することができました。
モモジはまだ紅葉が見られるものもあり、ヤマツツジのように本来は4月〜6月に咲く花が狂い咲きしていたりもしました。サザンカのような旬の花以外の植物が見られたのはサプライズでした。
また、セグロセキレイやエナガのような愛嬌ある鳥の鳴き声が心地よいBGMとなり、山行中、ずっと穏やかな気分で歩けました。
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