思い出の鳥海山2001―縞状植被(植被階状土)の観察―


- GPS
- 80:00
- 距離
- 15.0km
- 登り
- 1,185m
- 下り
- 1,168m
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
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写真
感想
2001年8月4日(土)
このゼミに入って初めて泊まりでの巡検となる鳥海山。
1泊目は麓でテント泊とのことなのでFm先輩に言われてシュラフも買った。
OBに言わせると、あのFm先輩が後輩にシュラフを買えなんて言うようになるとはねえという感じだったらしい。
住んでいる場所の関係から自分は教授の車に乗っていくことになり、嬉しいような少々気詰まりのような気もする。
ただ、一緒に都立大から来ているOnさんも乗るというので気が楽になった。
東北道に向かうため、まずは圏央道の青梅ICから乗る。
教授は圏央道の高尾山トンネルには反対しているのだが、近くにできたインターチェンジは使うのである。
反対するところは反対するが、便利なものは使うというこの考え方は合理的過ぎて面白い。
圏央道から関越道に乗り、東松山ICで降り、東北道の加須ICへ向かう。
東松山〜加須間が関越道と東北道が近いようだが、将来的に圏央道鶴ヶ島JCTから先に延びる圏央道は加須よりは少し南側で東北道でつながるようだ。
百穴で有名な吉見町を通り、その先広い広い川幅の荒川を渡る。
ここは川幅が日本一らしい。
自然堤防はどのあたりかなと思いつつ車窓を眺める。
加須と書いて「かぞ」。
うどんで有名とのことだが、知らなければ読めない地名である。
東北道を北上。
東北に来るのは裏磐梯の五色沼や会津若松を旅行した高校2年生の時(1998年)以来3年ぶりだ。
ちょうどその頃は倫理の授業で、その担当教師が原子力発電所の問題について力説していたので、新幹線から海沿いの方を眺めながらここに福島の原子力発電所があるんだなと思ったものである。
確かにこんなに遠い福島から東京まで送電していること自体がロスだし、そんなに人口密集地から遠く離して建設しなければならないほど危険なものなのだ。
仙台手前で山形道に入り鶴岡方面へ向かう。
この山形道は対面通行でところどころ途切れている。
他の車との集合場所になっていた月山湖PAはトイレと自販機しかなかった。
よっぽど利用者が少ないのだろう。
酒田市街に入ると目の前に堂々と裾野を広げた鳥海山が見えてきた。
とても美しく写真に撮りたかった。
祖父からもらったミノルタの一眼レフを持ってきていたのだが、トランクの中だったので撮ることができなかった。
霊峰園地キャンプ場に到着してすぐに教授が後輪を溝にはめてしまって大騒ぎになる。
OBのTsさんがすぐにジャッキアップして救出。
手慣れているなあと感心する。
昨年、別の教授のお供で仙丈ヶ岳に登った時に避難小屋&シュラフは体験しているが、テント泊は初めてだ。
シュラフも昨年は大学の備品を借りたので自分のものは初めてである。
夜中は蚊が入ってきてよく眠れなかった。
2001年8月5日(日)
今日はいよいよ鳥海山に登る日だ。
鉾立登山口から登山開始。
すぐに雪渓が現れ大迫力だ。
昨年行った仙丈ヶ岳には雪渓はなかったので、4年前高校の林間学校で登った妙高山を思い出す。
どちらも日本海側なので積雪量が多いのだろう。
鳥海湖畔に到着するとクルマユリなどの高山植物が咲き乱れている。
やはり妙高山の時見た黒沢池に似ている気がする。
鳥海湖付近で休憩した後扇子森へ。
扇子森付近は緩やかな地形になっていて、確かに植生が横縞模様になっている。
4年生のFm先輩は今卒論で吾妻山の一切経山でこの「縞状植被(植被階状土)」について取り組んでいるところ。
今月中に一切経山へ行き、植生分布図作成のための植生調査を手伝うことになっている。
そのためFm先輩から風衝草原に生える高山植物のレクチャーを受ける。
色鮮やかな花をつける高山植物に目を奪われがちだが、ガンコウランやクロマメノキは初めて注目して見たと思う。
鳥海山特産のチョウカイフスマもたくさん見ることができた。
同じ高山植物であるタカネツメクサの花を大きくした感じだが、この時は大きなハコベだなと思った。
観察を終えて振り返ると雲に隠れていた山頂、新山が姿を現していた。
今晩の夕食の調理のための水を調達するために雪渓の雪を取りに行く。
表面は黒いところがあるのでなるべく中のきれいに見えるところを取ったが、それでも汚染物質は含まれているんじゃないかと思う。
が、登山をするならそんな細かいことを気にしてはいけないのだろう。
鳥海湖畔では電波が通じたので親からメールが来ていないかチェック。
auの携帯はEZwebAというので一応メールはできるのだが、メールを見るためにはいちいちサーバにアクセスしなくてはならない。
旧IDOのエリアである関東・中部から出ているので「セルラーローミング」になっており、メール問い合わせにずいぶん時間がかかった。
夕食後小屋内は狭いので、小屋の外でくつろぐ。
目の前に日本海に沈む夕陽が見える。
眼下には飛島。
メンバーのほとんどは夕陽が沈み切る前に小屋内に入ってしまったが、ひとりだけ残っている人がいた。
今回のメンバーには教授が主催している山の自然を学ぶカルチャースクールのようなものに参加している方も含まれていて、その人はその内のひとりだった。
夕陽はやっぱり沈みきるまで見ないとねと意見が一致し、その60代のIさんとかなり仲良くなれた。
夜、御浜小屋は超満員で本当に足の踏み場がないほどぎっしりと詰め込まれる。
トイレに行くのにも人と人との間に足を差し入れて歩かなければならないほどだ。
奴隷船ってこんな感じだったのかなと思いつつ、暑いしやはりあまりよく眠れなかった。
星空を見たかったのだが、人を踏んでしまいそうだったので外に出るのは諦めた。
2001年8月6日(月)
今日は外輪山の七高山を経て、中央火口丘である新山を回って下りる。
外輪山は扇子森とは違い、切り立った荒々しい地形だ。
このあたりも4年前に登った妙高山の外輪山である神奈山と似ているなと思う。
妙高山は中央火口丘から東に向かって溶岩流が外輪山を突き破って流れているが、鳥海山は西に向かって山体崩壊を起こしている。
外輪山から一度下り、中央火口丘である新山へ登りたかったのだが、教授から山頂なんて行く必要はないと言われて諦める。
一緒に夕陽を見て仲良くなったIさんと、山頂だって行ってみなければどんな面白いものが見られるか分からないのにねと話しながら下る。
観察しつつ登ってきた初日とは違い、下りはあっという間だった。
昨日より良く晴れていて、庄内平野なども眺めることができた。
またキャンプ場で宿泊。
2001年8月7日(火)
朝、キャンプ場内でFm先輩が雨で流れたカラマツの落葉が作った波型模様を一眼レフで熱心に撮影している。
この波型模様が扇子森の「植被階状土」に似ているとのこと。
とすると植被階状土の成因は凍結融解作用だけではなく、流水作用も関係しているのだろうか。
自分の一眼レフはフィルムが残り少ないので撮影するのは1枚だけにしておいた。
最後に象潟へ寄る。
この象潟は、もともと鳥海山の山体崩壊でできた流山が、松島のように浅い湾にポコポコと浮かんでいる風光明媚な場所だったのだが、
地震による隆起で陸地になってしまった場所だ。
高校生の時ずっとはまっていた司馬遼太郎の「街道をゆく」で読んで知っていたが、実際に見られたという感動があった。
一面の田圃で、松尾芭蕉が来た頃の海の風景が想像できた。
「象潟や雨に西施がねぶの花」(松尾芭蕉)
今月はこのあと大朝日岳と吾妻山の予定が入っているのでまたすぐに東北に来ることになる。
楽しみだ。
(2021/06/23 記)
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