函館から駒ケ岳、函館五稜郭、志海苔館、函館山


- GPS
- --:--
- 距離
- 87.8km
- 登り
- 1,646m
- 下り
- 1,667m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2018年07月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 自家用車
|
写真
感想
1)7月30日(月)駒ケ岳:南北海道、北東北古墳古代遺跡巡りレンタカー反蝦夷論の旅
私は蝦夷という言葉が嫌いだ。ヤマト王権が中華思想の大唐帝国に対して日本も北の辺境の野蛮な異民族を服属させ、天皇の徳を慕って服属するとアピールしたかったのだろう。迷惑な話だ。おまけに広大な土地と人びとから富を搾り取ろうと言うのだから、穏やかでない。現代で言えば外島に軍隊と移民を送って人びとを虐殺するインドネシアの郡司体制やアマゾン開発で先住民の土地を根こそぎ奪うブラジルの開発政策のようなものだ。
では蝦夷と呼ばれた東北の人びとは野蛮人だったのか?異民族だったのか?いずれもノーだと言いたい。蝦夷とは誰なのか?については様々な議論があり、資料が不十分なこともあり、未決着だ。この問題の答を求める旅だった。
七月30日、はやぶさ一号で函館に向かう。11時前に新函館北斗に到着、JR駅レンタカーでいざ出発ーJRレール&レンタカーはレンタカーと新幹線などの特急券と乗車券ともにかなりノー割引になるのが売りだ。しかしながらレンタカーの格安料金などと比較するとトータルで安いかどうかは 微妙でケースバイケースと言わざるを得ない。今回のケースでは新函館北斗における駅からのレンタカー営業所の距離が決めてだった。木古内まで走って乗り捨て返却なのでそれが可能なレンタカー会社の営業所は何キロもあり駅からの遠い。
結論から言って東北の多くの博物館や埋蔵文化財センターなどは蝦夷という言葉を安易に使いすぎていると思われる。蝦夷とヤマト王権から呼ばれた人々が実際どのような人々であったかは議論が別れるが、日本書紀などが言うような野蛮な異民族ではないことだけは確かと思われる。実際七世紀以降の北東北の遺跡調査から見るとかなりの程度古墳文化が浸透し竈付きの住居に住み、馬を飼育し、牧を経営する文明人だ。土器などで縄文色が強いと言ってもそれは恐らく列島全体の問題で独り東北だけの問題ではない。ましてや縄文人は我々列島人の紛れもない祖先の一部であり異民族であるわけない。こうした論点を各地の出土資料を見比べて確かめたいというのが今回の旅のテーマだった。
残念だったのは今年の世界遺産登録の国内リストに北海道、北東北の縄文遺跡が選ばれめでたい一方縄文に着いたの展示以外は切り捨てられるというとんでもない事態ま発生している。縄文は素晴らしいと考えるなろその血筋を色濃く引いているはずの北東北人を野蛮な異民族とはとんでもないと理解できるはず。実際はかなり非縄文的な文化も受け入れているのだがー
第一日函館
新函館北斗液に11時前に到着しさっそくJRレンタカーの営業所を探すと駅のロータリーの先にあった。民間のレンタカー会社と同じ敷地でおそらくJRレンタカーは独自にレンタカーを運営しているのではなく民間と契約して営業しているらしい。新潟ではナビ設定が上手くいかず危ない目にあったので、今回はナビの使い方を納得いくまその上でまず大沼から駒ヶ岳登山口に向かって走り出す。登山口は六合目にあり、レンタカースタッフに設定してもらった途中にあるレストランを通過して、更に進むと駒ヶ岳登山口方面の案内板が出ていたのを見逃さす左折するとか既に道は未舗装の林道に入り車は全く見かけないので大丈夫かなと不安を感じるがどこかの写真で見た見覚えのあるゲートが見えたのでそのまま進むとしばらくしてようやく登山口に到着する−12時20分過ぎ。曇りの予報もあったが陽射しが強烈で暑さは異常だ。登山届けを提出し歩き始める。登山コースは火山らしく剥き出しの火山岩混じりの崩れやすい道をひたすら登って行く。しばらくして八合目の道標が見えたのであと半分と思うが暑さでなかなかスピードはでない。火山活動は続いているようで剣ヶ峯方面は立入禁止区域で途中の馬の瀬までが歩ける範囲らしい。登って行くと鋭い剣ヶ峯方面が見えてくる。暑さを耐えて何とか9合目まで到達、軽く補給して山頂を目指す。途中道標が左方向を指しているので登山道から離れて一刈の赤いマークを進んでみるが途中でマークは消え、ルートがあるかどうかわからず、再びまっすぐ枯れ場を進んで元のコースに戻り、広い山頂の要は広場に出るー13時35分頃。道標が四方のコースを指しているが、広場の周りにはロープが張って行き止まり、これ以上は危険で立ち入り禁止区域になっている。どうやらここが馬の背らしいが道標には現在地の名称がない―登山口からここまで70分くらいだ。他の方々のレコを後で見たら、かまわず剣ヶ峰を一周している方もいるようだ。時間はあったのでいけばよかったか?ここで少し補給して剣ヶ峰など周囲の堂々とした火山の峰々などを撮影し、下山することにした。9合目で親子4人連れが家族写真を撮ろうとしてたので、撮影をお引き受けした。下りはあっという間にーと思ったが、50分もかかっているので、結局これからの長旅を考慮してゆっくり確実に下ったようだ。14時41分下山。この後、高速に乗って函館に戻り、五稜郭など珍しく観光にいそしむーー??
駒ケ岳登山から函館に戻り、まず五稜郭見学――北海道は今から40年くらい前にバックパッカー風の貧乏旅行、その時は自転車はやっておらす、鉄道、バス徒歩で積丹半島や尾岱沼などを歩いたこと、ユースホステル中心に宿泊し、「ジンギスカン」をふるまわれたり、漁師の家に泊まって早朝3時ごろ極寒の尾岱沼で漁師の船に乗って網を引いたりなどの記憶があるが、記録は失われているのでそれ以外は覚えていない。山歩きはしていないかもしれない。
今日は月曜日なので大半の博物館などは休館、そこで今日は五稜郭や志苔館跡などを見ることにした。2時40分過ぎに駒ケ岳を下山し、1時間強で函館に戻り、五稜郭に直行。9百円取られるタワーには上らず、奉行所を見学ー五稜郭は幕末、ロシア。アメリカなどの船団・艦隊が出没する蝦夷地(当時の名称)で、函館港開港に備えて幕府が旧来の低地の奉行所を急遽高台に移し、西洋式の稜堡式城郭(星形要塞)を築いたもの。五稜郭は1864年、建設工事着工、66年に完成したがその2年後には幕府が崩壊、榎本武揚、土方歳三らの奮戦にもかかわらず土方は二股口の戦いで敗れて函館まで後退し、新政府軍の砲撃、狙撃により五稜郭も破壊され、土方も命を落とした。
明治時代になり、五稜郭は練兵場として使われたが、1913年(大正2)には公園となり、1925年(大正11)には国史跡に指定され、戦後1952年(昭和27年)には特別史跡に指定された。1980年代から奉行所復元のための黄砂が開始され、85年以降発掘調査が繰り返され、2000年((平成12)には奉行所復元構想などが策定され、2006年に着工、2010年に完成した。総工費は18億円ともいわれるようだ。建設資金は国、道、市が分担し、国の補助が最も大きいようだ(国の特別史跡ゆえ)。外観も立派だが、中のつくりも見事で柱や梁などの木材を見ても最上級のヒバなどを用い、中でも大広間壱の間は奉行が謁見する最重要の部屋で、床の間の違い棚では大きな欅の一枚板に漆を塗りこんだ贅沢極まるもので、高級車が買えるような費用が掛かったそうだ。内装の建具なども素晴らしい。復元の様子のビデをを見たが、全国から腕利きの宮大工らが集められ、なんとも贅沢な復元奉行所が誕生した。当方の自宅も大工、塗り壁(竹小舞に塗る)、建具など腕利きの職人さんらにお願いしたが、この奉行所復元はけた違いの贅沢な造り、見学の勝ちは十分にある。見学後、五稜郭の土塁の上を歩き、函館湾を見下ろしながら、往時を偲んだ。見学に1時間以上、予想以上に時間がかかり、5時半前、急いで次の見学地の志苔館跡に急ぐ。しかしこれがなかなか見つからず、付近を三回ぐるぐる回る。最後に住民に尋ねると、分岐の坂を上ると右手奥に看板があるという。近くに車を止めて、細い道を右に進むと看板があり、そこから遺跡に入る。ここも昭和9年(1934)に国史跡に指定、1977年に周囲の土塁や溝を含め追加指定を受けている。1980年代には発掘調査も行われ、15世紀を主体とする瀬戸、珠洲焼き、青磁、白磁などの高級陶磁器が大量に出土し、中国・朝鮮、沿海州などの大陸と北海道、本州の三角貿易で大いに繁栄した様子がうかがえ、史跡の全体像が明らかにされている。この館は室町時代の中世城で続名城100選にも選ばれている。松前藩の記録によると、この時期(室町時代の志苔館の時代)の道南地方では12の和人館(城)があったが、和人側の横暴に耐え切れず、アイヌが蜂起し、1456年、コシャマインの戦いで館は落城し、館主の小林氏は松前藩に服属し、その後は歴史の記録からは消えているようだ。弥生時代・古墳時代併行期の北海道と東北は対等の交流交易が盛んだったのは縄文時代以来の伝統、ただし、南は稲作を含む農耕社会、北は雑穀栽培なども時間を折ってはいるが、基本的に狩猟採集社会で文化が分かれていくし人口も農耕社会側が圧倒的に増加したはず。「蝦夷と呼ばれた仙台平野以北の北東北は稲作や雑穀栽培、古墳文化が次第に北上し、馬の生産や鉄器製作なども行うようになる。鉄器を求めて弥生時代末から新潟や東北に足を延ばした北海道の続縄文文化人は、本土の和人に昆布やヒグマやラッコなどの海獣の毛皮などを交換する。平安貴族らもそうした物産を貴重品として求め、さらに武人はクマタカやイヌワシなどのワシタカ類の羽を矢羽の材料として珍重した。さらに続縄文人は次第に北方民族の南下もあり、中国大陸やシベリアなどの大陸とも交易をおこない、本州と北海道を結ぶ三角貿易を行うようになる。大陸からくるガラス玉や錦など様々な物資を交易品とし、代わりにコメや鉄器その他を得ていた。これらの交易は莫大な富を生み出す可能性があり、次第にヤマト王権〜平安の有力者たちはこうした富をわがものにしようとする企みが膨らんでいったのだろうか?。志苔館など、中世の和人の進出はこうした歴史の語り部となる。
なんとか史跡 志苔館跡を発見して撮影し、次は函館山に向かう。志苔館跡ですでに日は傾いていたので、函館山では日没〜夜景が見られそう――あまり観光はしないのが私の旅の常だが、今日は月曜日で博物館なども閉館日なので、登山と観光にいそしむ1日ーー一いろいろ予定が変わってやや中途半端な一日と相成ったーー。
函館山ロープウエイ駅そばの観光駐車場に車を止めて山頂展望台で夕日と夜景を少し見る―めったにしない「観光」を楽しむ。外国人それも中国や東南アジア系の観光客が多い。最近の傾向だろうか?ロープウエイが混むので少し早めに退散したので、夜景の撮影はよくできなかったが、明日のドライブに備えて早めに宿に戻り、休むことにした。
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