根来寺〜紀三井寺 近畿に最も早く春を告げる桜の名所


コースタイム
◇コース JR三ノ宮7:30⇒大阪(紀州路快速)⇒JR紀伊⇒(バス)根来寺(10:00〜11:20)(バス)⇒紀伊11:40⇒紀三井寺(12:20〜13:30)⇒JR和歌山14:30→和歌山城(15:00〜16:00)→JR和歌山16:30⇒JR三ノ宮18:30
天候 | 晴れ時々曇り |
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過去天気図(気象庁) | 2012年03月の天気図 |
コース状況/ 危険箇所等 |
※交通費:電車代¥3780 バス代¥680 ※青春18 切符が使えます ※散策時間により、遅くなる場合もあります |
写真
感想
青春18切符で、近畿で一番早い桜を見に行きましたが、今年の寒さで、早すぎました。それでも紀三井寺では咲いていました。後、1週間から10日すると、どこも満開の桜がみられそうです。
関西で最も早く春を告げる桜の名所と期待に弾んだはずが、この処の寒気のため少しガックリ!まあ楽しみは次回以降に・・・と覚悟の上先ずは卍根来寺へ(真言宗の名刹)。境内への参道が右も左も桜並木の連続。
花の見頃は2週間後とは地元の人の話。国宝の多宝塔は拝観料が要るため、柵外から望み、奥の院へ。厳かな雰囲気の杉並木の中を進んだ。青春18切符でJR三昧。紀伊駅から紀三井寺駅へ。途中乗り継ぎ時間待ちの間、名物の和歌山ラーメン(駅ホームの立ち食い)が安くて旨かった。
次は西国三十三ヵ所観音霊場第二番札所紀三井寺へ。230余段の急な石段を登り詰めると本堂が鎮座。万葉集で名高い名勝和歌ノ浦が展望できる。明るい境内。桜千本余が見事に花開き、山の全域を霞のように包み込むとのこと。帰りは表参道を行く。土産店には名物柑橘類の山、山・・・・思わず買いたくなる。
終わりに第三の目的地、和歌山城へ。JR和歌山駅からメインストリート欅大通りが城へと続く。桜並木の長い石段道を登ると天守閣。BGMに「テンテンテンマリ、テンテマリ・・・」、童謡『紀州の殿様』(西條八十作詞、中山晋平作曲)が静かに流れていた。ここで遅い昼食を取り帰路駅へ向かう。
和歌山の三大名所を日帰りで格安に旅する素晴らしい企画、煩わしい切符の手配、CLに感謝。(YA)
以下はまたまた司馬良太郎『街道をゆく』から
根来寺は、風吹峠の紀州川のふもとにある。峠(いまは風吹トンネル)の頂上が216メートルという低い丘陵で、古来、ここを根来街道が通っている。北へゆけば泉州(現・大阪市泉南市)になり、南に降りれば根来寺の門前になる。さらに降りれば、紀ノ川が光るのを見る。紀ノ川流域では、せまい平野が、寸土をむだにせずに耕されている。 根来寺は、もはや往時のようではない。
その空閑としたところが、この広大な境内の清らかさになっている。わずかに残った大門や堂塔、塔頭(たっちゅう)が、ひくい丘陵と松柏(しょうはく)にかこまれて、吹く風までが、ただごとではないのである。”
根来寺の歴史は、平安末期に、一時は高野山座主(ざす)だった覚ばんが、異端のゆえをもって高野の集徒に追われ、この地にきて寺をたてたときからはじまる。...
かれにふかく帰依していた鳥羽上皇が、このあたらしい寺に、紀ノ川流域の荘園を寄進した。覚ばんの死後も寺領がふえつづけ、ついにこの寺は戦国大名ともいうべき大勢力に発展する...
根来という地名は、若狭にもあり、若狭では、ネゴリとよむ。若狭根来(小浜市域)は紀州根来と同様、山中である。南の近江県境の山から北の小浜に向かう古道を若狭では根来道(ねごりみち)という。この紀州根来と同様、高所からしだいにくだってゆく地点にある。
そこで、「峰をほどよくさがった南陽(みなみび)を受ける斜面」という地点を、ネゴロというのではあるまいかと司馬は思う。
若狭根来の山中、また紀州の葛城山脈(根来もその山中にある)は、ほんの大正時代ぐらいまで木地屋(きじや)が活躍した山々である。木地屋とは、ロクロをもってお盆やお椀などの挽物を粗挽きする上代以来の山林の職業人のこと。木地屋は漂泊の人々。日本は、縄文末期から漆塗りがあり、弥生時代から挽物があった。古代の律令国家がはじまると、什器が必要なのでろくろ師たちは官制の中に組み入れられた。つまりは、下級の技術系役人だった。いつのほどからか官を離れ、木地屋という職業集団として活躍する。かれらは、山々を歩き、気に入った木を自由に伐った。とくに、ブナ、ケヤキ、トチのよさそうな木があると、たれに断ることもなく伐って、山小屋でロクロをひき、里の者と物々交換した。欲しい木がなくなると他の山に移る。この漂泊をかれらの術語で「渡(わたり)」といった。そういう木地屋たちは木選びのために山の高さ、斜面の方角に過敏だったろう。ネゴロとは、かれらの地理用語だったのではないか。山のちょうどの地点(ネゴロ)で木を見つけたり、作業のための山小屋を立てたりしたのではなかろうか。
室町期に入ると、根来寺の寺領はいよいよ大きくなり、江戸時代式の石高でいうと、70万石ほどになった。雄藩の薩摩藩ほどの規模である。「行人(ぎょうにん)」とよばれる僧兵も、ふんだんに召抱えた。山内の建物が実に多かった。堂塔・伽藍およびその付属建物は2700余棟、行人の住む坊舎が80余坊もあったという。僧俗合わせて2万人以上がこの山中に住む一大宗教都市だったと考えていい。一大城郭でもあった。付近の寺領への行政の庁でもあったから、紀州は根来により天下に重んぜられていた。商工業も大いに発展した。対明貿易までしていた。以上の如く、根来寺は全国に情報網をもっていた。1543年種子島に鉄砲が伝来したと聞くや、すぐ人を出す機敏さは容易な事ではない。伝来した2挺のうちの1挺を種子島時堯(ときたか)から杉之坊が譲り受け、根来に持ち帰り、堺の鍛冶芝辻清右衛門に大量につくらせる。鉄砲の各地への売り込みにも杉之坊が活躍する。鉄砲伝来譚には、かならず根来寺がでてくる。その後、根来衆は、戦国大名にさきがけて鉄砲をもって武装し、後年豊臣秀吉によって堂塔・行人ともに滅ぼされるまで、ぬきん出た鉄砲集団として四方からおそれられた。
根来の山に、学侶や行人が多く住むようになると大量に生産されはじめたのは、なにより什器だった。根来塗である。「根来物は、山内の僧がつくった」といわれるが、ロクロ仕事は定住した木地屋が担当し、僧の好みに従って形をつくったのが根来塗だったろう。.....
紀州文化は、室町から根来寺の壊滅までが、一大頂点であった。1585年、秀吉紀州攻め。根来寺炎上。前日に根来衆は退去していたため人死はなかった。しかし、2000もの建物が一挙に燃え上がった。(紀ノ川流域 by 司馬遼太郎より)
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