毛無岩・立山・荒船山紅葉ハイク
- GPS
- 08:30
- 距離
- 17.6km
- 登り
- 1,418m
- 下り
- 1,681m
コースタイム
天候 | 曇時々晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2011年11月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
自転車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
今回は荒船山まで行くために東立岩は割愛した。西立岩までは鎖場などもあるが、特に困難な場所はない。立岩から先は道標が立岩方向ばかり示して、荒船やイヌ牟岐不動方向を示していないので、分岐の選択が難しい。実際、イヌ牟岐不動と星尾峠・経塚山方面との分岐で迷ってしまい、時間をロスしている。立岩から荒船方向は長い道のりで歩くハイカーは少ないようだ。道も明瞭でない。踏み跡をたどってなんとか道標のある場所に出てきて黒滝遊歩道(星尾峠・黒滝不動寺)に出た。そこからは経塚山・艫岩まで道はよくなる。帰路、イヌ牟岐不動への道は若干荒れているものの、道標も踏み後もはっきりしているので、迷うことはないだろう。イヌ牟岐不動から登山口までの道はしっかりしている。 |
写真
感想
11月14日:西上州立岩、荒船山MTBハイク
何度か夜中に目が覚めたが、最後は5時ころに起き出し、着替えをしてサブザックの準備。すべて準備して6時前に食堂に。すでに準備はできていた。6時15分ころには朝食を二杯おかわりしてすっかり満腹。食事を終え、ご主人に車を出せるか尋ねると大丈夫という。会計を済ませ、MTBを車に積み込み、6時20分過ぎ出発。6時33分には2キロ先の荒船・立岩登山口に到着。まだ車は一台もなかった。MTBを下ろし、お礼を言って出発。37分、入口から少し先にMTBをデポ、立岩方面に向かう。6時43分、立岩とイヌ牟岐不動の分岐。
ここからしばらくなだらかで広い落ち葉の道を気持ちよく歩き、40分ほど進むと東西立岩の直下に差し掛かった。ここで10分近く撮影し、少し先に進むと岩峰の間の谷間を渡る辺りで踏み跡が不明瞭になった。先に進む道を少し進んだがどうも道が消えそうなので谷間に戻って谷を上ると踏み跡とテープが見えた。さらにその踏み跡は右の岩場に向き、鎖が見えた。ここが岩場の上り口だった。7時44分、ここを越えるとすぐ先に立岩のコルがあった。右には踏み跡があり、東立岩に出る。このコースは熟達者向きらしいが、かなり人が登っていると思われる。今日は先が長く、東立岩往復は1時間以上取られるので、割愛し西立岩を急いだ。30分弱で稜線に出て、8時15分山頂。
山頂からの展望は北西側が開け、どうやらこれから向かう荒船山一帯の稜線、経塚山、御岳、兜岩山と毛無岩、トヤ山の黒滝縦走路の稜線らしい。かなり遠く感じる。ここは撮影し、水分を補給するだけで、先に進む。ここからは厳しい下りかと思っていたがさほどでもなく、前にそびえるジャンダルムの岩峰を左にまいて、その先に鎖二本を頼りに進む岩峰があった。見上げると厳しそうに見えるが、実際には足場もあってたいしたことはない。立岩山頂から30分くらいで、岩場を越えてベンチと道標があるが立岩しか方向指示がない。先に進んで9時2分、分岐に出たがここも立岩以外に道標がない。本来、ここはイヌ牟岐不動への下山路と荒船山方面の分岐のはずだが、ガイドには分岐に道標とベンチがあるように書かれていたと考え、念のため元に戻ってみたがベンチまで行っても他に道の分岐はなかった。岩峰のやせ尾根のほかは急激に落ち込むがけになっており、経塚山方面の稜線に出る道は他に考えにくい。また先の分岐に戻って直進を選ぶ。左は行ってもどんどん逆方向に下降し、明らかに下山路だ。30分くらいロスして9時半再出発、少し先で再び岩峰にさえぎられ、踏み跡がはっきりしない。右の踏み跡を進むと谷に出た。テープも失われ、明らかに誤った場所に出たらしい。GPSで見ても道は左の尾根筋についている。しかし上を見ると登れそうな谷筋。もう少し先に行って別の小沢との間の高台を歩いてみたが、仮に上に出られてもコースとはやや違う場所に出そう。そこで再び元に戻り、左側を進んでみた。すると岩峰の左を巻く道が次第にはっきりして、これで間違い無さそう。
ここでも時間をロスしたが、なんとか10時19分、立岩と縦走路の分岐に出た。二回の道迷いで40分近くロスしたが、なんとかなりそう。ここで少し行動食を補給し、経塚山を目指す。10分少しで星尾峠・立岩の道標、さらに20分くらい先で星尾峠と経塚山の分岐。ここからのぼり10分くらいで10時59分、経塚山に出た。ここは前方に艫岩方面が見えるが間は広い草原状態。水だけ補給し、山頂から先に進むが道が不明瞭。笹薮の中に道は消えている。左下に明瞭な道が見えるが、真っ黒で水が流れたかのようだ。しかし降りてみるとおそらく霜解けか何かだろう。問題なく下れる。真っ黒の泥の道を下ると11時11分、星尾峠と荒船山艫岩絶壁展望台との分岐。すぐ艫岩を目指す。途中若者グループとすれ違い、分岐で経塚山の道標を見て荒船ではないのでここが山頂か、などといっているので経塚山が荒船の最高地点と教えた。登っても15分もかかるまい。
ここからはほぼ平坦地で笹原の途中で大きな石碑。「皇朝最古修武之地」という石碑で昭和初期の農民が野菜と魚以外の動物などを食べてよいかどうか、天照大神に問うた、という。
この文字の謂われは、信州にある建御名方神(信州諏訪神社)が、寒さが厳しく、海もない信州では、天照大神の命による、「野菜、魚意外は殺生して食してはならない」とのことでは生きてはいけない。そこで、猿、鹿、を食べても良いかと聞きに訪ねたところ、天照大神は「ならぬ」との返事でした。
そこで、温暖な平地で、海にも出られる関東の地へ領地を拡大するべく戦の準備を始めました。
この事を知った、経津主神(香取神宮)と建御雷之男神(鹿島神宮)は、建御名方神を迎え撃ちにするべく、信州境にあるこの地へ赴き、陣を構えた。
名だたる軍神たちが戦いを起こせば国が荒れることを心配した天照大神は、孫であるニニギをこの地に遣わせ、三神の和議を結ばせた。
この言い伝えを記したものと言われている。一人のハイカーが近くまで行って撮影していた。11時33分、艫岩手前の避難小屋に出る。中を撮影し、使えることを確認、艫岩展望台で昼食の弁当を半分食べる。艫岩展望台から絶壁の下の大きな道路や北側の山々が見えたが、浅間山か白根山か遠くははっきりわからなかった。11時50分には出発し、12時11分には星尾峠分岐、17分には黒滝遊歩道入口、遊歩道入口はやはり荒れていてその先に進めるかどうか危うい感じ。星尾峠まではよい道で4分で星尾峠に着いた。兜岩山方面、田口峠方面、荒船不動方面と道は多岐に別れている。ここは線ガ滝(星尾)方面に向けて進路をとる。時間があれば兜岩山に行きたかったが、別の機会に。
30分くらい沢沿いの道を下ると12時55分、線ガ滝と田口峠分岐を経ての星尾行きの道の分岐に出た。ここはイヌ牟岐不動を経由する線ガ滝方面に進む。沢の左岸から高岩の下を巻くように進む。15分くらい進むと、テープが見えなくなッ足りテープの色が変わり(赤が金銀に)、道が登りになってきたので心配になった。しかし戻っても別の踏み後もなく、そのまま進むと高岩の下の等高線に沿って巻いている道であることがはっきりしてきた。GPSで確認しても方向は問題なし。さらに10分くらい進むと高岩が藪の向こうに見えてきて、さらに進むと東屋があった。さらに10分少し進むとついにイヌ牟岐不動の道標があり、不動へはそこから立岩方向に少し戻る感じ。500m先にイヌ牟岐不動はあった。東屋があり、差の先に古い祠の跡があり、40m上の岩壁の上部から霧のように降り注ぐ滝が落ちている。なかなかの光景で、ここに不動があったのもうなずける。撮影していると立岩方面から若いハイカーが一人降りてきた。撮影を終えて後を追った。すぐ下に水のみ場の道標があり、右上にパイプから出る水場があった。さらに10分ほど下ると参考のハイカーを追い越して立岩分岐に出た。登山口はすぐ下で14時22分、MTBを回収し、すぐしたの線ガ滝に立ち寄った。線ガ滝の滝つぼまで下りて撮影し、再び出発して14時40分、星尾大橋を通過。ここから立岩の全貌が見えるので止まって撮影し、宿に戻ろうとすると民家の庭先に無数の鉢が置いてあった。覗いてみるとほとんどがイワヒバの鉢だ。イワヒバはこの辺り一帯の山に自生しているらしい。そういえば山中のどこかでイワヒバ採取禁止の立て札を見かけた。イワヒバの産地らしい。宿には14時50分ころ到着。荷物をまとめ、お茶を頂き、お礼がてら少しご夫婦と話をして(宿の将来のいろいろな山の企画など)、宿を出発。
まずすぐ下の吉祥寺に立ち寄り、この古刹の撮影をしながら、庭の手入れをしていたご婦人と話をする。400年以上の歴史を持つこの天台宗のお寺、かつての村の繁栄を象徴するような山門の左右の像、本堂の正面の彫刻、また参道には多くの仏像が置かれている。中でも不動像はあのイヌ牟岐不動の不動の本尊だとその女性が教えてくれた。
ここから羽根沢まで一気に下り、93号線(下仁田・佐久線)に入って下仁田を目指す。最初に砥沢でストップ、この砥沢の南側の山間部はハイキングコースには出ていないがかつて江戸時代には砥石の生産で幕府の庇護と管理を受けていたようだ。いつか時間のあるときに現地を訪問してみたいものだ。
砥沢について:
出桁造りの町並が続く南牧村砥沢、江戸時代には砥石の採掘で栄えた所だ。
南牧村砥沢は中山道脇往還が下仁田で分岐し、砥沢を経て信州・甲州に通じている。国境に通じるため、文禄2年(1593)砥沢村に南牧関所が設けられた。
砥沢村の江戸時代は幕府領で耕地は全て畑で、上畑・中畑・下畑・下々畑・山畑・桑畑・楮畑・切畑・荒畑と分類されていた。家数・人数は宝暦3年(1753)156・742。安政5年(1858)117・456。
特殊な産業として砥石の採掘があった。徳川家康の関東入国以来幕府の御用砥として重要視され、御蔵砥とも称された。 天正5年(1577)の売買にかかわる文章も残存することから、中世末期には開発されていたことになる。
江戸期に入り富岡町の奈良屋彦次郎が経営にあたっていたが、その後経営者が何人も交代した。砥石の採掘は砥株の所有者121軒のみが許されていた。極めて良質な砥石であった。
穀市も立てられ、信州佐久米が中馬によって峠越えで運ばれ、1・4・8の日の九斎市の穀市で売買された。
南牧関所の通行を見ると、安永5年(1776)の記録では4月12日〜22日の11日間で、信州から上州へは77人。上州から信州へは121人とある。主な通行人は山伏・油売り・ふるい屋・桶屋・武州藍屋などで特徴的なのが信州米の輸送の中馬である。
家数・人数は宝暦3年(1753)156・742。天保9年(1838)122・401。安政5年(1858)117・456。
中世末期から江戸期にかけて産出された砥石は、明治11年新鉱脈が発見され、生産量は大幅に増加した。明治29年には全国生産第2位になり、従業員数も総人口800人の75%を占めた。しかし昭和30年頃から生産は激減し、昭和60年以降採掘されていない。
町並は南牧川沿いに形成され、街道の両側には出桁造りの町並が昔のままの姿で残っていた。造り酒屋の建物も健在だったが、もう店は閉められていた。−古い家並みHPよりー
砥沢から六車の間に蝉渓谷がある。往路でも撮影をしたが、復路でも往路での撮影では取らなかった場所、アングルから再度撮影(15時38分ころ)。さらに雨沢から小沢橋に向かう途中、道の駅があるが、残念ながら月曜日は休み、中を覗けなかった。いずれにせよ、宿お勧めの乾燥芋も干し柿もまだ寒さが来ないのでないはずだが、11月末から12月に行く機会があれば、買って見たいものだ。
16時を過ぎ、下仁田駅に程近い場所に手作りこんにゃくの「やまふぐ」がある。今回もここで「刺身蒟蒻」「天日干し蒟蒻」など数種を購入、すこしMTBの話などをして、駅に向かう。駅のすぐそばの商店街で16時27分、群馬のお酒の店に入り、下仁田唯一の造り酒屋「聖徳銘醸」の特別純米酒を購入、帰りの車中で残った食べ物を肴に楽しみながら帰宅した。16時45分の電車にぎりぎり間に合った。蒟蒻は大変おいしかった。
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