浅草岳


- GPS
- 08:40
- 距離
- 16.5km
- 登り
- 1,727m
- 下り
- 1,719m
コースタイム
- 山行
- 6:48
- 休憩
- 1:42
- 合計
- 8:30
天候 | 曇り |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2020年06月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
特になし |
その他周辺情報 | 寿和温泉(露天風呂が600円で室内風呂が700円 券売機で購入) |
写真
三角点の上の文字は主?王?
鬼が面山の三角点の冠字選点番号が力第28号なので27と26を調べたが、誰が選点し設置したかは国土地理院のHPからは探すことは出来なかった。
鬼が面山の香川松太郎のものではないとしたら、明治41年5月に 浅草山(孝第24号)を選点した丸田元亮によるものか、只見の作業をしていた田辺他見雄か、果たして前年に剱岳を初登頂した柴崎芳太郎が三川方面で明治41年4月から8月に実に47点の選点・埋設作業を行なっているが?
装備
個人装備 |
長袖シャツ
Tシャツ
ズボン
靴下
グローブ
雨具
着替え
靴
ザック
ザックカバー
行動食
飲料
ハイドレーション
地図(地形図)
筆記用具
携帯
ナイフ
|
---|
感想
ヒメサユリと一等三角点を目指して山に入りました。
三角点は、今は国土地理院の管轄だが、明治の頃は、正確な全国地図の作成のため陸軍の参謀本部の陸地測量部が担当して全国に三角点網を張り巡らせた。
その際に、測量官が、初登頂した山もあった。
剱岳(登頂者:柴崎芳太郎)であったり、前穂高岳(登頂者:館潔彦)は、陸地測量部の測量官が初登頂者となっている。(剱岳は、修験者が既に登頂していたらしいが、、、)
館潔彦は、全国の一等三角点を数多く選点した人で、先日見に行った新潟市内の松ヶ崎もこの人による。
一等三角点は、高い山の頂など約40kmごとに1つの間隔で設置されている。
館潔彦は、なんとなくエリートのような感じだが、柴崎芳太郎は、剱岳を初登頂という名誉はあれど、一等三角点の選定作業には携わらず地道に全国の小さな山を駆け回った人のようだ。
柴崎芳太郎が選点した三角点が新潟には沢山あるが、全て三等三角点である。
三等三角点は、少し低い山の頂に数多く眠っている。
それを目指したかった。
しかし、調べた限りでは登山道が無い山頂ばかりであったので、とても登れるようなものではないことが分かった。
そのため、一等三角点のある山で ヒメサユリがちょうど見頃だという浅草岳を目指すこととした。
浅草岳の一等三角点の経緯を国土地理院のHPで調査した。
新田次郎の「剱岳(点の記)」で柴崎芳太郎が剱岳を日本山岳会よりも先に初登頂するように上司から指示を受けた。
柴崎は、先輩の退官測量官を訪ねてアドバイスをもらうのだが、その訪ねた人が「古田盛作(映画では役所広司)」であった。
浅草岳の一等三角点は、古田盛作が設置したものであった。
少し遠いかもしれないが、柴崎との繋がりがあった!
しかし、明治31年6月10日に古田盛作が三角点を設置したが、落雷による損傷のため明治38年10月9日に山本五郎が柱石を交換と点の記の記載があった。
残念だが、地上に見えるものは古田盛作の面影はないものとなる。
点の記の情報では、測量にあたって 作業員をいくらで雇ったかなども記載あり、明治期には、只見町の叶津地区より1日45銭で雇ったが、昭和35年のでは同じ地区より1日600円となっている。(物価が高騰したのが分かる)
新潟側からの方が頂上までの距離は短いが、福島側からの方が人夫の雇い入れがしやすいので結果的に福島県側からがベターであるとも書いてある。
また、明治期には、八十里越では通行者の救助を目的とした小屋を長谷部長吉氏が営んでいたという。
山頂の上にポツンとある三角点にもいろんな歴史のロマンが感じられる。
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