記録ID: 3440415
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ハイキング
京都・北摂
山科から大文字・銀閣寺・哲学の道経由で蹴上まで
2018年12月15日(土) [日帰り]


体力度
2
日帰りが可能
- GPS
- 04:33
- 距離
- 10.2km
- 登り
- 428m
- 下り
- 426m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2018年12月の天気図 |
---|---|
アクセス |
写真
琵琶湖疎水:当時、第三代京都府知事により、大学を出たばかりの田邊朔郎土木技師によって作られました。新社会人に大事な仕事を任せられたのは、当時は大学を出るという事が、かけ離れた技術・能力を持っている証だったのでしょう。冬だからか、疎水の水は少ないです。
毘沙門堂。毘沙門天(武神)を祀ってます。703年創建当時は御所の北にあった由緒ある天台宗の寺院ですが、1665年にこの地に映りました。ご本尊の毘沙門天は、最澄の自作と伝えられているとのこと。
山の中にこんな祠が出てきました。山の中の窪地にあったのですが、どうも、ここには昔は、大きな池があったようです。今は、埋まってしまって、この祠に向かって左側に小さな水たまりがあるだけです
ほどなく、大文字山山頂に到着。いい景色です。昔はこんなに山頂は景色がいいことはありませんでした。毎年お盆の8月16日に行われる大文字の送り火、いつから始まったのかは、よくわからないようですが、明治時代にはすでに行われていたという記録はあるようですので、それでもずいぶんと長い歴史があります
火床からの京都の街並み。見ていて、突然頭に浮かんだのは「これだけの人が住んでいて、しかも自分たちで食料を作ってないのだから、大量の食糧の供給ができる物流基盤があるんだなぁ。。。」という事でした
千人塚とあります。第二次世界大戦末期、高射砲を設置のため、ここに穴を掘ったところ、室町の末期、中尾城(この地にあった)の足利義輝が三好、松永の軍と戦って破れたときの兵士の遺骨と思われる大量の骨が出て、この石碑が立てらてたようです。一部の人間の欲のために、多くの人が死ななければならないのは、昔も今も変わらないのでしょうか?
千人塚とあります。第二次世界大戦末期、高射砲を設置のため、ここに穴を掘ったところ、室町の末期、中尾城(この地にあった)の足利義輝が三好、松永の軍と戦って破れたときの兵士の遺骨と思われる大量の骨が出て、この石碑が立てらてたようです。一部の人間の欲のために、多くの人が死ななければならないのは、昔も今も変わらないのでしょうか?
哲学の道にある、西田幾多郎の詩。「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を吾は行くなり」。他人は他人であって(自分ではない)、我こそ我である。だから、(他人と比較することなく)自分の道を信じて進めばよい、という意味のようです。心に響きます
哲学の道を歩いて、若王子(にゃくおうじ)神社まで来ました。ちなみに、この神社を通って裏手に通じる山を登っていくと、同志社の創立者の新島襄とその妻八重(大河ドラマ:八重の桜の主人公) の墓があります
感想
山科から大文字に行くことにしましたが、ルートは台風の影響でまだまだ荒れているようす。だが、調べたところ、ある方が通られたルートはあまりあれている様子はなさそう、ということで、参考にさせてもらい、ルートを確認しながら歩きました。本来?の登山ルートが、今回歩いたルートのすぐそばにもあり、ところどころ観察しましたが、まだまだひどい荒れようの所が多いです。えむけんさんのルートをあるところはたどり、あるところは通常のルートに戻るなどして、大文字山に到着。銀閣寺、哲学の道を通って蹴上から地下鉄に乗って借りました。(コメントは写真に)よかったらご覧ください。
[天候]
途中、みぞれが降ってきて、その後晴れました。
[水]
水は、2ℓもっていきましたが、コーヒブレイクでの1杯のみで、大量に余りました。
(昼食は、鍋焼きうどんで、出汁付でしたので、水・お湯不要なのを忘れてました)
[服装]
登りは、ウールの長袖アンダーシャツ+半袖夏のTシャツで、十分。但し風が強いと風よけのウインドブレーカが必要でした。
下りは、同アンダーシャツ+同半袖Tシャツ+フリース
下は、CWX+夏にも着てる一張羅の登山用ズボン
カッパは不要。
[ガス使用量]
177g - 168g = 9g
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