森林軌道跡から野根山街道須川山へ

- GPS
- --:--
- 距離
- 10.8km
- 登り
- 645m
- 下り
- 648m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2014年05月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
[道路状況] 須川川沿いの最奥の集落・野口を過ぎる(野口橋を渡る)と未舗装の須川林道になる。須川林道から分岐する林道は地形図(奈半利)では破線になっている。 その林道が樹林帯を抜け出し、周囲が開けた地をほどなく行くと路面が極端に荒れてくるが、その手前の路肩に駐車する。一応方向転換ができる広さはある。 [コース状況] 前述の樹林帯を抜け出す手前から、林道は魚梁瀬森林鉄道須川線廃線跡と重なる。 林道終点先にある橋梁跡の沢を横断する箇所は、特に帰路、注意を要する。廃線跡は所々土砂崩れや路盤の崩落があり、大規模な路盤崩落地は、適当に斜面を藪漕ぎして上部の廃線跡に出る。 廃線跡終点から須川林道に出るまでは、道なき斜面の猛ブッシュの急登となるので、リップストップ等、引き裂き強度の優れた衣服を着用した方が良い。野根山街道や米ケ岡からの復路については、危険箇所や藪はない。本コースの登山グレードは中級者以上向き。 |
写真
感想
[魚梁瀬森林鉄道須川線廃線跡〜野根山街道〜須川山〜野根山街道〜無名古道〜須川線廃線跡]
魚梁瀬森林鉄道須川線とは、全国的に有名な魚梁瀬森林鉄道本線(安田川線と奈半利川線)の支線の一つで、基点は奈半利川線と同じ奈半利貯木場。国道沿いにコンクリート橋台や軌道跡小径が残っている。
軌道は昭和3年から敷設・延長されていき、最終的には総距離、約13.4kmになった。廃線になったのは昭和39年。
国道沿いに残る廃線跡は、須川川沿いに入り、コンクリート橋で川を渡ると車道に吸収される。
野口橋の次の橋から北に入る小径が廃線跡だが、砂防ダムや上部の林道工事で廃線跡はすぐ消滅する。
須川林道から北に折れる林道を200mほど行くと、右手に森林鉄道藤谷線廃線跡が分岐するが、そこから須川線廃線跡は再び林道に重なる。
路面が極端に荒れた手前に駐車し、歩き始めるが、数分で路面に右手斜面の伐採された木々の枝が敷き詰められ、歩きにくくなる。
その木々が終わると右カーブでヤブを抜ける。眼前、沢の向こう岸に軌道の石垣橋台が見えている。そこは橋台の右手から這い上がるが、復路は注意したい。そこから先はしばらく廃線跡小径は歩き易くなり、谷風もそよいで気持ちいい。
左下の須川川を見ていると、渡渉路としても利用されていた細い堰が現れるが、その百数十メートル上流が、復路の渡渉地点なので、覚えておくように。但し、雨後の増水時は渡渉しづらくなる。
572m独立標高点北方に水線が描かれているが、本来、軌道はこの沢と須川川との出合いの少々手前で、右ヘアピンカーブを描き、向きを反転させていた。しかし出合から少々手前の地点で軌道の路盤が長い距離に亘って崩落しており、廃線跡の痕跡は消える。私は消失地の急峻な崖を這い上がったが、少々引き返して、登り易そうな所から斜面を上がるといいだろう。但し、あまり引きかえし過ぎると、上部の廃線跡に出られない。
上部の廃線跡に出ると当然右折するが、ほどなく左急カーブを描き、進路を戻す。そのカーブ部には枕木が残っている。
前述の水線の沢まで来ると、再び石垣の橋台が現れる。こちらの沢は落差がないので、簡単に渡渉できる。
そこから数百メートル進むと、軌道跡の幅員が広がり、藪化する。その藪を抜けると再び右ヘアピンカーブとなり、カーブの先は石垣による擁壁の切通しになっている。
ほどなくまた左ヘアピンカーブとなり、向きを戻す。カーブ部の路盤は低い石積みになっている。
更に数百メートル進むと、またも右ヘアピン、左ヘアピンが続くが、左ヘアピンを曲がった先に、石造の隧道が現れる。この廃線跡では一番のポイント。そして内部後半の路面には枕木も現れる。
軌道跡は554.1m三角点の北西辺りで、伐採された木々に覆われ、非常に歩きづらくなる。足がズボッと入ってしまうほどで、藪漕ぎも要する。
これがなくなる辺り、須川川の向こう岸に取水タンクが見えるが、そうすると再び路盤消失や藪化で、対岸に渡ることになる。が、すぐ対岸も歩けるスペースがなくなり、黒い塩ビの導水管に沿って再び須川川を渡り直す。そこからはまた比較的歩き易くなるが、軌道跡の幅が極端に広くなった場所が軌道の終点。
そこから地形図の破線の道が残っているのでは、と思っていたが、出水で路盤諸共消失しており、切り立った岩盤が行く手を遮っている。
仕方ないので、川を渡り、斜面を若干上流向けて歩いた後、こちらも川沿いの斜面が急峻になったため、そこから斜面を適当に藪漕ぎして上った。
須川林道に出ると左折、ほどなく野根山街道の上り口に至る。野根山街道は藩政時代前期の参勤交代道である土佐東街道(国道55号の前身)中、最も古道が長い距離に亘って残っている街道。毎年1月3日には全コースを踏破するイベントが開催されている。最近、この道を坂本龍馬も歩いていたことを各種伝承から突き止めた。
街道は四国のみち(四国自然歩道)としても整備されているが、そこそこの傾斜。それ故、滑らないよう、石畳も藩政期に敷かれている。
高度620m位で二里塚が現れる。一里塚というのが普通だが、これは飽く迄野根山街道に於ける呼称。里程の基点は街道の出発地、奈半利の番所。
二里塚は右手の塚はきれいな状態で残っているが、左側の塚は崩れ気味。
高度760m地点右手には六部様という祠とベンチが現れる。六部とは六部回国遍路のこと。この遍路は水に餓え、亡くなったというが、息絶える時、金剛杖で突いた所から水が湧き出たという。また一説には、鉄砲で射殺されたとも言われ、その弾が昭和21年時、側の木を伐採した際、中から発見されたという。
高度800m地点右手にはお茶屋跡の二段の石積みが残る。これは参勤交代時の土佐藩主の休憩所跡。街道には六ヶ所ほどあった。
そこから少々上がった右カーブ左手上に「笑い栂」の枯れ木がある。嘉永年間、米ケ岡の杣人、浜渦寿之助がこの木の根元で休んでいると、頭上から「深山におる」という声がした。しかし見上げても誰もいない。そのうち、笑い声が聞こえてきた。そこで寿之助も少し笑い声を上げてみると、今度は更に大きな笑い声になった。
寿之助は怖くなって一目散に帰ると、足の指が全て切断されていたという。この昔話の教訓は「笑うかどには鬼きたる」ということだろうか。
もうそろそろ須川山(別称:栂の森・876.4m)山頂も近いはず、と思っていると、「宿屋杉3.1km・白石神社3.4km」の道標が現れた。その背後には踏み跡が続いていた。これを2分も登るとあっけなく山頂。三角点の再測量のためか、三角点周囲の植林は伐採されていた。しかし無名峰の宿命、展望はない。四国一のピークハンター、MH2氏の登頂記念板もない。余談だが、近年、MH2氏の後継者的存在、キティ山岳会の登頂記念板が高知県の有名・無名峰を席巻しつつある。
帰路は須川林道が街道を横断している箇所まで戻り、そこから街道沿いの集落、米ヶ岡を目指して下って行く。ここからの下りは起伏が少なく、上り時も苦労はない。
途中、道を間違えそうな道標があった。それは「遊youの森」という標識付近の四差路。米ヶ岡への道は直進する道だが、その道標は、まるで右折するかのような向きになっている。これは如何したことか。
街道の米ヶ岡登山口に下り立ち、車道を進むとほどなく、歩道との分岐が現れた。どう考えても街道は直進する歩道の方だが、四国のみちは白石神社の方へ迂回する車道をコースにしている。これは地権者が四国のみちに指定することを拒んだためだろうか。
本来の街道は水路沿いを直進する。右手にはシャガの小群落もある。
しかしこの古道も数分と経ず車道に吸収される。そこから右手に二軒ほど過ぎると、便所の道標が立つ三叉路があるが、ここで街道跡道路と分かれてその便所方向に左折する。生活体験学校西のトイレで用をたすと、学校下から右急カーブを描き、南西に進む未舗装車道を行く。
この道は公園を過ぎると、コンクリート車道の三叉路に出る。が、ここは車道化される前は十字路だったことが想像される。三差路のすぐ東から、畑沿いを南に下る野良道があるからだ。この野良道を下ると歩道の三叉路に出る。ここは南東に折れる。
最初は竹藪だが、雑木や植林になると明瞭な道になる。山腹の道を何分か下ると、谷状地形の三叉路に出る。ここは右後方に折り返す。
やがて道はコケの生えたガレ場っぽくなり、不明瞭になるが、すぐ須川沿いの小径に下り立つ。そうするとすぐ渡渉する。往路の廃線跡はすぐ上である。
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